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紅蓮仙途 【第359話】南沼の新山 【第360話】沈黙の山門

【第359話】南沼の新山


 丹心宗に戻ってから二ヶ月が経っても、龍華からの便りは一向に届かなかった。元嬰修士である龍華が、紫雲宗の修士と共に調査へ向かったまま、伝言すら寄こさぬなど――。

 蓮弥の胸に広がる違和感は、もはや単なる不安を越え、確かな予兆めいた重みへと変わっていた。


「やはり、探しに行こう。」

 夜明け前の丹心宗の回廊で、蓮弥は決意を告げた。

 瑠奈は迷わず頷き、銀の睫毛を伏せたセリナも星杖を握りしめる。

「南沼は消え、そこに山が現れた……その山が、すべての始まりなのね。」


 三人は暁と共に出立した。道中で耳にした噂は、どれも常識を越えていた。

 「沼が一夜にして山に化した」

 「山中に入った修士は誰一人戻らない」

 紫雲宗の長老すら消息を絶ったという。


 五日後、彼らは南沼の跡地へ辿り着いた。かつて湿原が広がっていたはずの大地には、黒鉄色の巨山がそびえ立っていた。その高さは雲海を突き抜け、山頂は霞に呑まれて見えない。山肌には滑らかな岩盤と凍りついた谷が交互に走り、ところどころに古代文字のような光紋が脈動していた。その明滅は呼吸のようで、見る者の心に圧迫感と同時に、奇妙な懐かしさを刻み込む。


 山麓には結界が張られ、紫雲宗を中心とした各宗門の修士たちが野営を築いていた。彼らは山を見上げる視線に疲労と恐怖を宿し、中には膝を抱えて呟きを繰り返す者もいる。蓮弥たちが近づくと、一人の紫雲宗の修士が前に立ちはだかった。紫雲の紋を染めた法衣に身を包む、若き守山の修士である。


「新山に用のある者か。名を告げよ。」

 鋭い視線が三人を射抜く。


「丹心宗・蓮弥、同じく瑠奈。そして西大陸の魔導士セリナだ。」

 蓮弥が名乗ると、修士は目を細め、険しい口調で言った。


「この山が現れた初日、誰でも入れた。だが戻った者は一人もいない。ゆえに今は、元嬰修士以上に限って入山を許可している。あなた方二人(蓮弥と瑠奈)は条件を満たすが――」


 視線がセリナに移る。

「彼女は元嬰修士ではない。規定により入山は認められない。」


 セリナは小さく眉を寄せ、星杖を軽く掲げた。

「元嬰という基準は、霊力だけのものかしら。」


 次の瞬間、杖先から銀青の星光が奔り、周囲の空気が低く唸った。山麓を覆う結界が一瞬震え、夜空の星々が呼応するように明滅する。


 修士たちは息を呑む。その力は修士の霊力とは異質でありながら、元嬰修士に匹敵するどころか、むしろ凌駕していた。


「これでも、力が足りないと言うの?」

 セリナの声は静かに響き、確信を帯びていた。


 守山の修士はしばし黙し、やがて重く息を吐いた。

「……規定は霊力を基準としたもの。だが、あなたの力は例外だ。丹心宗の二人が保証するなら、入山を認めよう。」


「もちろん保証する。」

 蓮弥は即答し、瑠奈も力強く頷いた。


 こうして三人は、新山への進入許可を得た。


 山門を越えた瞬間、空気が変わった。

 外界よりも濃く、それでいて冷たく澄んだ霊気が肺を満たす。だが、三人が飛行法術を試みた途端、足元から重力の奔流が襲い、体を大地へ縫いつけた。


「……飛べない?」

 瑠奈が驚きに目を見張る。法術を展じても霊気は天へ昇らず、山そのものが飛翔を拒んでいるかのようだ。


「禁飛の結界か、それとも山全体が一つの法則……」

 セリナは息を潜めて地脈を探るが、返ってくるのは底知れぬ静寂のみ。


 仕方なく三人は歩みを進めた。山道は黒曜石のような岩盤が続き、踏み出すたびに足跡を飲み込むように光紋が揺らめいた。風も鳥の声もなく、ただ遠く山腹の奥から響く低い脈動だけが聞こえる。それは心臓の鼓動と同じ律動であり、まるで山そのものが生きている証のようだった。


