紅蓮仙途 【第213話】【第214話】 血の池に 命を賭ける 紅葉かな
【第213話】第一層・血池地獄
冥界の裂け目を抜けた瞬間、世界は一変した。
そこには果てのない荒野が広がっていた。大地は灰色にひび割れ、空は鉛色の雲に覆われている。赤黒い霧が視界を蝕み、どこまでも重く湿った気配が足元に絡みつき、飛行術で舞い上がった身体さえ鈍く引きずり落とす。
九人の修行者たちは術で宙を進んでいたが、霧の奥からはときおり亡者の嘆きのような声が漏れ、耳元で囁くたびに心臓を締め付けた。
「……この広さ、想像以上だな」
蓮弥が低く呟く。遠方、霞の向こうに微かに赤い光が揺れていた。
「あれが最初の血池か?」
隣を飛ぶシュウ廉が袖を翻し、頷く。
「第一層――血池地獄。この層には大小無数の血池が点在し、下層・中層・上層と進むほど血の濃度も怨念も増す。飛べるからといって油断するな。霧は視界を奪い、飛行速度も削ぐ。時には地を踏んで進む方が早い」
重苦しい風を裂きながら、彼らはやがて霧の壁を抜けた。
目の前に現れたのは――広大な赤黒い湖。
それが「下の血池」だった。血の湖面には無数の亡者の顔が浮かび、呻き声とともに泡を吐き出しては沈んでいく。腐敗と鉄の臭気が肺を焼き、ただ眺めるだけで皮膚が裂けるような錯覚を覚える。
蓮弥は拳を握り、蒼凌と視線を交わした。
「ここを越えれば、中の血池か」
「修行の一環だ」蒼凌は冷ややかに答えたが、その瞳の奥には燃える意志がある。
「肉体を鍛えるための試練だ。嫌なら無理に入らなくてもいい。だが俺たちはこのために来た。避ける理由はない」
九人は一列になり、足を血池へと踏み入れた。
――瞬間、皮膚を焼き切るような激痛が全身を駆け抜けた。
血に溶けた怨念が棘となり、肉を裂き、骨を削る。術で防御しても、痛みは魂を貫いてくる。
ルナは狐火を纏って自らを包み、セリナは魔力障壁を張りながら必死に痛みを押し殺した。玄武子は無言のまま進み、その姿は血池そのものの威圧をもねじ伏せるかのようだった。
歯を食いしばり、彼らは下の血池を渡りきった。
しかし、そこからが本番だった。
次に現れた中の血池は、先ほどよりもさらに深く、血はどろりと濃く、瘴気は鉛のように身体を沈めていく。足を踏み入れた瞬間、筋肉が凍りつくように重く、呼吸すら奪われた。
ここから先は、自分自身との戦いだった。肉体を鍛え、心を研ぎ澄ませ、この痛みに耐え抜くしかない。
全員が黙って中の血池に身を投じる。一呼吸、二呼吸、三呼吸――
「もう嫌だ……! 無理だ! 痛い……助けてくれ……!」
悲鳴を上げたのは周明だった。怨念は弱った者を決して逃さない。赤黒い腕が血の湖面から伸び、彼の四肢を絡め取り、容赦なく湖底へと引きずり込む。
「いやだっ! 死にたくない! 俺はまだ――!」
絶叫は泡に呑まれ、やがて血の中に消えた。
花玲は唇を噛み、こらえきれず涙をにじませる。
「周明さん……」
「覚悟を決めろ」シュウ廉の声は冷たくも重かった。「地獄は迷いを許さない。これが修羅の道だ」
中の血池を越えた時、残った者たちの肉体は明らかに鍛え上げられ、瘴気への抵抗も増していた。だが――その先に待つ「上の血池」は別格だ。挑む者は百年に一人。
「行くか?」蒼凌が蓮弥に問う。
「行く」蓮弥は迷わず答えた。「ここで止まれば、俺の道は終わる。もっと強くならなきゃ、あいつらを守れない」
玄武子は静かに二人を見て、頷いた。
「お前たちが行くなら、私も行こう」
セリナが眉をひそめる。
「危険すぎるわ。ここまででも十分――」
「いや」蓮弥は振り返り、仲間たちを見た。「誰かが限界を越えて突破しなきゃ、この地獄は俺たちを飲み込むだけだ」
蒼凌は剣を握り、唇に冷ややかな笑みを浮かべた。
「上の血池を越えられるのは、地獄を踏破できる者だけ……俺も見てみたい」
三人は赤黒く染まった足を一歩ずつ進め、深紅の光を放つ最奥の池を目指した。
背後では仲間たちが息を呑み、ただその決意を見守るしかない。
上の血池は、まさに地獄そのものだった。
血の湖面は沸き立ち、怨念が空気をも侵し、耳を裂く嗤いが霧に反響する。
足を踏み入れた瞬間、肉体の強化では抑えきれない痛みが襲った。それは魂そのものを削り取る痛みだった。
蓮弥は歯を食いしばり、胸奥で静かに誓う。
(これを越えなければ、俺はまだ弱いまま……守れない)
蒼凌は冷徹な瞳で剣を構え、玄武子は不動の意志を湛えたまま血に沈む。
三人の挑戦が、今まさに始まろうとしていた――。
【第214話】血池の最奥 ― 肉体錬成の試練
