紅蓮仙途 【第239話】【第240話】
【第239話】天泣蓮池の約定
静かな龍界の朝。白雲が緩やかに流れ、遠くの山嶺には薄青い霞が漂っていた。
龍界の上空を、蒼黎長老と蒼煉龍王が連れ立って歩いていた。二人は普段から朝の時刻に散歩をすることが習わしとなっている。長老は穏やかな眼差しを湛え、龍王は逞しい気配を纏いながらも、どこか息を合わせるように歩を進めていた。
「……龍王、あの者を見よ」
蒼黎が顎で示した先には、一人の青年が静かに座していた。
蓮弥である。
彼は両膝を組み、丹田に意識を集中していた。背後に漂う気流は濁りなく澄み渡り、だがその中心に、漆黒の蓮の模様が浮かび上がっている。まるで空間そのものに刻まれたかのような黒蓮は、ゆらゆらと揺れながら禍々しさと神秘を同時に湛えていた。
「……これは」蒼煉が目を細める。「墨蓮の気か。しかも、この若さでここまでの境地に?」
蒼黎は深く頷いた。
「黒蓮の副作用を己が身に受け、なおその力を鍛え上げておる。だが、あの気配……墨蓮の第一層は既に超えておる。いずれ暴走せぬとも限らん」
二人は黙してしばし観察した。蓮弥の周囲には薄い黒い霞が漂い、やがてそれは静謐な水面のように収束していった。心を静め、影を定め、闇の華を内に宿す。それは墨蓮三層の修行そのものだった。
「長老、放ってはおけぬな」
「うむ。幸い、龍界にはひとつ彼に相応しい地がある」
蒼黎の瞳が細く光り、低い声で語りだす。
「天泣蓮池――龍界でも神密の場所。古き伝承によれば、仙界の天より一粒の水が落ち、龍界の大地を穿ち、そこに清き池が生まれた。その水は天地の理を映し、数えきれぬ蓮華を咲かせた。白き蓮は陽を受けて光を放ち、黒き蓮は月を抱きて影を生む。心に宿す蓮と呼応し、修者を鍛え上げる場所よ」
蒼煉が眉を寄せる。
「だが、あそこは龍王ですら軽々しく入らぬ地だ。なぜ彼に?」
蒼黎は蓮弥を見やった。青年は苦悶の気配を滲ませつつも、決して集中を解かなかった。その背には覚悟が、気息には芯があった。
「……黒蓮を背負った者が、このまま進めば必ず堕ちる。だが天泣蓮池ならば、その毒を浄め、心を磨く機会となろう。彼には試す資格がある」
しばしの沈黙。やがて蒼煉は重々しく頷いた。
「ならば条件を課そう。龍界の秘を許す代わりに、将来、我らが三度の請けを願うとき、必ず応じてもらう。それが叶わぬなら、天泣蓮池は夢のまた夢だ」
その日の夕刻。蓮弥の修行が一区切りついたところで、蒼黎と蒼煉が近づいてきた。二人の気配に気づき、蓮弥は慌てて礼を取る。
「長老、龍王……!」
蒼黎は手を軽く振り、青年を制した。
「畏まるな。蓮弥、おぬしの修行、見させてもらった。墨蓮の気をここまで練り上げるとは見事じゃ。だが同時に危うい。黒蓮は魂を侵す毒でもある」
蓮弥は拳を握り、真摯にうなずいた。
「承知しています。ですが、退くことはできません。セリナとルナを救った以上、この道を背負わねばならないのです」
その言葉に、蒼煉の眉がわずかに動いた。若き修者の覚悟が、心に響いたのだ。
蒼黎がゆっくりと言葉を続ける。
「ならば、一つ試みがある。龍界には《天泣蓮池》という場所がある。仙界から落ちた一滴の水が生みし神池。そこでは心に宿す蓮が真に磨かれ、陰も陽も共に成長する。今のおぬしにとって、これ以上の場はあるまい」
「……天泣蓮池……?」蓮弥の瞳が驚きに揺れる。
蒼煉が厳しく告げた。
「だが、誰でも入れる場所ではない。龍族ですら限られた者しか許されぬ。入る資格を得たければ、我らの条件を飲め」
蓮弥は姿勢を正し、真剣な眼差しを二人に向ける。
「条件、とは?」
蒼煉は深く息を吸い、言葉を紡いだ。
「将来、龍界が困難に直面したとき。三度まで、我らの願いに応じよ。それがどれほどの危難であろうとも、背を向けぬと約せ」
沈黙が落ちた。重い、だが決して避けては通れぬ約定。
蓮弥は一瞬だけ目を閉じ、次いで力強く頷いた。
「……承知しました。三度の約定、必ず果たします」
その言葉に、蒼黎の口元が微かに緩む。蒼煉もまた、満足げにうなずいた。
そして、蓮弥は導かれるままに天泣蓮池へと向かった。
そこは龍界の奥深く、万丈の断崖を越えた先に広がる秘境であった。
眼前に現れたのは、霧に包まれた巨大な池。水面は鏡のように静かで、青白い光を帯びていた。池の中央には数えきれぬ蓮華が咲き乱れている。
