紅蓮仙途【第23話】【第24話】 霧湿地 跳ねるカエルに 刃ひらく
【第23話】ワナ
草陰に身を潜め、蓮弥は湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。腐葉土と泥の匂い、そして淡く漂う霊気の香りが鼻腔をくすぐる。葦が風に揺れ、水面に反射する光が微かにきらめく。
足元の泥は膝まで沈む箇所もあり、慎重に踏み出さなければ滑り、ぬかるみに足を取られる。湿地の空気は冷たく、霊気の濃さが肌を刺すように感じられた。
蓮弥は指先に霊気を集中させ、周囲の動きを探る。水面の波紋、葦の揺れ、湿った風の微細な変化――すべてが潜む者や危険の指標となる。奥のほうから、かすかな足音が湿った土を踏みしめる音と共に近づいてきた。
やがて二つの人影が現れた。見慣れぬ修行者らしく、足元のぬかるみに苦戦しながらも、霊草が群生する小高い泥地にまっすぐ進んでいく。瞳には興奮と欲望が宿り、周囲の危険など目に入っていない。蓮弥は低くつぶやいた。
「……やめろ、近づくな」
声は草陰に遮られ届かない。それでも、僅かな緊張が三人の体を貫いた。
二人が手を霊草に伸ばしたその瞬間、湿地に冷たい刃物が通るような鋭い音が響いた。泥水の影から、信じられないほど巨大なカエルが跳躍した。口から鋼線のように伸びた舌が、二人の胸を同時に貫く。目を見開き、声も出せず、二人は泥にまみれて崩れ落ちた。
蓮弥は息を呑み、思わず体を縮める。カエルはどこから現れたのか誰にも分からず、死骸から舌を引き抜くと、泥に音もなく沈んでいった。湿地に漂う静寂に、重苦しい緊張がのしかかる。
やがて霊草の陰から、一人の男が姿を現した。背は高く、肩には革紐で繋がれた小さな骨飾りが揺れる。目は爬虫類のように冷たく、唇の端には不気味な笑みが浮かぶ。
男は倒れた二人の荷物を荒々しくあさる。霊石、符籙、薬草――見つけるものすべてを懐に押し込む。「ははは……またかかったな」湿った笑いが沼の空気に響き、周囲の静寂を引き裂いた。
蓮弥の心臓は早鐘のように打つ。男は怪獣使い――巨大カエルを自在に操る外道の修行者だ。ここで何度も命と財を奪ってきたに違いない。目の前の光景が、外縁地域に潜む危険の一端を示していた。
その時、ルナの念話が耳に届く。
『蓮弥、まだいる……もう一人、気配』
同時に、茂みの陰から閃光が走った。空気を裂く鋭い音とともに、銀色の細い針が怪獣使いの背後へと飛ぶ。男は反射的に振り返り、手にした短剣で針を弾く。針は湿地の泥に突き刺さり、沈んでいった。
「おや……隠れてやがったか」
男の声には苛立ちよりも、むしろ楽しげな響きがあった。狩りの興奮を味わうかのように、目の奥で光が揺れる。蓮弥たちは草陰に息をひそめ、動けぬまま観察するしかなかった。
湿地は生きていた。銀色に揺れる水面、小魚の跳ねる音、葦のざわめき。すべてが罠の一部のように、三人の神経を緊張させる。
蒼汰の肩が小さく震え、風牙の目が鋭く光る。二人もまた、草陰で息をひそめ、次の動きを待つ。湿地の奥に漂う霊気は、三人に向かう圧力となり、危険の存在を告げる。
【第24話】共倒れ
湿地を覆う霧は、まるで生き物のようにうねり、葦の葉を震わせた。腐葉土の匂いと泥の冷たさが肌に絡みつき、霊気の濃密な波動が一歩ごとに足元から上がってくる。蓮弥は草陰に潜み、蒼汰と風牙の肩を軽く叩きながら、息を殺して状況を見守った。
死体を漁っていた怪獣使いの背後に、ぬらりとした影が現れた。新たな男、黒紐の槍を手にした修行者は無言で泥を踏みつけ、滑る足場の上を滑るように前進する。槍先が一瞬にして横薙ぎになり、湿地の空気を裂いた。
「チッ!」
怪獣使いは瞬間反応し、体を後方に飛ばした。その脇で、巨大カエルが泥を跳ね上げながら前に進む。赤く光る目、ぬめる皮膚から立ち上る毒の蒸気が、湿地全体を威圧する。蓮弥の目の前で、湿地は生き物のようにうごめき、戦場となった。
男は槍を構え、細い筋肉をしならせる。槍先がカエルの喉元を狙った瞬間、粘ついた舌が蛇のように伸び、槍を絡め取ろうとする。
「離せッ!」
男は力強く槍を振り抜き、舌を地面に叩きつけた。泥と水が跳ね、葦の葉が霧に溶け込む。だがそこに怪獣使いが割り込む。両腕を広げ、掌から黒い糸のような霊気を放ち、男の足元の泥を固めた。足は沈まぬまま、逆に抜けなくなる。
「動けねぇだろ……!」
男は咄嗟に槍尻で泥を叩き砕き、束縛を解いた。しかしその瞬間、巨大カエルが跳びかかる。鈍重に見えるその巨体が、霧を切り裂く速度で迫る。槍先とカエルの牙がぶつかり、湿地に鈍い衝撃音が響いた。泥水が跳ね上がり、葦を揺らし、霧が渦巻く。
反動で二人は後方へ吹き飛ばされる。男は体を回転させて着地し、槍を握り直す。カエル使いは口元から黒い血を吐き出し、顔色を失う。目の奥にはわずかな焦燥と驚愕が見え隠れする。
飛んできた針は一本ではなかった。一本は弾いたが、もう一本は細く、気づかぬまま怪獣使いの体に突き刺さっていた。男はすぐに霊気を集中させ、針の毒を霊力で加速させる。針に込められたのは、蛇の猛毒――カエルの毒を凌駕する強烈なものである。
怪獣使いは呻き声を上げ、黒い血を吐き出しながらも、カエルを操るための集中を切らさない。だが毒は全身に回り、筋肉を硬直させ、視界を歪ませた。男は一瞬の隙を突き、槍を怪獣使いの胸へ突き立てる。血と毒が混ざり合い、水面に広がり、濃い赤と緑の波紋を作った。
その瞬間、カエルの巨体が膨れ上がり、内部圧力で爆ぜた。緑色の体液が男と怪獣使いを覆い、毒が皮膚を焼き、呼吸を奪う。蒸気と濃霧が戦場を覆い、湿地はまるで生き地獄のように変貌した。
「逃げろッ!」
蓮弥は潜伏をやめ、蒼汰と風牙を引き連れて湿地の奥へ走った。泥に足を取られながらも、霊気を足元に集中させ、滑る泥の上を飛び跳ねる。蒼汰は符籙を取り出し、霊力を流し、障害を解除する。風牙は弓を構え、距離を保ちながら霊草の陰に潜む。
爆発の中心では、二人の修行者と巨大カエルがほぼ同時に崩れ落ちた。湿地に静寂が戻り、水鳥が一声だけ鳴いた。
霧と湿気に包まれた湿地は、戦いの爪痕とともに、さらに冷酷な試練を彼らに突きつけていた。戦闘の残響は濃霧の中に溶け込み、湿地全体が次の獲物を待つかのように静かにうねっていた。