紅蓮仙途【第43話】失敗と工夫 【第44話】火を掴む
【第43話】失敗と工夫
夜の山間は、人の気配を拒むように冷え込んでいた。深い谷間を吹き抜ける風は氷のように鋭く、葉擦れの音が夜空の静けさをさらに際立たせている。頭上には無数の星が散らばっているが、その光は深い森を照らすにはあまりにも心許ない。世界そのものが眠り、闇に包まれているような夜だった。
谷底に近い小さな平地に、焚き火の赤い光がひとつ揺れていた。炎が周囲の岩肌や木々を赤く照らし、影が生き物のように伸び縮みしている。その炎の前に、蓮弥は正座をしていた。
額には汗が浮かび、呼吸は少し荒い。霊力を指先に集めようと試みては、失敗を繰り返しているからだ。彼の周囲には、指先から飛び散った火花で黒く焦げた小石が点々と転がっていた。
「……ふっ!」
蓮弥は丹田から霊力を糸のように引き出し、右手の指先に集中させた。だが、次の瞬間――。
ぱちんっ!
乾いた音とともに小さな火花が弾け、制御を失った炎が跳ねた。火は瞬く間に散り、彼の膝元の地面に黒い焦げ跡を残すだけに終わった。
「また、ダメか……」
吐息混じりの声が夜の冷気に溶けていく。蓮弥は手を下ろし、痺れる指先をじっと見つめた。
「火は力じゃない、制御だ……師匠はそう言ったのに。」
彼の脳裏には、昼間の修行でシュウ廉が示してくれた見事な火の術の数々が蘇る。鳥や馬の姿をした炎が空を駆けた光景は、まるで夢のようだった。しかし、同じ「火」を操るはずの自分の術は、こうして小さな火花を散らすのが精一杯だ。
「俺は……本当に火を操れるのか?」
自嘲気味な言葉が喉をつく。だが、すぐに首を振り、その考えを打ち消した。
――諦めるわけにはいかない。
蓮弥は深呼吸をし、姿勢を正した。膝に置いた掌を合わせ、瞼を閉じる。夜の空気は張り詰めて冷たいが、その冷たさが彼の心を落ち着かせていく。
耳を澄ませば、遠くで川のせせらぎが聞こえる。その音に合わせるように、彼は呼吸を整え、霊力を少しずつ丹田から引き出した。
――炎は敵ではない。
――押さえつけず、導くのだ。
何度も師匠の言葉を思い返す。川の水が器の形に従って流れるように、霊力も自然に指先へと導く。その感覚を掴もうと意識を集中した。
そして――。
指先に、豆粒ほどの小さな火がぽっと灯った。
「……よし。」
慎重に呼吸を整え、炎を保とうとした。炎は小さいながらも確かな存在感を放ち、焚き火の赤い光とは異なる、生きた霊気を宿した光だった。
だが、次の瞬間――。
「少し大きく……!」
霊力を強めた途端、炎はぱちんっと爆ぜるように弾け飛び、火の粉が宙に散った。熱が頬をかすめ、髪の先が焦げた匂いが漂う。
「うわっ!」
慌てて頭を手で叩き、火の粉を払い落とす。焦げた匂いが辺りに漂い、蓮弥は情けないため息を吐いた。
「ぎゃはははっ!」
岩の上に座って見ていたルナが尻尾を振りながら笑い転げている。月明かりと焚き火の光を受けて、彼女の金色の瞳がいたずらっぽく輝いた。
「蓮弥っち、頭がちょっと焦げてるぞ!」
「うるさい……」
赤くなった顔を袖で隠しながらも、蓮弥は笑いを堪えた。ルナの尾が焚き火の光を反射してゆらゆらと揺れる姿は、まるで闇夜の中の妖精のようだった。
「でもさ、今の火、前よりは長持ちしたじゃん?」
ルナは茶化しながらも、励ますように声をかけた。その言葉に、蓮弥は小さく頷く。
――そうだ、少しは進歩している。
彼は再び膝を正し、丹田へ意識を沈める。次に灯す炎は、大きくする必要はない。ただ安定した炎を保つことが目標だ。
ろうそくの炎を想像する。小さな風でも揺れるが、簡単には消えない炎。呼吸のたびに膨らみ、そして縮む、穏やかな光。その姿を頭に描き、霊力を細く、慎重に送り込む。
指先に現れた炎は、さっきよりも穏やかに揺れていた。赤い光が彼の顔を照らし、汗の粒が小さな星のように輝く。
「……できた。」
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、炎が小さく震え、すっと消えた。
「ふぅ……」
しかし、その顔には落胆の色はなかった。むしろ口元には微笑が浮かんでいる。
「少しずつ、工夫すれば……必ずできる。」
彼は呟き、指先をじっと見つめた。
――火は友にもなれば、敵にもなる。その違いを決めるのは、お前の心だ。
昼間、師匠の声で聞いたその言葉が、焚き火の音とともに胸の奥で響く。
「焦げくさいけど……まあ、成長してる証拠だな。」
ルナが焚き火のそばに丸まり、尻尾を揺らしながら笑った。その言葉にはいつも通りの茶化しもあったが、瞳には真剣な光が宿っている。
