紅蓮仙途 【第411話】夢山の少女 【第412話】前世の縁
【第411話】夢山の少女
丹心宗の山門の下、朝霧がまだ消え残るころ。
迅は新しい衣を整え、胸の内に抑えきれない高鳴りを抱えていた。
入門してから一年。毎日、丹田を磨き、呼吸を整え、ようやく――築基期に到達した。
今日が、その初任務の日だった。
任務は「北嶺村の妖怪退治」。
宗主・清蘭から手渡された任務書には、墨跡もまだ新しい文字でこう記されていた。
> 『夜ごとに牛を喰う妖あり。村人の恐怖を鎮めよ。』
迅は胸を張り、にやりと笑った。
「ようやく……俺も一人前だ!」
初めての単独任務。
胸の奥で、少年のような喜びが弾ける。
師の龍華から「任務とは誇りであり責務だ。決して浮かれるな」と釘を刺された言葉も、今は遠くに霞んでいた。
――妖怪退治。
それは修士としての初めての試練であり、己が力を示す場でもある。
◇
北嶺村は、丹心宗の山から北東に二日の距離にあった。
山と川に囲まれた、穏やかな村。
しかし近ごろ、夜な夜な牛や犬が襲われ、血を抜かれるという。
村長が差し出した線香の煙が、薄く揺れた。
「どうか……どうか、村を救ってくださいまし。」
迅は軽く頷き、結界符を広げて夜を待った。
やがて月が昇り、草の影が揺れる。
――その瞬間、空気が変わった。
風が止まり、獣のような息遣いが聞こえる。
「……来たな。」
迅は印を結び、掌に霊力を集めた。
草むらの奥、赤い目が光る。
「《火蛇の印》!」
炎が蛇の形を取り、闇を走った。
獣のような影が悲鳴を上げ、黒煙を上げて崩れ落ちる。
焦げた臭いが夜風に流れた。
迅は肩で息をつき、笑みを浮かべた。
「……思ったより簡単だったな。」
初めての任務、成功。
胸の奥で誇らしさが膨らむ。
◇
翌朝。
任務を終えた迅は、帰路についた。
しかし途中で、ふと視線を奪われた。
前方にそびえる、一際高い山。
頂は雲を突き、風が笛のように鳴っている。
不思議と心が惹かれた。
「……いい眺めだな。少し登ってみるか。」
草の匂い、鳥の声。
空気は清らかで、歩くほどに心が軽くなる。
やがて山頂近くに達したとき、岩に腰を下ろした。
疲労がどっと押し寄せ、目が自然と閉じる。
「少しだけ……休もう……」
そのまま、彼は夢の中に落ちていった。
◇
――夢を見た。
自分は丹心宗の修士ではなかった。
村の片隅に暮らす、ごく普通の少年。
薪を拾い、川で魚を捕り、日々を穏やかに過ごしていた。
ある日、いつものように山に入ると――少女がいた。
小川のほとりで花を摘んでいたその少女は、白い衣をまとい、月のように透き通る顔をしていた。
その顔を見た瞬間、迅の胸は跳ね上がった。
(……月詩姉ちゃん?)
丹心宗で世話になっている月詩と、あまりにもよく似ていた。
けれど、年はずっと若い。十六、いや十五か。
「あなた、誰?」
少女が微笑む。
「僕は……薪拾いの迅。君は?」
「私は……この山に住む者。」
少女は名を名乗らなかった。
けれど、彼女の声を聞くだけで胸が温かくなった。
それから、日々が続いた。
迅は毎日山に通い、少女と会話をした。
花を摘み、川で遊び、時には並んで歌った。
――その時間が、何よりも幸せだった。
ある日、夕暮れの中で、迅は勇気を出して言った。
「……俺、君のことが好きだ。」
少女は驚いた顔をして、それからゆっくりと笑った。
「もし、生まれ変わっても、また会えると思う?」
「もちろん。来世でも君を探す。今度は……結婚しよう。」
少女の頬が赤く染まった。
「約束ね。」
二人は手を取り合い、夕日に誓いを立てた。
風が、花の香りを運んでいた。
――その時までは、すべてが穏やかだった。
だが、突然、空が暗転した。
山が揺れ、風が凍りつく。
少女が悲鳴を上げ、膝をついた。
「どうしたんだ!?」迅は駆け寄る。
だが、少女の体が震え、瞳が赤く光り始めた。
白い肌が黒い紋様に覆われ、爪が伸び、牙が覗く。
「……やめろ、やめてくれ!」
少女は顔を覆い、泣きながら叫んだ。
「逃げて……迅……! 私、もう人じゃないの!」
だが、足がすくんだ。
愛したはずの少女が、異形へと変わっていく光景――
心が裂けるほど、恐ろしかった。
「嘘だ……嘘だろ……!」
叫び声が山に響く。
少女は最後に微笑み、涙をこぼした。
「……ごめんね。」
黒い風が吹き荒れ、世界が崩れた。
◇
迅は、はっと目を覚ました。
朝の陽が木々の隙間から射し込み、鳥がさえずっている。
額には汗がにじんでいた。
「夢……か。」
胸の奥が、妙に痛い。
見たこともない少女。けれど、その顔も声も、はっきり覚えている。
彼は立ち上がり、深く息を吐いた。
「変な夢だ……」
それでも、足を止めたまま、しばらく空を見上げた。
雲が流れ、風が吹く。
――そのとき、微かに聞こえた。
「約束、覚えていてね……」
耳の奥で、誰かの声が囁いた気がした。振り返ると、風に揺れる草花がひとつ、淡く光っていた。
