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紅蓮仙途【第37話】【第38話】 西空澄み 荷重くも軽し 旅の道

【第37話】西への道


 洞窟の奥、岩肌に囲まれた炉の前で、蓮弥は静かに息を吐いた。掌にはじっとりと汗が滲み、額からも一筋の汗が頬を伝う。目の前の小さな光炉は、昨日と同じ手順を踏んだはずなのに、熱気の流れがどこかぎこちない。


「……くそっ」


 思わず唇の端から声が漏れる。


 炉の中で黄金色のはずの薬液が不穏に泡立ち、甘やかな香りのはずの蒸気が焦げ臭さを帯びた。瞬く間に色が濁り、表面は黒く硬く固まっていく。やがて、炉の底には見るも無残な塊が転がっていた。


「焦るなと言ったじゃろうが」


 背後から響いたのは、魂だけとなった丹薬師――シュウ廉の声だ。その声音には叱責の色こそあれ、どこか諦め混じりの穏やかさもあった。


 蓮弥は歯噛みしながら、固まった薬の欠片を指先でつまみ上げ、ため息をつく。

「戦場なら速さが命だが……こればかりは逆だな」


 この七日間、失敗の山を積み上げてきた。熱が足りず薬効が抜けたこともあれば、混ぜすぎて気の流れを乱したこともある。焦りが出れば薬は焦げ、慎重すぎれば薬は死ぬ。丹薬作りは蓮弥の知るどの戦いよりも繊細で、忍耐を要する修練だった。


 それでも、蓮弥は座り続けた。夜は冷たい石床に背を預け、昼は光炉に向かい、ひたすら手を動かす。薬材を選ぶ手つき、呼吸の調子、炉に流す霊力の温度――そのすべてを身体に刻み込むように、失敗の一つひとつを糧として。


 七日目の朝、洞窟の奥に淡い光が差し込み始めた頃、炉の中で微かな変化が起こった。


 薬液から立ち上る蒸気が柔らかく、光を帯びている。焦げ臭さも濁りもない、清らかな香りが岩窟を満たした。蓮弥は息を詰めて炉の中を覗き込み、小さな丹をそっと取り出した。


 その丹は薄紅色に透き通り、ほのかに温もりを宿している。初心者向けの回復丹――最も基本的な薬だが、自らの手で初めて完成させた作品だった。


「……できた、か?」


 自分の声が洞窟に小さく響いた。背後で見守っていたシュウ廉は静かに頷き、口元に僅かな笑みを浮かべる。

「ようやく形になったな。これでお主も、丹薬師の門前には立ったというところだ」


 蓮弥はその言葉を胸に刻み、深く頭を下げた。

「……ありがとう、老師」


 「老師」という呼び名に、シュウ廉の表情が和らぐ。

「老師か。ふむ、悪くない響きじゃ」


 翌朝、二人は洞窟を後にした。


 西へ――シュウ廉の故郷を目指して。


 洞窟を出る前に、蓮弥は入り口一帯に複雑な法陣を描き直した。符を埋め、霊石を配置し、外界の視線を遮る隠蔽の術を施す。この場所は修練の地であり、何度も失敗を重ねてようやく丹を生み出した思い出の地でもある。いつかまた戻ることになるだろうと、蓮弥は予感していた。


 山を下りる道は険しく、湿った苔が滑りやすい。谷底からは水の轟音が響き、山鳥の鳴き声が森の奥からこだまする。


「若造、足元をおろそかにするなよ」


 魂となった老師は軽やかに先導しながらも、細かい注意を忘れない。蓮弥は慎重に足を進めつつ、背負った荷の重みを改めて感じた。荷には薬材の入った壺、道具一式、そして旅のための乾糧が詰まっている。鍛錬のため体を鍛え抜いてきた蓮弥でも、険しい山路の連日の行軍は骨が折れた。


