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紅蓮仙途【第35話】【第36話】 炉の息に 天地の気満ち 丹の夢

【第35話】丹薬師の霊


 戦いの後、城下の街に戻る選択肢もあったが、蓮弥は迷わず山奥を選んだ。あの蛇との死闘で得た霊草や戦利品を抱えて町に入れば、目立つのは火を見るより明らかだ。欲に目のない修士や野盗に狙われるだけならまだしも、裏の勢力に名を知られる可能性もある。そんな危険は避けねばならなかった。


 彼は人跡のほとんどない奥山を歩き続けた。木々は空を覆い隠すように枝を広げ、昼なお暗い林道には薄い靄が漂っている。森を吹き抜ける風の音に交じって、遠くで野鳥の声が短く響く。その静寂が、戦いの緊張の余韻をさらに際立たせていた。


 やがて、岩肌にぽっかりと開いた天然の洞窟を見つける。苔むした岩壁に囲まれたその入口は人目につきにくく、奥は暗闇の向こうに伸びていた。慎重に気配を探りながら中へ踏み入れると、湿気は意外なほど少なく、地面は固く締まっている。居心地の悪さはなく、むしろ長期の修練にも耐えられそうな静謐さがあった。


「ここなら……誰にも邪魔されん」


 低く呟くと、蓮弥は符籙を数枚取り出した。墨で刻まれた複雑な符文が、彼の指先で軽く振られるたびにほのかな光を放つ。洞窟の入口に符を貼り付け、両手で印を結ぶと、岩壁の表面が波紋のように揺らぎ、やがて淡い幻影が口を覆った。外から見れば、ただの岩場が続いているようにしか見えない。


 安全を確保すると、彼は洞窟の奥に腰を下ろし、荷から戦利品を一つずつ取り出した。薬瓶や符、霊石を包んだ布袋、敵の武具――一つひとつを丁寧に点検し、その価値を頭の中で素早く計算する。戦いの緊張が少しずつ和らいでいく中、最後に取り出したのは、異様な存在感を放つ一つの壺だった。


 壺は掌ほどの大きさで、漆黒の陶器に金色の細工が絡むように描かれている。時の流れに磨耗しているはずなのに、その装飾は妙に艶めいていた。あの戦いの最中、ルナがいち早く気づき、敵の懐から奪い取ったものだ。戦利品の中でも群を抜いて異質であり、価値が高いのは間違いない。


 蓮弥は壺を掌にのせ、目を細める。


「さて……正体を明かしてもらおうか」


 壺を軽く振ると、どこか生き物の鼓動のような響きが掌に伝わってくる。蓮弥の表情に警戒の色が浮かぶ。彼は片手で符を構え、冷ややかな声で告げた。


「出てこい。さもなくば、今すぐ封を焼き尽くす」


 次の瞬間、壺の表面がかすかに震え、そこから淡い光がにじみ出した。青白い光はたちまち形を変え、ゆらりと空中に漂う老人の幻影を描き出す。


 老人は痩せ細り、背を丸めているが、その目は深い知恵をたたえ、ただ者ではない気配を放っていた。彼は虚空でゆっくりと一礼し、かすれた声を発した。


「お、おい……儂は何も悪さをするつもりはないぞ」


 その声音は焦りを含みつつも、どこか柔和な響きを帯びていた。


「名を名乗れ」


 蓮弥の冷徹な声に、老人は胸を張るように小さく背筋を伸ばした。


「儂はシュウ廉。かつては丹薬師として名を馳せた者じゃ。老いぼれに……いや、丹薬師に敬意を払ってくれぬか」


「丹薬師……?」


 その言葉に、蓮弥の眉がかすかに動く。丹薬師――修仙の道を志す者にとって、希少な丹薬を調合できる存在は極めて貴重だ。だが、目の前の老人は今や魂のみの存在。何らかの事情があるのだろう。


 老人は自嘲気味に笑い、話し始めた。


「最後は……己が調合した新たな丹薬を試すため、自ら服したのじゃ。それが……失敗だった。命を失う寸前、儂は魂をこの壺に封じ、生き延びた。だが、弟子にも、故郷にも……もう長らく帰れておらぬ」


 その声には悔恨と哀愁が滲む。だがその目は、わずかに希望を宿していた。


「頼みがある」老人はまっすぐ蓮弥を見据えた。「儂の魂を、故郷へ届けてほしいのじゃ……弟子たちに、もう一度だけ会わせてほしい」


 蓮弥は黙したまま視線を逸らさずに問う。


「見返りは?」


 その問いに、老人はわずかに口元を緩めた。

「儂が生涯を懸けて磨き上げた丹薬の製法を授けよう。そなたの道を大きく助けるはずじゃ」


 洞窟内には、しんと静かな沈黙が落ちた。外では木々のざわめきが微かに響き、冷たい風が入口の幻影を撫でている。蓮弥は深く考え込み、やがて短く息を吐いた。


「……いいだろう。ただし、俺のやり方で進める。口出しは無用だ」

 その声には冷徹さが滲むが、同時にわずかな信頼も宿していた。


 老人――シュウ廉の瞳に安堵の色が広がり、彼は深々と頭を下げた。

「感謝する……これでようやく、儂の未練も晴れる」


 その瞬間、壺の金細工がほのかに光り、洞窟の中に漂う霊気が柔らかく変わった。

 蓮弥は無言で壺を布に包み、荷の一番奥へと収める。彼の視線は、外の暗い森の向こうを射抜くように遠くを見据えていた。


 弟子に会わせる――それが単なる老人の願いではないことを、蓮弥は直感で理解していた。丹薬師の遺した知識は、これからの修行を大きく変える可能性を秘めている。だが同時に、それを狙う者もまた現れるだろう。


