紅蓮仙途【第29話】【第30話】 勝ちし顔 血と泥まみれ 空に光
【第29話】勝つ
蒼汰の短剣が霊光を帯び、眩い白刃が夜闇を裂く。彼の全霊を注ぎ込んだ霊刃が、まるで天を断つ雷光のごとく唸りを上げて男の頭上から振り下ろされた。
男は咄嗟に霊力を練り、全身から黒い霊気を吹き上げると、両手をかざし防御術を発動した。目の前に現れた半透明の盾――黒曜石のような硬質な光を放つその霊盾が瞬時に形成され、迫り来る霊刃を迎え撃つ。
衝突の瞬間、耳を裂くような轟音が湿地に響き渡った。
霊刃と霊盾のぶつかり合いから火花のような光が迸り、泥濘の地面を照らす。鋭い衝撃波が水飛沫を跳ね上げ、周囲の霧を吹き散らす。
その力は互角――一瞬でも気を緩めれば、どちらかが押し潰されるほどの圧力だった。
「……ぐっ!」
男の眉間に皺が寄る。蒼汰の霊刃を正面で受け止めるため、彼は霊力のほとんどを防御に注いでいた。蒼汰の眼差しは燃えるように鋭く、歯を食いしばりながら霊刃を押し下げ続ける。だが――。
男の集中は完全に上空へと向けられていた。頭上からの脅威に備えるため、足元など視界の隅にすら映っていない。
その刹那――泥の海を掻き分けるような影が、地面を這うように走った。
低い姿勢で疾駆する小さな狐の姿。それは泥のしぶきを散らしながら獲物へ一直線に迫る。
しなやかな肢体、鋭い耳、そして金色の双眸――ルナだった。
その口には鋭利な短剣が咥えられており、野生の獣のような殺気が全身から放たれていた。
彼女は風と同化したかのように軽やかに、霧を切り裂く影の矢となって男の懐へと滑り込む。男はその接近に気づいたが、反応はわずかに遅れた。蒼汰の霊刃の圧力で全身の霊力を上方に集中させていたため、下方の攻撃に対応する余裕はなかった。
ルナは地面すれすれを駆け抜け、男の足元に潜り込むと、跳躍の勢いで短剣を振り上げた。
「――ッ!」
刃が鎧の継ぎ目を正確に貫いた。
鉄すら裂く鋭さを帯びた刃が肉を裂き、血飛沫が泥に散る。
鈍い痛みに男の身体がわずかに沈んだ――その瞬間。
「今だッ!!」
蒼汰が叫び、霊刃を一気に振り下ろす。
雷光のごとき斬撃が肩口に深々と突き刺さり、炸裂音とともに強烈な衝撃波が男の全身を貫いた。黒い霊気が爆ぜ、辺りの霧を一瞬で吹き飛ばす。
男の眼が大きく見開かれ、瞳の光がふっと消えた。
その巨躯は抵抗を失い、ゆっくりと泥濘へと崩れ落ちていく。
泥水が大きく跳ね、蒼汰や風牙、蓮弥の顔や髪を濡らした。湿った空気に血の匂いが濃く漂い、戦場の静寂が戻る。
「……やったのか?」
風牙が荒い息を吐きながら呟く。その声は震えていたが、確かに安堵が滲んでいる。
蒼汰は短剣を握ったまま膝をつき、隣に駆け寄ったルナの首元を優しく撫でた。
「終わった……俺たちの勝ちだ」
蓮弥は盾を泥に落とし、そのまま膝をついて肩で息をした。体内の霊力はほぼ枯渇し、筋肉は悲鳴を上げている。全員の体は泥にまみれ、傷だらけで、立つのもやっとの状態だった。だが、その疲労の奥にある達成感が胸の奥で熱く脈打っていた。
ルナは血に濡れた短剣を舌で綺麗にし、唇の端を上げるように小さく笑った。
「ふふ……いい顔してるわね、みんな」
その軽口に、蒼汰も風牙もつられて笑みを浮かべた。頬はこわばり、息も荒い。それでも、その笑いは戦い抜いた者だけが見せる誇りの証だった。
男の亡骸は泥の中で静かに沈んでいく。その霊圧はすでに消え、代わりに湿地全体に漂っていた圧迫感も徐々に薄れていった。
蓮弥は深呼吸を一度し、空を見上げる。戦いの間ずっと垂れ込めていた厚い雲の隙間から、淡い陽光がこぼれていた。
重苦しい湿地の景色の中で、その一筋の光はどこか神聖で、戦い抜いた彼らを祝福するかのようだった。
蒼汰は短剣を鞘に納め、ゆっくりと立ち上がる。
「……よし。まだ休めないけど、一度落ち着こう。ここに長居すれば、別の奴らに見つかる」
風牙も槍を杖のように使いながら立ち上がり、深く息をついた。
「そうだな。だが……よく勝てたもんだ。俺たち三人と一匹で、あんな怪物を……」
「策勝ちよ」
ルナが尾を揺らしながら言った。「ただの力比べなら、きっと勝てなかったわ」
蒼汰と蓮弥は無言で頷く。その言葉は真実だ。
準備と連携、そして命懸けの一撃。三人と一匹の力をすべて合わせて、ようやくこの勝利を手にしたのだ。
泥の匂いも、傷の痛みも、今だけは勲章のように感じられる。
この戦いで得た経験と絆は、確かに彼らを一段階強くした。
静まり返った湿地には、血の匂いと共に、新しい決意の気配が漂っていた。
【第30話】仕掛けられた勝利
戦いの終わりを告げるように、湿地を覆っていた濃い瘴気が少しずつ晴れていく。
泥濘に沈んだ男の亡骸からは、まだ微かに霊力の余韻が漂っていた。彼は強敵だった。その巨体も、鎧も、使う術も一流の修士を思わせる。だが今はただ、沈黙の中で冷えゆく骸にすぎない。
