紅蓮仙途【第27話】【第28話】 湿地の闇 陣の光ぞ 縛る獣
【第27話】初戦
湿地の空気は重く、霧が漂い、泥濘には足を取られる感覚が絶えなかった。遠くで虫の羽音が低く響き、どこかで水鳥が羽ばたく音がしたが、この場の緊張を和らげることはない。
対峙した男の眼差しは氷のように冷たく、そこから発せられる霊圧が湿気を押し退けるかのように周囲を震わせていた。その男の存在は、ただ立っているだけで獣のような殺気を漂わせ、三人の呼吸を自然と浅くする。
先に動いたのは、風牙だった。
黄金色に光を帯びた槍を構え、一気に地を蹴る。その瞬間、空気が一閃、槍の霊気が風を裂いた。湿った空気を切り裂く鋭い音が耳を打つ。
「はああっ!」
狙うは男の胸元――迷いのない一直線の突き。
だが男は、ほんの半歩、まるで滑るように体を後方に引くだけで槍を避けた。その動きには力みも焦りもなく、ただ自然な流れのような美しさがあった。同時に腰を捻り、片手を突き出す。
風が唸り、男の掌打が風牙の槍の軌道を横から叩いた。槍は重い鉄塊のように弾き飛ばされ、風牙の腕に衝撃が走る。
「くっ……!」
槍を支えたまま後ずさる風牙。
その一瞬の隙を突き、蒼汰が低く構えたまま滑り込む。逆手に握られた短剣が泥を跳ね上げ、低い軌道で男の足首を狙った。
だが男の動きはそれをも上回った。片足をひょいと上げ、同時にもう片方の脚で蒼汰の胸を蹴り飛ばす。
「ぐっ!」
鈍い音が響き、蒼汰の体がまるで木の葉のように弾き飛ばされた。泥を巻き上げ、三歩、四歩も転がる。
蓮弥はすかさず盾を構えた。新たに手に入れた頑丈な霊盾を前面に突き出し、全体重を乗せて突進する。霊力を練り込み、全身を鎧のように固めた渾身の一撃。
しかし――男はその突撃を片手で受け止めた。
盾の縁を掌で掴むと、微妙に体の重心をずらし、衝撃を殺していく。驚く蓮弥の脇腹に、男の肘が鋭く突き刺さった。
「……っ!」
息が喉から抜け、視界が白く弾ける。蓮弥はその場に膝をついた。
一撃――それだけで、三人はほぼ同時に地に伏していた。
霧が漂い、ぬかるんだ湿地には男の足音だけが静かに響く。その足取りには一切の迷いがなく、まるで獲物を仕留める前の猛獣のような威圧感があった。
それでも三人は諦めなかった。
風牙が歯を食いしばって立ち上がる。蒼汰は胸を押さえながら短剣を構え直した。蓮弥も震える腕で盾を掲げる。
再び三人は息を合わせて突撃した。風牙が槍を突き、蒼汰が低く潜り込み、蓮弥が盾で道を塞ぐ。だが――。
男の動きは、彼らの行動をすでに見透かしているかのようだった。槍を逸らし、短剣を踏み潰し、盾を叩いて勢いを殺す。返す掌打と蹴りが、容赦なく三人を押し返した。
湿地の空気がさらに重く感じられる。霧が男の周囲で渦を巻くように漂い、その動きすら男の霊気の流れに操られているかのようだ。
「……強すぎる」
蒼汰が唇を噛み、声を漏らす。
蓮弥も焦りを隠せず、呼吸を整えながら戦況を見極める。
そんな中、蒼汰が叫んだ。
「二人は俺を守れ! 大技を使う!」
その声に、蓮弥と風牙はすぐに理解した。
蓮弥は盾を構えて前に出る。風牙は槍を回転させ、守りの態勢を整えた。蒼汰は短剣を胸の前に掲げ、低い声で呪文を唱え始める。
湿った空気が震えた。
地の霊気が集まり、湿地の水面に波紋が広がる。彼の霊力が空気中の微細な水滴まで震わせ、空気が重く変質していく。
やがて蒼汰の短剣の周囲に、淡い光の刃が形成された。それはただの剣気ではない。濃縮された霊気が刃の形を取り、刀身の数倍の長さにまで膨れ上がっている。
「喰らえぇぇっ!」
渾身の一撃を、蒼汰は男へと解き放った。光の奔流が湿地を照らし、風が霧を吹き飛ばす。
だが――男は片腕を上げ、その一撃を真正面から受け止めた。
霊気と霊気が激突し、爆ぜる音が耳をつんざく。光刃は押し返され、男は軽やかに身をひねり、それを地面へ逸らした。
泥の地面が裂け、爆風が湿地の水を巻き上げる。水柱が立ち、霧が散る。しかし、男の体にはかすり傷ひとつない。
その光景を見て、三人の背中に冷たい汗が流れた。
蒼汰の顔色は蒼白だ。渾身の一撃が無力化された。その絶望感が全員の胸を締め付けた。
「退くぞ!」
蓮弥の声が響く。その瞬間、蒼汰も風牙も本能的に従った。
三人は一斉に後退を開始する。湿地を蹴り、霧を裂き、必死に距離を取った。
だが、背後から迫る気配は一瞬も緩まない。
男の足音はまるで死神の鎌が迫るかのように冷たく響き、霊圧はむしろ強まっていく。
戦いはまだ終わらない――。
三人の胸に、その予感が黒い霧のように重く広がった。
【第28話】法陣
三人は荒い息を吐きながら、ぬかるむ湿地を蹴り上げて後退していた。
