紅蓮仙途【第25話】【第26話】 死の中で 拾う戦利品 霊気揺れ
【第25話】山分け
蓮弥たちは全力でその場を離れていた。背後にはまだ、爆ぜたカエルの体液と怪獣使いの毒が混じり合った瘴気が、紫の靄となって地面を這い、沼一帯をじわじわと侵食していた。鼻腔を刺すような金属臭と喉を締めつける刺激が、遠く離れてなお追いかけてくる。
ほんの数息でも遅れていたら――あの地獄のような戦場で命を落としていたのは自分たちだった。蓮弥はそう思い、無意識に拳を握りしめる。
彼らが目にしたのは、あまりにも生々しい死だった。
霊草に手を伸ばして瞬く間にカエルに貫かれた二人の修行者。そしてその後、戦場に現れた二人の筑基期。どちらも只者ではなかった。一人は巨大な妖獣を操る外道の怪獣使い、もう一人は蛇毒を極めた刺客のような男。命を賭けた戦いの末、互いの毒と血にまみれて、二人とも沈んでいった。
――修仙の道は、力なき者に微笑まない。
それを嫌というほど思い知らされる光景だった。
沈黙を破ったのは蒼汰だった。足を止め、血の気の引いた顔で振り返る。
「……帰ろう。もういいだろ、こんな場所……命がいくつあっても足りない」
その言葉に対し、風牙は正反対の反応を見せた。興奮を隠しきれず、眼をぎらつかせて唇を吊り上げる。
「いや、まだ行ける。あの二人が死んだってことは、戦利品が残ってるはずだぜ? あれだけの実力者が持ってたもんだ、相当な価値があるはずだ!」
蒼汰の顔が険しくなり、蓮弥は二人を交互に見やってから静かに口を開く。
「落ち着け。確かに価値は計り知れない。だが今は毒が濃すぎる。近づけば、俺たちも同じ運命を辿る。無茶はできない」
風牙が悔しそうに舌打ちする。蒼汰は腕を抱きしめるように震えていた。
蓮弥は彼らの反応を受け止め、続ける。
「待とう。毒が薄まるまで……風が吹けば、必ず毒霧は散る。安全に回収できるまで耐えるんだ」
三人はしばし無言になり、結局、蓮弥の提案に従ってその場を離れ、沼から少し距離を取った高台に身を潜めた。
◇
夜の湿地は息を呑むほど不気味だった。
夕闇が訪れるにつれ、霧は一層濃くなり、木々の間を漂う紫の靄が妖しく光る。風はほとんど吹かず、どこからともなく水音が響き、耳にまとわりつく虫の羽音だけが時間の流れを告げていた。
蒼汰は背を丸め、焚き火の小さな炎を見つめながら震えている。
「なあ……あんな強い奴らでも、結局あっけなかったな」
風牙は地面に仰向けになり、空を見上げて薄く笑った。
「だから面白ぇんじゃねえか。修仙の道ってのはよ、気を抜けば死ぬ。それだけだ」
蓮弥は彼らの会話を聞きながらも、霊気を巡らせて周囲の気配を探っていた。風はほとんどなく、毒霧はまだ地面を覆ったままだ。しかし霊気の流れの端々に、小さな変化がある。夜明けが近づけば必ず風は吹く。霧が薄れるのは時間の問題だった。
眠りは浅かった。三人とも、何度も目を覚ましては、戦いの記憶にうなされた。巨大カエルの跳躍音、鋭い槍の閃き、毒の匂い――それらが頭から離れない。湿地の冷気が骨まで染み、眠っても休まらなかった。
◇
三日目の朝、ついに変化は訪れた。
東の空に薄い光が差し込み、湿った風がゆっくりと吹き抜ける。紫の毒霧は風に流され、木々の隙間から漏れる朝日を浴びて消えていく。湿地にはまだ死の匂いが漂っていたが、息苦しさは和らいでいた。
蓮弥たちは互いに頷き、足を踏み出した。
◇
毒の消えた戦場は、異様な静寂に包まれていた。
草は全て茶色く枯れ、葦の葉は毒で溶け落ち、泥の上には焼け焦げたような跡が残っている。中心には二人の筑基期の遺体と、爆ぜた巨大カエルの骸が泥に沈み、血と毒の混ざったぬめる液体がまだ光を反射していた。
だが、その中心には――輝きがあった。
槍、短剣、盾。それらはただの武器ではなく、まるで意志を持つかのような霊圧を放っている。手に取った瞬間、その鋭さと重みが全身に伝わった。短剣の刃は鋭く、まるで霧を切り裂く風のように冷たい。黄金色の槍は軽やかでありながら圧倒的な存在感を放ち、盾には複雑な陣紋が刻まれていた。
さらに、霊石の束、術の奥義が書かれた古びた書物三冊、そして見たこともないほど精巧な収納袋と霊獣袋があった。収納袋の口を開けると、中にはさらに薬草や符籙、未知の鉱石までもが詰め込まれている。
三人は無言で視線を交わした。蒼汰がやっと声を漏らす。
「……山分け、だな」
湿地は静かだった。死の匂いが染みついたまま、三人の新たな力だけがそこから生まれた。修仙の道を歩む者にとって、血と毒と死の中で得た戦利品こそ、真の糧なのだ。
【第26話】戦いが終わらない
分配は驚くほどあっさりと終わった。
蒼汰は切れ味の鋭い短剣を腰に差し、風牙は黄金に輝く槍を握り締め、蓮弥は重厚な霊気を纏った盾を背負う。それぞれが一冊ずつ術の奥義が書かれた古びた本を手に取り、蓮弥は霊獣袋を選んだ。愛用の相棒ルナを守るには、何よりもそれが必要だったからだ。その代わり、彼が手に入れた収納袋は一番古びており、霊石も十二枚のうち三枚しかない。それでも十分だと思えた。