 三日後、山脈を抜けると景色は一変した。


 目の前には果てしなく続く荒野と、遠くに霞む連山が広がっていた。乾いた風が頬を撫で、草木の影はほとんどない。

 シュウ廉はその広がる景色を眺め、懐かしむように目を細めた。

「西方の空気は、やはり東とは違うのう……」


「老師の故郷は、あの山々の向こうか?」


「ああ。あの山を越えた先には、我が門があった。だが、今はどうなっているか……」


 シュウ廉の声に一抹の陰りが差した。魂となった今、その地に何を見いだせるのか。だが蓮弥は言葉を挟まなかった。


 旅の途中でも、老師の教えは止まらなかった。


「この薬草は日光を嫌う。袋に入れるな、根を下にして布に包め」

「水を加えるときは必ず左手から注げ。右手では気が乱れる」


 歩きながらの教えは厳しく、時に蓮弥は立ち止まって草を採り、法陣を描き、仮の炉を作って火加減を確かめた。道中のあらゆる場所が学びの場だった。


 夜になると、荒野の空は満天の星で埋め尽くされる。焚き火の赤い炎が小さく揺らぎ、蓮弥は火のそばで老師の話に耳を傾けた。


「丹薬作りは気の制御だけではない。薬草を知り、火を知り、己を知ること。己の心が乱れれば、丹もまた乱れる」


 その言葉を胸に刻み、蓮弥は深く息を吸った。旅の道は長い。しかし、彼の目にはもう迷いはなかった。


 西方の山並みは日に日に近づいている。そこには、シュウ廉の過去があり、蓮弥の未来が待つ。



【第38話】山間の霊草


 西へと続く街道は、深い山々と谷を縫うように続き、霧が立ち込める朝には視界が数歩先しか利かなくなる。背負い袋の重みを感じながら、蓮弥は足元の石を踏みしめ、慎重に歩を進めた。前を行くのは小柄な狐――ルナ。その透き通るような毛並みと琥珀色の瞳は、朝陽を受けて煌めき、しなやかに動く尻尾が彼女の感情を映していた。


「ほら、蓮弥。早く早く!」


 ルナの声に、蓮弥は思わず笑みを浮かべる。彼女は今や完全な実体を得ており、毛の柔らかさや息遣いまで肌で感じられるほどだった。耳をぴんと立て、辺りの微細な音に敏感に反応する姿は、まるで山の精霊そのもののようである。


 その後ろには、老師シュウ廉の魂が淡い青白い光を放ちながら歩いていた。老人はルナに呆れ顔を向けつつ、口元にはかすかな笑みを浮かべる。


「霊草はな、ただの草とは違って己を隠す。目で追うだけでは容易に見つけられぬ」


「じゃあ、嗅ぎ分けるんでしょ?」ルナが鼻をひくつかせる。


「匂いと……気配じゃ。空気が澄んでおるのに、わずかに重く感じる場所があれば、そこが霊草の隠れ場所よ」


 蓮弥は足を止め、斜面に意識を巡らせる。霊力の流れと空気の微妙な違いを感じ取る──岩陰に、周囲とは異なる粘りある霊気が漂っていた。


「ここか?」


「おそらくな。だが油断するな」


 ルナは軽やかに岩の上へ飛び乗り、先端に鼻を寄せる。尾の先が微かに光を反射させ、岩の隙間から淡い青光が洩れていた。


「光ってるよ、ほら!」


 シュウ廉が低く告げた。

月光霊花げっこうれいかじゃ。花びらは上級丹薬にもなるが、掘り出す際に霊気を乱せばすぐ枯れる。慎重に扱うのじゃ」


 蓮弥は呼吸を整え、霊力を微かに流しながら手を差し入れる。土を払い、根元を包み込むように握り、力をかけすぎぬよう引き抜いた。光は一瞬ふっと弱まり、花は静かに掌に収まった。


「よし、まずは合格だ」


 その瞬間、低く唸るような音が背後から響き渡った。振り返ると、黄褐色の毛並みを持つ獣――牙虎が岩陰から姿を現した。肩までの高さは人の胸ほどあり、鋭い牙が朝陽を受けてきらりと光る。


「月光霊花を守る霊獣じゃな」シュウ廉の声には、なぜか楽しげな響きが混じる。


「うわ、大きい!」ルナは耳を伏せるが、怯えるより興味津々の瞳で牙虎を見つめた。


 蓮弥は拳を握りしめ、前へ出る。霊力を微かに流し、万一の攻撃に備える。


「蓮弥、気をつけて!あいつ、右足に力が入ってる!」ルナが声を張る。


 牙虎の筋肉が引き締まり、土を爪で裂きながら獣特有の低い唸りを上げた。地鳴りのように足音が響き、森の静けさを一変させる。


 蓮弥は霊力を前方に展開し、透明な防御壁を掌に結ぶ。同時に、ルナは鋭い目で牙虎の動きを読み、老師は霊力の流れを微かに調整して三人の連携を補佐する。


 牙虎が跳躍し、地を蹴るたびに小石が飛び散る。蓮弥は壁を持ち上げ、爪をかいくぐるように身を翻した。ルナは岩の上で器用に身をひねり、尾を振って障害物を避けつつ、空気の微細な変化を感知する。


 シュウ廉の声が響いた。

「気を散らすな、重心を意識せよ!霊獣は本能で動くが、気配を読む者には弱点がある」


 蓮弥は瞬時に重心を低くし、防御と攻撃の間合いを見極める。牙虎の目が鋭く光り、吐息が白く濁って地面を這った。


 岩陰の霊草が微かに揺れ、光がかすかに脈打つ。花を守る獣は強大であるが、焦りは禁物だ。蓮弥は拳の中に霊力を集め、牙虎の次の動きを予測する。


 そして──牙虎が大きく飛びかかろうとしたその瞬間、蓮弥は霊力を一点に集中させ、地面の法陣に触れた。光が四方に迸り、岩と霊獣を繋ぐ空気が微かに震えた。


 戦いの幕が静かに、しかし確実に開いたのだった。


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