 洞窟の外では風が一層強くなり、枝葉を揺らす音が夜気の中に響いた。静かな山奥で、蓮弥の決断は、新たな道を切り開く一歩となるのだった。



【第36話】丹薬師の最初の教え


 翌朝、山奥の洞窟に差し込む朝日が、岩の隙間をすり抜けて蓮弥の頬を優しく照らした。夜の冷気がまだ残る空気は澄んでおり、微かに薬草や湿った苔の匂いが漂っている。目を覚ました蓮弥は、昨夜の戦いの疲れをまだ体に残しつつも、慎重に呼吸を整えた。


 視線を横に向けると、洞窟の中央に置かれた黒漆の壺から淡い青白い光が漂っている。その中に宿る魂――かつて名を馳せた丹薬師、シュウ廉の姿があった。


「おはよう、若造」

 幽霊の声とは思えぬほど張りのある声が、静かな洞窟に響く。「約束どおり、今日は最初の手ほどきをしてやろう」


 眠気は一瞬で吹き飛んだ。蓮弥は体を起こし、荷から筆と紙、そして昨夜整理した薬材の袋を取り出す。山奥の冷え込みで手が少しかじかんでいたが、彼の目は真剣そのものだった。


「まず覚えておけ」

 シュウ廉は光の体を揺らし、洞窟の中央へ漂い出た。「丹薬作りは、薬材を混ぜる前に天地の気を整えることから始まる。これが何より肝要だ」


 老人の指先がゆるやかに空をなぞると、淡い光が軌跡を描き、空間に小さな光球が現れた。光球は呼吸に合わせて膨らみ、やがて洞窟内の霊気を集めて輝きを増す。


「これが天地の気だ」

 老人の声は淡々としていながらも重みがあった。「粗雑なままでは、どれほど貴重な薬材を使っても丹薬は死ぬ。命を宿さぬ、ただの粉になるだけだ」


 蓮弥は腕を組み、興味深そうにその光球を見つめた。

「気を整える……俺は毎日、鍛錬で霊力を練っている。それと何が違う?」


「似て非なるものじゃ」

 シュウ廉は小さく笑い、指先の光を弾かせる。「鍛錬は己を高めるための術。整気は天地と調和するための術。丹薬はお主の力ではなく、天地の力を借りて完成させるものだ。鍛錬の延長で作った丹など、所詮は薬止まりだな」


 老人の言葉は辛辣だったが、蓮弥は黙って頷き、彼の指先の動きを目で追った。


 シュウ廉は洞窟の隅から一つの小瓶を取り上げる。瓶の中には金砂色の細かな粉がぎっしり詰まっていた。

「これは金砂草の粉。陽気を多く含む珍しい薬材だ。お主の世界では滅多にお目にかかれまい。これと陰気を帯びた根を組み合わせることで、初めて丹が生まれる」


 彼は指で地面に円を描いた。途端に地面から金色の光が立ち上り、幻影の炉が出現する。


「本物の炉ではないが、気の流れを教えるには十分だ」

 そう言って老人は金砂草の粉をひとつまみ、そして乾いた黒い根をひと片、交互に炉の中へ落とす。

 その動作は驚くほどゆっくりで、まるで時間そのものが彼の手先に従っているかのようだった。


 光の炉が柔らかく輝くと同時に、温度が微妙に変化していくのを蓮弥は感じた。老人は一定の呼吸を刻みながら手をかざし、霊力で温度を調整していた。


「焦れば粉は焦げ、遅れれば気が逃げる。丹薬作りは戦と同じじゃ。一手の誤りがすべてを台無しにする」


 言葉の通り、老人はひとつの息を丁寧に吐き、炉の光を安定させた。やがて、薬材の周囲に薄い霧が立ち込め、淡い金色の粒が浮かび上がる。


「これが丹の卵じゃ。本物ではないが、作り方の要はここに詰まっておる」

 老人は蓮弥を見つめ、顎をしゃくった。

「次はお主がやれ。同じ粉と根を使い、気の流れを感じ取れ」


 蓮弥は息を整え、老人の動作を思い出しながら指を動かした。薬材を落とす、霊力で熱を加える、呼吸を合わせる――頭では理解しているはずなのに、光の炉はすぐに揺れ始めた。


「……むっ」

 小さな呻き声を漏らした蓮弥の額に汗が浮かぶ。


「ほれ見ろ」

 老人が鼻で笑った。「欲を出して熱を上げすぎたな。戦場で血が騒ぐのと同じだ。炉の前では冷たくなければならん」


 それでも蓮弥は手を止めなかった。呼吸を整え、霊力を細く流す。焦げつく寸前で温度を下げ、再び安定を取り戻す――何度も微調整を繰り返した末、ようやく炉の中心に小さな光の粒が生まれた。


 シュウ廉はその粒を見て、静かに頷いた。

「初めてにしては悪くない。だが、これを百回繰り返しても、まだ半人前にもならんぞ」


 蓮弥は額の汗をぬぐい、小さく息を吐いた。

「……なるほど。覚える価値はありそうだ」


 老人の目に微かな笑みが宿った。

「ならば明日も続けるがよい。丹薬の道は長く、険しい。だがその先には、命をも救う力がある」


 蓮弥は静かに頷き、炉の幻影が消えていくのを見つめた。洞窟の奥には再び静かな空気が戻り、外からは風が木々を揺らす音が微かに響いていた。


 山奥の朝は、まだ始まったばかりだった。


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