紅蓮仙途【第31話】【第32話】 霊草の 影を守りて 蛇の息
【第31話】壺
戦いの余韻が、まだ体の芯にこびりついていた。
泥にまみれた足を踏み出すたび、ぬかるんだ地面がぬちゃりと音を立てる。湿った空気の中には、血の鉄臭さに焦げた霊力の匂いが混じり、肺を通るたびに喉がひりつくようだ。
蒼汰は霊刃を納めながら、深く息を吐いた。肩越しに振り返れば、泥に沈む巨体の死骸が横たわっている。その顔は既に戦闘の緊張を失い、ただの肉塊へと成り下がっていた。
風牙は槍を突き立て、疲労で重くなった体を支えている。狐の姿を取ったルナは、血の匂いに耳をぴくりと動かし、鋭い瞳で周囲を警戒していた。
「……片付けよう。」
蓮弥の低い声が響いた。
彼らは死体を囲み、戦利品の探索を始める。敵は強力な修士であっただけに、その持ち物はどれも価値の高いものばかりだった。
収納袋から出てきたのは霊石の山。
小指ほどの大きさの霊石が無造作に詰め込まれ、霊気の輝きが泥の上でちらちらと瞬いている。符籙も多い。炎を操る火符、守りを固める護身符、追跡を防ぐ隠匿符……。
さらに短剣や指輪、護符に至るまで多種多様な装備が詰まっており、ひとつひとつの品からは重厚な霊圧が漂っていた。
しかし、それらの品はどれも手入れが行き届いておらず、まるで奪ったそのままを詰め込んだだけのような乱雑さだった。
蓮弥は眉をひそめ、短く呟く。
「……やはり、旅の途中で略奪を繰り返していたんだろうな。」
風牙が槍の柄を握り直し、低く唸った。
「ただのならず者じゃねえ……あの力、弟子入りしていた宗門か師匠がいるはずだ。」
その時、ルナがぴたりと動きを止めた。
彼女の視線は、泥の中から掘り出された一つの物に釘付けになっている。
それは手のひらに収まるほどの小さな壺だった。
漆黒の陶器に淡い青の紋様が描かれ、蓋には銀の細工が施されている。だが、不気味なのはその霊気だ。壺の表面から漂う気配はあまりにも静かで、逆に周囲の霊力を吸い込むような冷たさがあった。
まるで泥の中に封じられていたのはただの器ではなく、何か生きているもののようだ。
ルナの尾がふわりと広がり、毛が逆立つ。
──蓮弥、それ、持っておいたほうがいい。
念話の声は淡々としているが、そこには妙な確信があった。理由を聞こうとした蓮弥は、その瞳の光を見て言葉を飲み込む。狐の彼女がここまで真剣な眼差しを見せるのは滅多にない。
「……分かった。」
蓮弥は小壺を丁寧に布で拭い、自らの収納袋に滑り込ませた。壺が袋の奥に沈んだ瞬間、空気の張り詰めたような気配がふっと和らいだ気がした。
「こいつの持ち物は全部確認した。目立つ痕跡は残すな。」
蒼汰が周囲に符籙を貼り付け、地面の血痕や霊力の残滓を消し去っていく。
戦闘の跡を残せば、すぐに他の修士の目に留まり、追跡を受けるのは時間の問題だ。
三人と一匹は戦利品を分け、素早く現場を後にした。
森を抜ける風が、湿った血と泥の匂いを流していく。
──半日後。
その戦場に、一人の男が立っていた。
灰色の道服を纏い、腰にはよく使い込まれた長剣。背に漂う霊気の波は恐ろしく穏やかだが、その足元の泥はまるで彼を避けるように波紋を広げていた。
彼は無言のまま、死骸のあった場所に近づく。
ぬかるんだ地面に残る足跡、霊力の痕跡、散らばる草木の折れ方――その全てが、わずかな意識の集中で鮮やかに浮かび上がる。