赤黒い瘴気が立ちこめ、肺の奥を焼くような熱気が喉を通るたび、胸の内側まで血の匂いが染み込んでいく。
足元に広がる池は水ではなかった。膿と鉄の臭気を放つどろりとした液体は、ぬめりをまといながら皮膚をじりじりと侵食する。池全体が心臓のように脈動し、まるで血そのものが意思を宿し、侵入者の肉体を削ぎ落とそうとしているかのようだった。
八人の修行者は池の縁で息を潜め、互いに視線を交わす。
中層の試練を突破し、ここへ至るまでにすでに仲間を失っている。残った者たちは皆、死線をいく度も越えた者特有の光を瞳に宿していたが、頬はこわばり、動きには疲労が滲んでいた。
池の中央には黒い石柱がそびえ、無数の鎖が巻き付いている。その先には層を成す円盤状の台が浮かび、最上段の台――もっとも濃度の高い血が渦を巻く「上の血池」こそ、この地獄における真の試練であった。
最初に池へ歩みを進めたのは玄武子だった。
白髪混じりの黒髪を束ね、黒い外套を纏った老修士。鍛え抜かれた太い首と広い肩、戦場の獣を思わせる鋭い眼差しが彼の存在を際立たせる。
「ふん……悪くはないな。」
池に一歩踏み入れた瞬間、膝下の皮膚が焼け落ちるような激痛が走る。顔をわずかに歪めたが、歯を食いしばってそのまま腰まで沈んだ。赤黒い液体が裂けた皮膚から骨髄にまで侵入し、血脈を灼くような熱が全身を駆け巡る。
玄武子は瞼を閉じ、呼吸を整え、気を巡らせた。その姿は、まるで地獄に座す古仏のようであった。
次に飛び込んだのは蓮弥だった。
眉間に皺を寄せながらも、迷いはない。
「……ぐっ……!」
骨まで響く痛みが全身を貫き、血の粘液は無数の刃のように肉体を切り裂く。その裂け目に新たな血肉が押し込まれるような錯覚が蓮弥を襲った。
彼は呼吸法を切り替え、痛覚を意識の奥底へ沈める。丹田から溢れる霊力が経絡を巡り、傷を癒やしつつ肉体を鍛え上げていく。痛みは霊力を研ぎ澄まし、骨を打ち鍛え、肉体を強化する。
「これが……血池地獄の錬体……!」
その瞳には苦痛の彼方にある確信が宿り、周囲には緊張感が漂った。
最後に池へ足を踏み入れたのは蒼凌だった。
白い外套を翻し、痩身ながら隙のない気配を纏う青年。
「……ふむ。血脈の毒気が、体内の瘴気を削ぎ落としていくな。」
池に沈むなり、彼は薄い笑みを浮かべた。苦痛を恐れず、それすら修行の糧にするかのような静かな余裕があった。血の奥で渦巻く怨嗟の声が精神を乱そうと囁きかけるが、蒼凌は眉一つ動かさず、気の流れを制御し続ける。
彼は血池の力を少しずつ取り込みながら、全身の霊力循環を極限まで高めていった。
縁に残った五人は、黙したままその光景を見守った。
セリナは唇を噛み、自嘲気味に首を振る。
「……ここで限界ね。上の池には行けない。」
その声には悔しさよりも冷静な諦観が漂う。
ルナは目を閉じ、両手を膝に置いて呼吸を整えた。
「……これ以上は無理。今の私じゃ、耐えられないわ。」
その声音は穏やかで、揺るぎない判断を示していた。
シュウ廉は池を見据え、苦々しく吐き捨てる。
「無理して死ぬくらいなら、この段階で十分だ。」
彼らは己の限界を悟り、それを恥じることはなかった。それもまた修行者の選択である。
やがて玄武子が立ち上がった。
裂けた皮膚と血に染まった筋肉を晒しながらも、その目には鋭い光が宿っている。肉体の輪郭が僅かに厚みを増し、鋼のような威圧感を漂わせていた。
「……まだ耐えられるが、ここでよい。」
そう言い、池から這い出て血を振り払い、仲間の列に加わった。
次に蓮弥が池を出る。
息は荒いが、その肌は玉石のように輝きを帯び、骨格はさらに緻密になったかのようだ。
「……ふぅ……この痛み、悪くない。」
額の血を拭い、微笑を浮かべるその姿には、確かな修行の成果があった。
一刻、二刻――やがて他の者たちが全身を乾かし、刀山地獄への通路を探り始めても、蒼凌はなおも血池に身を沈めていた。
時間の感覚が失われるほど長く、池の怨霊たちさえその存在を畏れたかのように沈黙する。
ようやく蒼凌が池から這い出たとき、他の修行者はすでに体力を回復させていた。
彼の身体は血の毒を受け入れ、裂け目は再生し、筋肉は獣のようにしなやかで強靭なものへと鍛え上げられている。
その歩みは静かで、だが圧倒的な気配を放っていた。
「……これで全員か。」
玄武子が仲間を見回し、頷く。
八人は疲労の色を隠せないまま、誰一人として退却を口にしなかった。
血池の奥には骸骨の彫刻が施された巨大な門がそびえ、冷たい風が隙間から吹き抜ける。
そこは次の地獄――刀山地獄への入口。
血池地獄の瘴気を纏いながら、八人は無言でその門をくぐった。