「ありがとな。」
蓮弥は小さく礼を言った。失敗は悔しい。しかし、その悔しさが次の工夫へと繋がる。呼吸の仕方、霊力の流れ、心の静けさ――全てが今、彼を鍛える試練だ。
谷間の夜はまだ長い。だが、その長さこそ修行のために与えられた時間だと蓮弥は感じていた。再び深く息を吐き、丹田に意識を沈める。
焚き火の赤い炎が静かに揺れる中、蓮弥の指先にまた小さな火花が灯った。それは弱々しくも、確かに未来への道を照らす光だった。
【第44話】火を掴む
朝霧が山の谷間を淡く包み込み、世界を白い薄布で覆ったかのようだった。遠くの梢では鳥のさえずりが細やかに響き、冷えた朝の空気を震わせている。蓮弥は岩場に腰を下ろし、吐息を静かに吐いた。肌を撫でる風はひんやりとしているが、胸の奥で燃える決意の火はその冷たさを跳ね返していた。
――今日こそ、もう一歩進む。
昨夜の失敗の数々が脳裏に蘇る。指先に炎を灯すことすらままならず、何度も爆ぜた火花で髪の先を焦がし、ルナの笑い声を浴びた。それでも、あの一瞬だけ見えた小さな成功の光――あれは幻ではない。きっと掴める。
蓮弥は膝に置いた掌を静かに返し、丹田に意識を集中させた。体の奥底で眠る霊力を、呼吸に合わせてゆっくりと練り上げる。深く息を吸い、細く吐き出すたび、霊脈を流れる力が指先へと集まっていく。
指先にぽつりと赤い光が生まれた。昨夜よりも揺らぎが少なく、しっかりとした芯を持った小さな炎だ。
「……よし、安定してる」
呟いた声に応えるように、枝の上からルナが尻尾をゆらしながら覗き込む。
「おっ、いい感じだな!昨日みたいに爆発するなよ?」
蓮弥は苦笑を浮かべ、火玉に視線を戻した。
――火をただ灯すだけでは術とは呼べない。動かせてこそ、初めて術となる。
蓮弥は慎重に指を前へと伸ばし、火玉を押し出そうとした。だが炎は不安定にふらつき、そのまま地面に落ちて消えた。
「……くそっ、難しいな」
額に汗がにじむ。彼は肩で息をしながら、師の声を思い出した。
――火は風に似る。掴もうとすれば逃げ、導けば自然に従う。
「掴むんじゃない……導くんだ」
己に言い聞かせるように呟き、蓮弥は目を閉じた。頭の中で火の流れを思い描く。丹田で渦を巻く霊力を川の水に見立て、指先まで穏やかに運ぶ。炎は彼の心に従い、再び指先に灯った。
今度は炎に力を加えるのではなく、そっと風を送るように霊力を添え、前へと滑らせる。火玉はふらつきながらも、今度は空中を漂うように進み、数歩先まで漂った。
「……動いた!」
その一瞬の成功に、蓮弥の胸が高鳴る。木の枝の上でルナが小さな前足を叩いて喜びの声をあげた。
「やったな!ほらほら、次は形変えてみろよ!」
「形……か」
蓮弥は唇を引き結び、再び火を生み出した。今度はその炎を細く伸ばし、剣の刃のような形にしようと試みる。だが、わずかに力みすぎた。火は歪み、鋭い破裂音と共に爆ぜ、顔に熱気がかかる。
「っ……!」
思わず目を細め、熱に赤らむ頬を手で覆った。
――力じゃない。形を押しつけるのではなく、流れを変えるんだ。
蓮弥は膝をつき、再び深呼吸を繰り返す。火を無理やり操ろうとしても暴れるだけ。彼は頭の中で、風に揺れる火の帯を思い浮かべた。細い鳥の羽根のような炎――その姿を心に重ね、指先へと霊力を送り込む。
ふわりと炎が舞い上がる。火玉は一瞬、羽根のような形を取った。赤と橙の光が朝霧を照らし、その美しさに息を呑む。
「……できた……!」
それはほんの数秒の奇跡だった。だが確かに、炎は形を変えたのだ。
枝の上から飛び降りたルナが目を丸くして駆け寄る。
「おおっ!今の見たぞ!蓮弥っち、羽になったじゃん!」
蓮弥は小さく頷き、指先の余熱を感じながら炎を消した。
「まだ不安定だけど……確かに一歩進んだ」
指先は熱を帯び、霊力は消耗している。だが胸の奥に広がる達成感は疲労を凌駕し、全身にじんわりとした熱を宿した。
――火を掴むのではなく、火を導く。
今、手に入れた感覚は確かなものだ。蓮弥は拳を握り締めた。
「よし……今日はここまでにしよう」
肩の力を抜き、蓮弥は岩に背を預ける。谷間を抜ける風が火照った頬を撫で、霧が肌に優しく触れた。
ルナは彼の隣に座り、満足げに尻尾を揺らしている。
「なあ、蓮弥っち。なんかお前、ちょっと修行っぽくなってきたな」
「修行だからな……」
冗談を返しつつも、蓮弥の目は真剣だった。小さな炎が心に宿り、静かに燃え続けている。その火は、これからの修行の道を照らす灯火だ。