男は泥を掬い、指先で霊力を流し込む。すると、そこにあった血痕がわずかに赤い光を放った。
「……蒼い霊刃の斬痕。」
呟いた声は低く、怒りを押し殺したような響きがある。
彼の視線が血溜まりの中央に落ちる。
弟子の亡骸は、既に跡形もなく消されていた。
しかし、その死の気配は確かに残っている。
そして、何より――弟子が大切にしていた黒い壺が消えていた。
男の目が細められる。
「……俺の弟子を殺したのは誰だ。」
その言葉は低く静かでありながら、辺りの草木を震わせるほどの圧を孕んでいた。
空気が重く沈む。森の中の小鳥たちは声を潜め、風さえもざわめきを止める。
男の背から放たれた霊圧は一瞬で数十丈に広がり、周囲の木々が悲鳴を上げるように軋む。
「必ず──仇を取る。」
彼の声は呪いのように森に染み込み、やがて風がその誓いを運んでいった。
森の中で枝葉がざわめき、空が曇り始める。
戦いは終わっていない――むしろ、これからが本当の始まりであった。
【第32話】霊草
森を抜け、木々の切れ間から差し込む陽光を背に、三人と一匹は静かに歩を進めていた。足元は湿った苔に覆われ、僅かな風が枝葉を揺らしている。さっきまでの戦いで全身は泥と血にまみれていたが、休む暇はない。敵を倒しても、この地にはさらなる脅威が潜んでいることを彼らはよく知っていた。
やがて木々が途切れ、目の前に小高い丘が姿を現した。丘の斜面はむき出しの岩肌が続き、苔の緑がところどころに貼りついている。湿った森の空気とは違う、乾いた風が顔に当たった瞬間、蒼汰がぴたりと足を止めた。
「……見ろ、あそこだ。」
彼が顎で示した先には、岩の裂け目があり、そこだけが淡く金色に輝いて見えた。
裂け目から伸びるのは、三株の草。細長い葉は深緑に輝き、先端は薄い紫色の蕾をつけている。蕾の縁は微かに光を帯び、まるで星のように淡く瞬いていた。風もないのに花弁がわずかに揺れ、その周囲には淡い霧のような霊気が漂っている。
ひと目で分かる――ただの草ではない。
これは修行者が筑基期へ突破する際に用いるとされる、希少な霊草「紫魂花」だった。薬草師でも一生お目にかかれないほどの霊草が、目の前で静かに呼吸しているかのように咲いている。
だが、蒼汰は草に目を奪われたまま、表情を固くした。
「……やっぱりか。」
蓮弥と風牙の視線が草の根元へ向けられる。
そこには、巨大な影がとぐろを巻いていた。
それは蛇――いや、蛇と呼ぶにはあまりにも異形だった。
全長は五丈を優に超え、漆黒の鱗は青白い光沢を帯びて鋼鉄のように硬そうだ。頭は大岩ほどもあり、黄金の瞳が光のない冷たさを湛えて霊草を守るように動かない。吐息を一度吐くたびに白い瘴気が吐き出され、地面を這って岩の苔を枯らしていく。
ただそこにいるだけで周囲の空気が張り詰め、小鳥の鳴き声も、虫の羽音も、一切聞こえない。森の一角だけが異様な静けさに包まれていた。
「良い霊草には必ず守り手がいる、か……」
風牙が低く呟いた。
「ここまで露骨なのは初めてだな。」
霊草は三株――まるで三人のためにあるかのようだ。だが、それを守るこの蛇はただの妖獣ではない。体から漂う霊圧は筑基期の修士など容易く噛み砕くほどの重みを持ち、真正面から挑めば勝機はほぼない。
沈黙の中で、蓮弥は一歩前に出て薄く笑った。
「……方法がある。」