蒼汰は霊刃を収めながら、深く息を吐いた。呼吸一つで肺が焼け付くように痛む。全力で霊力を練り、刃に込めて戦った代償だ。隣で風牙は盾を杖代わりに地面へ突き立て、肩で大きく息をしている。ルナは狐の姿のまま、鋭い金色の瞳を男の亡骸に向け、なおも警戒を解かない。その尻尾の毛先には敵の血が飛び散り、泥で重く濡れていた。
そんな彼らを見渡し、蓮弥は静かに呟く。
「……よくやったな。すべて、三日前からの仕込み通りだ」
その言葉に蒼汰と風牙は互いに頷き、短く笑った。勝因は偶然などではない。この戦いの行方は、三日前にはすでに定められていた。
──三日前。
あのとき、彼らは敵地の近くにある湿地を進んでいた。ここはかつて修士たちが激しく争った戦場であり、霊気が荒れて流れ、瘴気が漂う死地だった。蓮弥は足を止め、泥の匂いを嗅ぎ取るように目を閉じた。そして、不意に仲間たちへ提案した。
「この辺りは戦い終わったばかりだ……別の敵が現れる可能性はある。今のうちに備えておこう」
「この場所は奇襲には向いていないが……逆に、敵を陥れるには絶好だな。ここに囲敵法陣を仕掛けよう」
提案を聞いた蒼汰は目を細めた。
「こんな瘴気だらけの土地に? 霊力の流れも滅茶苦茶だぞ」
「だからこそだ。符籙を隠しやすい。瘴気が視界を奪い、霊感をも鈍らせる。この泥の下に仕込めば、気付かれることはない」
蓮弥の声は確信に満ちていた。
その場で三人は役割を分担し、符籙を刻む作業に取りかかった。泥を掘り返し、地脈を探り、霊力を注ぎ込む。風牙が陣の外郭を形作り、蒼汰が攻撃の「牙」を担当、蓮弥が封鎖と束縛の力を込めて陣を統括する。ルナはその間、警戒役として周囲を駆け回った。
完成した法陣は湿地の広範囲を覆う巨大な罠であった。外見はただの泥と草にしか見えず、霊気の波も瘴気に紛れて感知できない。三人はこの陣に敵を誘い込み、足を縛り、戦局を一瞬で引き寄せる算段だった。
──そして、決戦の日。
相手は噂通りの猛者だった。鎧の表面を走る符紋は上級の修士が使う護符の類で、彼の持つ戦槍は霊獣の骨を削り、秘薬で鍛えられた妖器であった。彼の一撃を正面から受ければ、ただの筑基期の修士なら一息で命を失うだろう。
だが、彼には慢心があった。
湿地での戦闘に慣れていない様子もあり、三人を見て「雑魚」と見下していたのだろう。彼は本気を出すまでもないという態度で、序盤は霊力を抑え、余裕を見せながら攻撃を繰り出してきた。
その余裕こそが、三人にとって最大の好機となった。
戦いの中で、蒼汰はあえて防戦一方のふりをし、相手の注意を惹きつけた。風牙は盾で受け流しつつ、わざと後退して陣の中枢へと相手を誘導する。蓮弥は影から術式を調整し、陣の発動条件を整えていった。
敵の視線は常に彼ら三人の動きに向けられ、足元の違和感など意識すらしていない。
決定打となったのは、ルナの存在だった。
彼女は戦いの間、狐の姿で茂みに潜み、気配を完全に殺していた。敵は彼女の存在を一度も感知できなかった。ルナは蓮弥からの合図を受け、敵が陣の中心に足を踏み入れた瞬間、疾風のように飛び出した。
その一瞬で、法陣が発動した。
湿地の地面が青白く輝き、符籙が繋がって霊光の網が敵を包み込む。彼の足を絡め取り、動きを鈍らせた。男は驚き、すぐに霊力を注ぎ込んで抵抗したが、瘴気に満ちたこの場所では霊力の流れも鈍り、彼の防御は半分の力しか発揮できない。
その隙にルナが下から刃を突き立て、蒼汰の霊刃が上から叩き込まれた。
わずか数息の出来事だった。男は叫ぶ暇すらなく、泥の中に沈んだ。
──現在。
戦場の空気には、まだ鉄のような血の匂いが漂っている。
蒼汰は倒れた男の顔を見下ろした。恐怖も怒りも浮かばぬ、ただの屍だ。だが彼が放った殺気は、今も皮膚に焼き付いて離れない。
「三日前の準備が、今日の勝利を呼んだな」
蓮弥が低く言うと、風牙が口元を歪めて笑った。
「俺たち、よくもまぁこんな泥沼で罠を仕掛けたもんだ……」
ルナは狐の姿のまま尻尾を振り、血で濡れた短剣を舌で舐め、鋭い瞳を細めて笑った。
「計画通り、だね。奴は最後まで私の存在に気付かなかった」
蒼汰は剣を鞘に納め、静かに頷いた。
「これは偶然じゃない。俺たちの勝利だ」
疲労は限界に達している。霊力も底を尽き、泥と血で服は重く、肌は冷え切っていた。それでも胸の奥には確かな熱があった。
計画、信頼、そして敵の油断を突く冷静さ──そのすべてが積み重なって掴んだ勝利だ。
空を見上げると、黒雲が裂け、淡い陽光が湿地を照らした。
血で濡れた泥の上にも、その光は容赦なく降り注ぎ、彼らの疲弊した顔を照らし出す。
それはまるで、彼らが勝利を掴んだことを天が認めるかのようであった。