足元はずぶずぶと沈み込み、靴には重く泥がまとわりつく。戦いの最中、何度も転びそうになりながらも、必死に距離を取る。湿地を覆う霧は薄くなったとはいえ、なおも視界は悪く、どこまでも重苦しい空気が張り詰めていた。
背後からは男の霊圧が絶え間なく追いかけてくる。その圧はまるで、巨大な獣が今にも背中に食らいつこうとしているような恐怖を伴っていた。
槍の突きも短剣の斬撃も、そして蓮弥の盾の打撃も、初めの勢いはもはやなく、ただ逃げるための防御と牽制でしかない。
呼吸は荒く、霊力もじわじわと削られていく。泥濘に足を取られるたびに体勢が崩れ、動きに切れがなくなる。疲労が体にまとわりつくように重く、焦りが胸を締め付ける。
蒼汰は正面の道を一直線に後退し、風牙は右へ、蓮弥は左へと流れていった。まるで散り散りになって逃げるようなその動きに、男が鼻で笑う。
「ははは……バラけて逃げるか。愚かだ」
その声には余裕しかなかった。
男の目には、三人はすでに追い詰められた獲物にしか映っていない。湿地を蹴り、最も近い風牙へ一気に踏み込む。槍の柄を蹴り払い、その首を刎ね飛ばすつもりで掌を振り上げた――その瞬間。
地面が淡い光を帯びた。
まるで夜明けの一筋の光が、泥に覆われた大地の下から滲み出すかのように。
男の足元に置かれていた符籙が呼応し、瞬く間に複雑な紋様が地表へ浮かび上がる。
「……なにっ!」
男が驚愕の声を上げた瞬間、蒼汰、風牙、蓮弥――三人がそれぞれの位置で同時に印を結んだ。
泥の下に隠されていた複数の符籙が、三人の霊力を伝って輝きを放つ。
三人の立ち位置は、男を中心に描かれた正三角形。
その三点を結ぶ光の線が一瞬で地表に現れ、眩い閃光が湿地の暗闇を切り裂く。光は絡み合い、男の足元を絡め取るかのように円陣を形成した。
「囲敵法陣……!」
男の口から低い唸り声が漏れる。
その声に、先ほどまでの余裕はなかった。
純粋な陣術による包囲。しかも戦闘の最中にこれを発動させるためには、事前の準備と緻密な計画、そして高い連携が必要だ。
まさか自分が獲物として追っていた三人が、こんな策略を仕掛けてくるとは――男の目に焦りが走った。
「くそっ……!」
足を動かそうとするが、まるで見えない鎖で地面に縫い付けられたように重い。霊力を巡らせようとしても、陣から発せられる逆流の力が流れを乱し、体内の霊気がわずかに滞る。
法陣の光は時間が経つごとに強さを増し、周囲の空気すら押し潰すかのような圧を放っている。
蒼汰が低く呟いた。
「今だ……力を合わせろ!」
風牙は槍を構え直し、穂先に霊力を集中させた。黄金の光が槍身を包み込み、湿地の闇を照らす。
蓮弥は盾を構え、そこへさらに霊気を流し込む。盾の縁が淡く輝き、まるで重戦車の突進のような重圧が前方に漂う。
蒼汰は両手で短剣を握り、刃先から光を集めていく。霊刃が再び形成され、前回をはるかに上回るほどの鋭さを帯びていた。
男は必死にもがき、陣の力を突破しようと足掻いた。
「ガキども……調子に乗るなッ!」
怒声が湿地を震わせ、周囲の霧が一瞬にして吹き飛ぶ。男の周囲に黒い霊気が渦を巻き、光の陣を内側から押し返そうとする。
しかし、三人の位置は崩れない。
風牙の突きが放たれた。黄金の光を帯びた槍が一直線に伸び、男の防御を突き破ろうとする。
同時に蓮弥が盾を構えたまま突進し、衝撃を加えた。盾の表面に刻まれた古代の符文が輝き、霊力が爆ぜる。
蒼汰は霊刃を振りかざし、陣の中心へ向けて放つ。
三つの攻撃が同時に交わり、轟音が湿地を揺らした。
男は咄嗟に霊力を全身に纏わせ、衝撃を防ぐ。しかし足元の陣がその霊力を吸い取り、動きを封じていく。
「ぐっ……!」
初めて、男の顔に苦痛の色が浮かんだ。
光の陣はさらに輝きを増し、男の体を絡め取る鎖のように光の紋様を幾重にも重ねていく。
湿地の地面には霊力が染み込み、光が水面に反射して揺らめく。その光景は幻想的でありながら、圧倒的な緊迫感を孕んでいた。
蓮弥は額から流れる汗を拭う暇もなく、盾を押し付け続ける。
「……今度こそ!」
風牙も全身の霊力を振り絞り、槍をさらに突き込む。
蒼汰は最後の一撃を繰り出すために、全身の霊気を短剣に注ぎ込んでいた。
男の霊圧は確かに強大だ。だが、三人はここまで逃げ続け、知恵を絞り、命懸けの策を張った。この法陣が崩されれば、もう後はない。
湿地の闇を照らす光がさらに強くなる。符籙の一つが音を立てて弾け、陣の力が一段階上がった。その瞬間――男の体が一瞬、完全に動きを止めた。
「今だっ!」
三人の声が重なった。
刹那、霊刃と槍の光、盾の衝撃が一斉に男へ叩き込まれた――。