迅は目を伏せ、静かに歩き出した。二度とその山を振り返ることはなかった。
けれど、彼の心のどこかで――あの“夢山の少女”は、いつまでも微笑んでいた。
【第412話】前世の縁
夜の帳が丹心宗の山門を包み、竹林が風に鳴った。
寝台の上で、迅は息を荒げて目を覚ました。
額に冷たい汗が流れ、胸の奥が痛む。
――また、あの夢だ。
月詩姉ちゃんの顔をした少女が、涙を流しながら遠ざかっていく。
何度手を伸ばしても、触れることができない。
そのたびに、心臓が引き裂かれるように疼く。
(どうして……こんな夢ばかり見るんだ。)
任務から戻って以来、毎夜同じ夢を繰り返している。
妖を斬った感触よりも、少女の涙のほうが鮮明に残る。
罪悪感が、重く心を圧して離れない。
ついに迅は、耐えかねて寝台を抜け出した。
月が冴え渡り、霜のような光が石畳を照らしている。
彼は夜風の中を歩き、師・龍華の庵へと向かった。
◇
庵は宗門の前庭にあり、青璃霊木が枝を広げていた。
夜の光を受けて、青黒い幹が淡く輝く。
庵の中では、龍華が炉の前で茶を煮ていた。
金糸の衣の袖が静かに揺れ、湯気の中に仙気が漂っている。
「……師匠。」
迅は一礼した。
龍華は顔を上げ、穏やかに言った。
「眠れぬか、迅。」
迅は夢のすべてを語った。
山で出会った少女、月詩に似た顔、妖に変わる姿――
話し終えると、庵に静寂が満ちた。
やがて龍華がゆっくりと口を開いた。
「……思い出したのだな。」
「思い出した?」
「前世の記憶を、だ。」
迅は息を呑んだ。
龍華の瞳は深い湖のように静まり返っている。
「おまえは前世、“晴樹”という名で生きていた。
そして月詩――あの娘とは、前世で恋仲だった。」
迅の脳裏に、夢の少女の笑顔が閃いた。
彼女の涙が、祈りが、すべて繋がる。
「……月詩姉ちゃんと……俺が……?」
龍華は頷いた。
「凡人であったおまえと、修仙者だった彼女。
結ばれることは叶わなかった。
だが、二人は約束した。“来世で再び会おう”と。」
「……月詩姉ちゃんは、今も――?」
「生きている。」
龍華の声は静かだった。
「彼女は修仙を極め、今も丹心宗にいる。
おまえの“姉弟子”として、だ。」
迅は立ち尽くした。
毎日顔を合わせ、笑い合い、修行を共にする彼女――
まさか、あの人が前世の恋人だったとは。
「……彼女は、覚えているのですか?」
「覚えておる。」
龍華は茶を注ぎながら答えた。
「だが、おまえが晴樹の転生であることには気づいていない。
彼女はいまだに“晴樹”を探し続けている。」
迅は拳を握った。
月詩姉ちゃんが、ずっと……自分を探していた。
外の風が青璃霊木を揺らす。
龍華は盃を手に取り、静かに言葉を続けた。
「迅。前世の縁は、千年経とうと滅びぬ。
だが、今世には今世の道がある。
前を向くか、過去に縋るか――それを選ぶのはおまえだ。」
迅は深く息を吸い、胸の奥を見つめた。
夢の中の少女は泣いていた。
だが今の月詩は、あの日の彼女ではない。
彼女はこの世界で修行を続け、丹心宗の弟子たちを導く存在だ。
(俺も、もう過去の影に縛られるべきじゃない。)
迅は静かに立ち上がった。
「師匠……俺は決めました。」
「うむ。」
「俺は――前世の恋よりも、今の恋を選びます。」
龍華の唇が僅かに笑んだ。
「それでこそ、迅だ。」
◇
夜明け前、山に白い霧が立ちこめる。
修行場には、剣を振るう月詩の姿があった。
風が衣を舞わせ、霊光が刃を照らしている。
迅はそっと歩み寄り、息を整えた。
「……月詩姉ちゃん。」
彼女が振り返る。
「おはよう、迅。早いわね。」
迅は真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「姉ちゃんに、話したいことがある。」
月詩は剣を収め、微笑を浮かべる。
「どうしたの?」
「俺……前世のことを思い出したんだ。」
月詩の瞳がわずかに揺れた。
「……前世?」
迅は深く頭を下げた。
「俺の前世の名は、“晴樹”。
姉ちゃんの……かつての恋の相手だ。」
静寂が流れた。
竹の葉が風に鳴る。
月詩の手が小さく震えた。
「……本当に……晴樹、なの……?」
迅は頷いた。
「けど――俺は、晴樹としてじゃなく、迅として姉ちゃんを想いたい。
前世の約束じゃなく、今の心で……付き合ってください。」
その言葉に、月詩の瞳が潤んだ。
しばらくの沈黙のあと、彼女は微笑んだ。
「……うん。」
その一言に、夜明けの光が差し込む。
霧が晴れ、山の上に朝日が昇った。
過去は静かに消え、二人は新しい道を歩き始めた。
“晴樹と月詩”ではなく、“迅と月詩”として。
風が二人の髪を撫で、竹林がささやく。
赤い糸は、再び結ばれ、そして新たな色に染まっていく。
――それは、輪廻を越えた愛ではなく、
今この瞬間に生まれた、真新しい恋だった。