その声は小さく、しかし確信を帯びていた。
彼は懐から薄い紙片を取り出した。淡墨で描かれた複雑な符文が、光を浴びて淡く青白い輝きを放つ。それは「隠形符」。霊力を抑え、姿を霞のようにぼかし、妖獣の感覚を欺く術具である。
「俺が忍び込む。蛇に気づかれないうちに三株とも抜き取る。」
彼の目は静かで、しかし緊張の糸が張り詰めていた。
「無茶だ。」
蒼汰が息を呑む。
「もしあの蛇に気づかれたら、一瞬で――」
「分かってる。」蓮弥は穏やかに言葉を遮った。「でも、俺のほうが符術は得意だ。あの距離なら、気配を完全に消せばいける。」
風牙が槍を構え直し、短く息を吐いた。
「お前が動くなら、俺と蒼汰で援護の準備をする。何かあれば一瞬で突っ込むぞ。」
蓮弥は微笑んで頷いた。
ルナは何も言わず、蓮弥の足元に身を寄せ、金色の瞳で蛇を睨みつけていた。その尾は静かに揺れ、いつでも飛びかかれるように力が漲っている。
蓮弥は符を胸に貼り、霊力を流し込む。符が淡く光を放ち、彼の輪郭がふっと揺らぎ、次の瞬間には空気に溶けるように霞んだ。
呼吸を整え、一歩、また一歩と足を前に運ぶ。
湿った地面の感触が足裏を通して伝わる。踏みしめるたび、泥の下の小石の位置まで鮮明に感じ取れた。
彼は草の間を縫うように進み、蛇の巨大な頭の横を通り過ぎる。わずかに風が頬を撫で、蛇の吐息の瘴気が顔にかかる。胸の奥に冷たいものが落ちるような感覚を覚えながらも、彼は止まらなかった。
――あと十歩。
紫魂花の甘やかな香りが鼻をかすめる。花から溢れる霊気の粒子が肌を撫で、心の奥に澄んだ響きを残していく。その霊気の揺らぎでさえ、蛇の鋭敏な感覚を刺激する可能性がある。
蓮弥は息を潜め、符にさらなる霊力を注ぎ込んだ。全身の存在感が霧散し、岩の陰の一部になったような錯覚に包まれる。
――五歩。
蛇の瞳がゆっくりと動き、僅かに首を持ち上げた。
蓮弥の心臓が跳ねる。だが蛇は再び頭を下ろし、紫魂花を見つめたまま動かない。
蓮弥は地面に膝をつき、慎重に霊草の根元へ手を伸ばす。土は柔らかく、指先から霊力を流すと、霊草は抵抗なく根を浮かせた。
まず一株。
符で包み、匂いや霊気が漏れないよう結界符を巻きつけて収納袋に収める。
――二株目。
蛇の吐息が背後で荒くなる。土の粒子一つが落ちる音すら聞き逃さない緊張感の中、彼は手早く掘り取り、また符で包む。
――最後の一株。
蓮弥は慎重に手を伸ばした。その瞬間、蛇の巨大な瞳がぱちりと開く。
蓮弥の心臓が止まったかのように鼓動を忘れた。
黄金の瞳が彼の真上を見据える。
だが次の瞬間、蛇は大きく息を吐き、頭を地面に伏せた。瞼が重く閉じられ、再び静寂が戻る。
符の効果と彼の術の精度が、蛇の感覚を欺いたのだ。
蓮弥は最後の一株を慎重に抜き取り、符で包むと、全身の緊張が一気にほどけた。
後退の一歩一歩が永遠のように長く感じられたが、やがて彼は仲間たちのもとに無事戻った。
「……やった。」
蓮弥が小声で告げると、蒼汰と風牙が押し殺した歓喜の声を漏らした。ルナも尻尾を小さく揺らし、静かに蓮弥の手に鼻先を寄せた。
三株の霊草が収まった袋を見つめ、蒼汰が呟く。
「これで……突破の道が見えたな。」
だがその声には、わずかな不安が混じっていた。
妖獣の領域に足を踏み入れ、霊草を奪った――その報いがいつ訪れるのか、誰にも分からない。