――生きて帰れるだけで、勝ちだ。
湿地に漂う血と毒の臭いはまだ消えず、わずかに肌を刺す瘴気の残り香が漂っている。どれほど価値ある品を手にしたとしても、ここで命を落とせば意味はない。
「……よし、もう行こう。」
蓮弥の声は低く抑えられ、しかし決意を帯びていた。
「長居は無用だ。戦いの臭いが濃すぎる。獣や人を呼び寄せる。」
蒼汰も無言で頷き、風牙も珍しく口をつぐんだ。誰もがこの場に留まる危険を理解している。三人は荷を整えると、足音を最小限に抑えて沼の奥から離れようとした。
――そのとき。
ぐしゃり、と湿った音が響いた。
足元の泥を踏みしめる音ではない。もっと重く、狙いを持った足音だった。
「……止まれ。」
低い声が湿地の霧を裂いた。背筋が凍りつく。三人が同時に振り返ると、丈の高い草むらが不自然に揺れ、そこから一人の男が現れた。
年の頃は三十に届くかどうか。だがその眼光は年齢以上の鋭さを宿している。無造作に垂らした黒髪、全身に纏う気配は重く、周囲の空気をわずかに歪ませているかのようだった。筑基期の修士――しかも、その気迫は、先ほど命を落とした毒使いや怪獣使いと同等、いやそれ以上に思える。
男は霧を背に、ゆったりと一歩踏み出した。ぬかるんだ泥に長靴のような革の靴が沈み、そのたびにぐじゅ、と不快な音が響く。その音さえも、この場の緊張を煽るようだった。
「ほう……若いな。」
低い声に、挑発とも侮蔑ともつかない響きが混じる。
「こんな場所で生き残るとは、運だけはあるらしい。」
蒼汰の喉が小さく鳴った。彼は腰の短剣を抜きかけるが、手がわずかに震えているのが分かる。
風牙は逆に目を細め、黄金槍の石突を泥に突き立て、ゆっくりと戦闘の構えを取った。
男は彼らの様子を愉快そうに眺め、ゆっくり口角を吊り上げる。
「全部置け。荷も武器もだ。命だけは残してやろう。」
あまりにも堂々とした物言い。勝負は始まる前から決まっているとでも言わんばかりの態度。
蒼汰が息を呑み、肩がわずかに跳ねた。
「ふざけ……」
言いかけた蒼汰を、蓮弥は目だけで制した。
彼は心を鎮め、霊力をわずかに巡らせながら、意識を懐に潜むルナへと向ける。
『ルナ、感じるか?』
『ああ……この男、ただ者じゃない。気を抜けば一瞬でやられる。』
ルナの声は低く警戒を帯びていた。
湿地を流れる風が戦利品の金属の匂いと男の殺気を運ぶ。鳥も虫も鳴かない。世界が一瞬、静まり返ったように感じられた。
蓮弥は静かに息を吐くと、男を見据えた。
「……取引はしない、ということか。」
男は鼻で笑い、手をゆっくりと広げた。その掌に集まる霊気が視覚的に分かるほど濃い。紫がかった気の渦が男の周囲を取り巻き、湿地の霧を押しのける。
「交渉のつもりか? 面白い。だが、無駄だ。」
声は落ち着き払っているが、その瞳の奥には確かな殺意が光る。
蓮弥は盾を背から外し、蒼汰に短く言う。
「蒼汰、後ろに下がれ。お前は支援に回れ。」
「で、でも……!」
「いいから!」
怒鳴ることなく、しかし鋭い声。蒼汰は歯を食いしばり、後方へ下がった。
代わりに風牙が一歩前に出る。黄金の槍が淡い霊光を放ち、湿地の霧を裂いた。
「やるしかねえな……!」
風牙の足が泥を蹴り、槍の穂先が一直線に男へ突き出される。
――その瞬間、空気が爆ぜた。
男の霊気が爆発的に膨れ上がり、槍先を寸前で受け止めた。まるで見えない壁に突き当たったように、風牙の槍は止まり、逆に凄まじい衝撃が腕に伝わる。
「なっ……!」
風牙が呻き声を漏らす。その隙を逃さず、男は指先を軽く弾いた。
空気を裂くような音が響き、紫色の刃のような霊力が飛ぶ。
風牙は咄嗟に槍を振り払って防ぐが、勢いに押され、数歩後退した。
蒼汰の顔が青ざめる。
「……これ、勝てるのかよ……!」
蓮弥は言葉を返さず、ただ静かに呼吸を整えた。背中の霊獣袋の中で、ルナの気配が高まっている。
『蓮弥、やるぞ。こいつは本気で殺しにきてる。』
『ああ……。俺も本気だ。』
彼は左腕の盾を構え、右手に印を結ぶ。霊気が盾の表面に集まり、濃密な結界の気配を帯びた。
男の視線がわずかに揺れる。
「ほう……面白い盾だな。」
その言葉を合図に、男の周囲に紫電が奔り、湿地の空気がさらに重くなる。まるで空そのものが圧縮されたかのような威圧感。
風牙が小さく舌打ちし、再び構えを取る。蒼汰も短剣を握りしめ、恐怖に震えながらも仲間を見捨てる気はない。
静寂が一瞬、深く沈む。
湿地の霧が風に流され、戦場となる空間が露わになる。
――戦いが終わったはずの沼で、再び戦火が上がろうとしていた。
三人の心臓が一斉に高鳴り、次の瞬間には確実に血の匂いが漂うことを、誰もが理解していた。