紅蓮仙途 【第361話】氷結の倉庫 【第362話】闇牢の咀嚼音
【第361話】氷結の倉庫
崩れかけた山門を越え、なおも黒曜の道を進む。濃霧は絶えず足元を覆い、霊気は重苦しく沈殿していた。三人の呼吸は浅く、胸の奥を圧すような圧迫感がつきまとい、言葉を交わさぬまま歩みを重ねた。
やがて霧の帳がわずかに裂け、朧げな輪郭が浮かび上がる。右手には低い石壁に囲まれた小屋、左手には広く平らな屋根を持つ倉庫のような建物。いずれも古代の石材で築かれ、その表面には山門と同じく不可解な古字が刻まれていた。文字は燐光を帯びて揺らめくが、近づけば溶ける霧のように意味を掴ませない。
「ここも……宗門の一部か。」
蓮弥は足を止め、鼻をかすめる異臭に眉をひそめた。鉄の匂い――血の残り香。しかし血痕は風化して色を失い、ただ湿った冷気だけが漂っている。
まず右の小屋へと向かう。
半ば崩れた石扉を押すと、軋む音とともに内部が露わになった。そこは守備室のようで、床や壁には複雑な符紋が刻まれている。しかしそのほとんどは砕け、残留する法力が細く循環しているだけだった。耳を澄ませば、かすかな霊気の鳴動が聴こえる。それは、命を失った心臓が最後の鼓動を刻むように儚かった。
だが、室内は空虚。
机も棚も、記録も武具も影すら残さず、灰色の沈黙だけが支配している。
「……誰かが持ち去ったのね。」
瑠奈が膝を折り、床の傷跡に指をなぞる。そこには複数の靴跡が新しく残されていた。最近まで誰かが出入りし、確かに物が存在した証。だがそれを奪ったのは誰か――答えは一つではなかった。
三人の胸に、不可視の影が重く落ちる。
次に左手の倉庫へ。
近づいた途端、守備室とは異なる鋭い霊気が肌を打ち、髪先が逆立つ。扉には新しい陣式が張り巡らされ、青光を放って侵入者を拒む。
「古代の符ではない……これは最近の修士が編んだ陣。」
蓮弥が目を細め、霊力を指先に集める。瑠奈は符を展開し、セリナも杖に星光を宿して備えた。
蓮弥は八岐九飛刀を呼び出し、その一本に紫電を纏わせて結界の要を撃つ。刹那、青光が火花を散らし、陣が唸りを上げた。粗雑な繋ぎは二撃に耐えられず、蓮弥の霊力が二度目を叩き込むと同時に、結界は悲鳴のような音を残して崩壊した。
重い扉を押し開く。内部から、鋭い冷気が奔流のごとく溢れ出す。三人の吐息は瞬く間に白霧となり、肌を刺す痛みが全身を覆った。
倉庫内は広大で、しかし物は何一つない。だが奥へ進むほどに冷気は強まり、歩を進めるごとに骨にまで染み込む凍結が彼らを侵す。
やがて最奥――霧のような冷気を割って姿を現したのは、氷に封じられた三つの影だった。
「……桜羽!? 月詩! 迅!」
瑠奈が駆け寄り、氷壁を掌で叩く。透明な氷の中で三人は眠るように目を閉じ、わずかな呼吸を続けている。死ではない。しかしその法力の波動は尋常ではなかった。
セリナが杖を掲げ、星光を灯す。
「生気はある……これは凍結封印。生命を守るための結界だわ。」
瑠奈は頷き、冷炎を呼び出す。蒼白の炎が氷を覆い、内部の符を一つずつ焼き解す。氷が軋み、やがて鋭い音を立てて砕け散った。
三人は同時に地へ崩れ落ち、冷気に震えながら息をついた。桜羽が咳き込みながら目を開く。
「……蓮弥様……来てくださったのですね……!」
月詩も蒼白な顔を上げる。
「龍華長老が……奥へ進まれました。危険だと告げ、私たちをここに残して……封印を施したのです。」
迅が震える指で奥の壁を指し示す。
「龍華様は……紫雲宗の修士と共に……あの核心へ向かわれた……」
蓮弥は拳を握り、奥の闇を見据える。その先からは霊脈の唸りが轟き、獣の呼吸にも似た鼓動が響いていた。
「龍華が……一人で。」
瑠奈が小さく呟く。倉庫を覆った術式は、外敵を防ぐと同時に内部の者を保護する極めて高等な封印。それを施すほどに、龍華が察した危機は深刻だったのだ。
桜羽が震える声で懇願する。
「お願い……龍華様を……必ず連れて戻って……」
それを最後に、彼女は意識を失った。
瑠奈は再び氷の布を展開し、三人を覆う。簡易結界を重ね、命を守る術を整えた。
「これで……しばらくは安全よ。」
蓮弥は深く頷き、セリナと視線を交わす。
「龍華を追う。危険は……承知の上だ。」
「ええ。ここで立ち止まるわけにはいかない。」