 龍華が踏み入ったであろう未知の領域へ――

 蓮弥たちは、静かに、しかし確かな決意を胸に進んでいった。




【第360話】沈黙の山門


 新山の禁飛に阻まれ、蓮弥たちは黒曜石の道をひたすら歩き続けた。霊気は濃く、しかし重く沈み、呼吸するたびに胸の奥が微かに軋む。進むほどに空は薄闇を増し、昼であるはずなのに陽光は山霧に溶け、世界そのものが古い夢の中に閉じ込められたかのようだった。


 やがて、霧がふっと割れ、三人の視界に――巨大な山門 が現れた。


 その門は、天を突くほどの高さを誇りながらも半分が崩れ落ち、瓦解した石片が黒い苔に覆われている。柱には深々と裂け目が走り、幾度の雷撃にも似た戦火の痕跡を語っていた。

 しかし周囲には、人の気配どころか虫の鳴き声すらない。風が吹けば砂一粒でも舞い上がるはずだが、ここでは空気さえ凍りついたように静止していた。


 門上部の扁額には、見たこともない古字が刻まれている。墨色の筆致は、かつてこの地に繁栄した宗門の威容を示すように力強く、それでいてどこか哀切を帯びていた。


「……読めないわ。」

 瑠奈が目を凝らしても、文字は霊光を帯びながら意味を拒む。セリナは指先に星光を灯し、門扉をそっと撫でた。

「見たこともない符文……でも、確かに宗門の名を示すもの。

 この門が開かれていた時代、ここにはきっと多くの修士が往来していたのでしょう。」


 その時、セリナの視線が門の右側へと吸い寄せられた。崩れた岩壁の根元――黒い岩の陰に、銀光を反射するものがある。彼女は近づき、慎重に霧を払いのけた。


「剣……?」


 それは長さ三尺ほどの長剣だった。鍔にはまだ新しい霊紋が刻まれているが、刀身は根元から無残に折れ、折口からは微かな霊気が滲んでいた。新しく折れた証――つまり、この剣の持ち主は、つい最近までこの山に生きていた。


「先に入った修士のものかもしれない。」

 蓮弥の声が低く響く。折れた剣から漂う焦げたような霊気は、つい昨日まで血肉を宿していたかのような生々しさを放っていた。


 瑠奈は周囲を探り、大門の左側にそびえる古木へ目をとめた。幹は大人十人が抱えても届かぬほど太く、しかし表皮には鋭い爪痕や斬撃の跡が幾筋も走っている。樹皮が抉れ、古い樹液が黒く固まって光るその姿は、過去に繰り広げられた凄絶な戦いを物語っていた。


「戦いの痕……。けれど、何百年も前ではないわ。樹液の乾き方が浅い。」

 瑠奈が指で削り取り、香りを確かめる。ほのかに湿った香が鼻をついた。


 だが、奇妙なことに――

 これほど生々しい痕跡があるにもかかわらず、山門を覆う空気はあまりにも静かだった。風は吹かず、葉一枚たりとも揺れない。耳を澄ませば、鼓動さえ遠くに押しやられるほどの沈黙。まるでこの地そのものが時間を凍らせ、訪れた者を無限の静寂に閉じ込めようとしているかのようだ。


「……おかしい。霊獣の気配もない。」

 蓮弥が眉をひそめ、剣の柄に手をかけた。瑠奈も符を指先に浮かべ、セリナは杖先に星光を集める。三人の足元を、門の影がじわりと伸び、まるで彼らを奥へ誘うかのように形を変えていく。


 だが恐れよりも、胸を満たしたのは得体の知れぬ引力だった。門の奥から、かすかな霊脈の鼓動が呼びかけている。

 それは懐かしいようで、しかし決して人の領域には属さぬ響き――

 龍華がこの中に足を踏み入れたのだと、三人は直感した。


「行こう。」

 蓮弥が短く告げる。瑠奈とセリナは無言で頷き、崩れかけた山門を一歩ずつ、慎重に越えていった。


 門をくぐった瞬間、背後で風が鳴った――はずだった。だが振り返れば、外の世界は依然として沈黙に包まれ、ただ崩れた扁額の古字だけが、薄闇の中で微かに光を宿していた。



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