白蓮は月光を吸って淡く輝き、黒蓮は水底から影の花を伸ばしている。青蓮は星々を映し、赤蓮は稀に火の粉のような光を放った。四方の蓮はそれぞれ異なる色を咲かせ、まるで天地の理が花となったかのようであった。
池の上には淡い霧が漂い、雫が空から舞い落ちてくる。それはまるで天が涙を流しているように、静かに、水音すら立てず池に吸い込まれていく。
蓮弥はその光景を目にし、胸の奥底まで震えが走った。
「……これが……天泣蓮池……」
まるで心を覗かれているかのようだった。己の陰と陽、迷いと覚悟、弱さと力。すべてが蓮華に映し出されているように思えた。
ここで修行を積めば――。
黒蓮に呑まれることなく、さらに先へ進むことができる。
蓮弥は静かに池の前に座り、深く息を吸った。
天泣蓮池の試練が、いま始まろうとしていた。
【第240話】心蓮三境の悟り
天泣蓮池に足を踏み入れた瞬間、蓮弥は全身を震わせた。
池の水は冷たくも熱くもなく、ただ心臓に直接触れてくるような不思議な感覚を与えていた。波一つ立たぬ水面に、無数の蓮華が漂っている。その香気は霊気に似て清らかで、同時に心を内奥から揺さぶる。
彼が水面に膝を沈めると、蓮たちはまるで意志を持つかのように動き出した。
白蓮は淡く光を放ち、紅蓮は燃えるような揺らめきを示し、そして水底から伸びる黒蓮は影のように蠢いた。
「……これが、心を映す池か」
静かな囁きと同時に、景色が歪んだ。
視界が反転し、蓮弥は己の心の奥へと引き込まれる。
目を開いた時、そこは闇に満ちた世界だった。
黒蓮が水面に幾千も咲き乱れ、底知れぬ静寂が広がっている。
「墨蓮……」
その瞬間、蓮弥の胸に過去の戦いが押し寄せた。血の匂い、叫び声、魔族の影。怒りと恐怖が胸を締め付ける。しかし同時に、墨蓮は語りかけるように囁いた。
――心を沈めよ。影を受け入れよ。
蓮弥は息を整え、目を閉じた。乱れる思考を沈め、恐怖も怒りもすべて内に収める。黒蓮は波紋を広げることなく静まり、やがて一輪の暗華が胸中に咲いた。
「……これが《墨蓮》の境地か」
すると今度は光が差し込む。視界に白蓮が咲き誇り、清浄な気配が辺りを包んだ。
白蓮は黒蓮と対をなすかのように、柔らかな光を放ち、濁りを祓う。
その光を浴びた時、蓮弥の胸に巫女・セリナの微笑みが浮かんだ。ルナの必死の声が蘇る。
守りたいという願い。誰かを救いたいという強さ。
白蓮はその思いを映し、透き通る声で告げる。
――陰を受け入れたなら、陽でそれを磨け。心を光で満たせ。
蓮弥は目を見開いた。
「黒を抱え、白で昇華する……それが二つ目の境地……《白蓮》」
その瞬間、池の空気が変わった。
白と黒の蓮が交わり、中央に一輪の紅蓮が燃え上がった。
紅の光は炎のようであり、だが熱さはなく、心臓に宿る熱そのものを象徴していた。
情念。怒り。悲しみ。そして願い。すべてを燃料に昇華する火。
紅蓮は轟と燃え、蓮弥の魂に問いかけた。
――心を燃やし、道を照らす覚悟はあるか。
炎の中に、蓮弥は数多の幻影を見た。戦場で倒れる仲間、泣き叫ぶ者たち。己の無力。だが同時に、力を求め立ち上がる自分自身の姿。
「俺は……退かない。影を受け入れ、光を磨き、そして心火で照らす。これが三つ目の……《紅蓮》!」
叫んだ瞬間、黒蓮、白蓮、紅蓮が三方から輝きを放ち、交わった。
水面に映るのは三色の蓮華。墨は静寂、白は浄明、紅は心火。三つの境地が一つの環のように連なり、彼の丹田に映し出された。
――《心蓮三境》
天地の理が言葉となって胸に刻まれた。
それは悟りであった。しかし――。
次の瞬間、紅蓮の炎は揺らぎ、白蓮は薄れ、黒蓮は影に沈んでいった。
蓮弥は膝をつき、荒い息を吐く。
「……まだ、俺には……制御できない……」
心臓は焼けるように熱く、丹田は凍るように冷たく、脳裏は光と影に引き裂かれていた。三つの境地を見たが、それはあくまで「悟り」に過ぎない。真に使いこなすには、まだ途方もない修行が必要だった。
だが、それでも。
蓮弥は笑った。
血が滲む唇の端を上げ、静かに呟く。
「墨蓮、白蓮、紅蓮……必ず、俺はすべてを極める」
その誓いを聞くかのように、天泣蓮池の蓮華たちは再び静かに揺れた。
月明かりが池を照らし、三色の蓮華が淡い光を返す。
悟りは道の始まり。
心蓮三境の修行が、いま幕を開けたのだった。