彼らの前に伸びる暗い通路。その奥から吹き出す冷風は、千年の眠りを破った古龍の吐息のように荒々しく、三人の胸奥を震わせた。
崩れた倉庫の影に、燐光の古字が再び揺らめく。その光は、試練の始まりを告げる鐘の音のように――三人の心を鋭く叩いた。
【第362話】闇牢の咀嚼音
骨の髄まで凍えさせる冷気が石壁を這い、わずかに揺らめく燐光が長い回廊を青白く染めていた。
龍華は紫雲宗の修士二名と並び、息をひそめて進む。
一人は白髪を頭巾に隠した老婦の修士。深い皺に刻まれた眼差しは鋭く、長き歳月を修行に費やした者に特有の、重く静かな威圧を放っている。
もう一人は二十代半ばほどの青年修士。黒髪を後ろで束ね、腰には精緻な法剣を佩く。若さに似合わぬ張り詰めた霊圧は、すでに元嬰境に到達していることを示していた。
回廊の外観は小さな地下通路に過ぎぬはずだった。だが内部は異様に深く掘られ、天井の裂け目から差し込む微かな燐光を除けば、松明もない闇が果てしなく続いている。壁には爪で刻まれた無数の傷、床には黒ずんだ染みが点々と残り、湿った石の匂いに混じって、血の腐臭がいまだ消えずに漂っていた。
「……囚人の気配はないな。」
青年が小声で囁く。冷気に吸い込まれたその声は、石壁に反射し、かすかな残響だけを残して闇に沈んだ。
囚われ人の姿はどこにもない。ただ、鎖の切れ端や焼け焦げた符が、かつて修士をも封じる陣が張られていた証として残っている。
老婦修士が眉を寄せた。
「……これは古代の禁囚陣式。いまだに残滓が感じられる。」
青年は息を呑み、壁の符をなぞった。
「誰が……何を封じていたんです?」
龍華は唇を引き結び、低く言った。
「ただの牢獄ではない。ここは――何かを飼っていた檻だ。」
彼らは慎重に奥へ進む。だが、牢獄は広く、奥の様子をうかがうことはできない。
回廊は幾重にも折れ曲がり、龍華たちは、牢獄の気配を探ろうとしたが、耳を澄ませても、聞こえるのは石が冷たく軋む音だけ。
◇
牢獄の奥に――月光さえ届かぬ深淵。
そこに、一つの影が膝を抱えていた。いや、膝を抱えながら、何かを食んでいる。
――ばきり。
骨が砕ける鈍い音。湿った咀嚼が静寂を裂き、鉄格子を微かに震わせる。
影の足元には、白く乾いた破片が散らばっていた。それは人骨とも獣骨ともつかぬ形だが、漂う血の匂いだけが生々しく、今まさに命が啜られているかのようだった。
影の口元が動くたび、どろりとした赤が顎を伝い、床に滴る。それはただの餓者ではない。
――くちゃ、くちゃ……
鉄格子の隙間から、わずかな燐光が影の瞳に反射した。深紅。闇の中でその色だけが、ぞっとするほど鮮明に輝いた。
少女の声が、甘くも冷たく響く。
「……つまらないな。」
それは誰に向けた言葉でもなく、ただ自分自身に呟くような寂寞の声であった。
◇
龍華たちは牢屋の中央部に差し掛かっていた。左右の牢はことごとく空虚。床には鎖の切れ端が散らばり、壁には古い符が焼け焦げた跡が残っている。
老婦修士はしばし沈黙し、やがて低く呟いた。
「この広さ……外観からは想像もつかぬ。地下全体が、何かを育てるために造られたかのようだ。」
青年が顔を上げ、遠い奥の闇を見やった。
「それでも音一つ聞こえない……。これほどの空洞が、まるで眠っているようだ。」
龍華は歩みを止め、霊識を限界まで広げる。しかし返ってくるのは、無限に続く空虚と冷気のみ。
闇の奥に潜む何かは、今この瞬間も息づいているはずだ――だが、彼らがいるこの場所からは、その声も、咀嚼音も届かない。
龍華は小さく息を吐き、仲間に目を向けた。
「ここから先はさらに危険だ。慎重に進む。」
二人は無言で頷き、霊力を整えて歩を進める。
◇
最奥の影は、ゆっくりと頭を上げた。
――カラン。
かじり尽くした骨が転がり落ち、鉄格子の外に白い破片が散った。影は舌で血を舐め取り、喉を鳴らす。その仕草は獣に似ていたが、明らかに人の形をしている。
深紅の瞳が煌めき、闇を切り裂く。
◇
龍華たちは、その存在をまだ知らない。足元を濡らす黒い痕跡は奥へ進むほど濃くなり、壁に染みつく鉄臭さは肌を刺すほどに強まっていた。
ただひとつ確かなことは、遥か遠い奥で鳴り続ける“何か”が、いつか彼らの歩みを迎えるであろうということ。闇は黙して語らず、ただ冷たく、深く、三人を誘っていた。