紅蓮仙途 【第211話】【第212話】 地獄花 黒蓮に誓う 丹の夢
【第211話】冥府の外縁 ― シュウ廉の誘い
光の柱が収束し、三人は第五殿の扉を抜けた。足を踏み出した瞬間、彼らを包んだのは想像を絶する深淵――第六殿への道を拒むかのような、冥府の外縁だった。
空は虚ろな闇に覆われ、星も月もなく、黒い瘴霧が渦を巻いていた。冷気は骨まで突き刺さり、空気は死の匂いを孕んでいる。地面は灰色の岩盤がひび割れ、足音一つで砕けた破片が乾いた音を響かせた。風は吹かず、遠方には幽魂が漂い、呻き声とも風の音ともつかぬ声をあげながらさまよっている。ここでは時間の概念さえ失われ、永遠に閉じ込められた世界のようだった。
蓮弥は白い息を吐き出し、深く息を整えた。「……第六殿を探すか」
その言葉が消えた刹那、地平線の彼方で青白い光が閃き、闇を裂くように広がった。そこから現れた人影を見て、蓮弥の目が驚愕に揺れた。
「……シュウ廉!」
現れたのはかつての師。だがその姿は瘴気に染まっていた。黒ずんだ長衣は裂け、背後には青い燐光が漂っている。それでも彼の双眸は穏やかで、かつて蓮弥を導いた頃の光を宿していた。
「久しいな、蓮弥」
低く静かな声が響く。シュウ廉は微笑を浮かべたが、その笑みには冷たい血の匂いが滲んでいた。「冥界に足を踏み入れた時から、お前の魂の波動を感じていた。ここまで辿り着いたか……やはりお前は強い」
「なぜここに……まさか、輪廻を拒んだのか」蓮弥の問いに、シュウ廉は淡く頷く。
「そうだ。凡人は六道に従うしかないが、霊根を持つ者は魂を保ち、自ら選べる。私は輪廻を拒み、ここに残った」
セリナが一歩前に出た。「つまり、冥界そのものを居場所としたのね」
「そうだ。一度拒めば、再び選ぶことはできない。敗北すれば永遠の死に落ちるだけだ」
その冷たい声は、荒野を流れる瘴霧のように重く響いた。しかし次の言葉が、三人の胸を大きく揺らした。
「冥界は墓場ではない。我らにとっては試練の地だ。十八層地獄を突破すれば、新たなる命が開けると伝わる。そして“黒炎の蓮獄”には《地獄黒蓮》が咲く。その花は冥界の炎と瘴気を吸い、万古の苦痛を宿した禁忌の霊薬だ」
蓮弥の拳が僅かに震えた。「……黒蓮」
「それを喰らえば、失った金丹を補い、新たな丹を凝結できる。第六殿へ進む必要もなくなる。そして黒蓮の力は、マナコアも妖丹も創り出す」
セリナの瞳が揺れる。「魔法使いの核……マナコアも?」
「そうだ。お前の魔種は進化し、真の核となる。狐族の娘よ、お前は妖丹を得て真の妖族に至れる。凡人に戻るか、地獄を歩むか……選べ」
沈黙が重く広がる。蓮弥は砕けた丹を抱え、戦いのたびに守られるしかなかった屈辱を思い返していた。取り戻したいのは力だけではない。誇りと信念を取り戻すための道だった。
「俺は行く」蓮弥は迷わず言った。「地獄が試練なら挑むまでだ」
セリナは冷たい笑みを浮かべる。「選択肢は二つしかないわ。凡人に戻るか、力を掴むか。私は後者を選ぶ」
ルナは尾を揺らし、いたずらっぽく笑った。「決まりだね。三人なら地獄でも怖くない。私は……自分の力で自由を掴む」
シュウ廉は微笑を深め、背を向けた。闇の中で彼の輪郭は燐光に縁取られ、不吉な道を示す導灯のようだった。
「よかろう。共に来い。十八層地獄へ……魂を燃やす覚悟を見せよ」
四つの影が無音の荒野を進む。足元で砕けた地面が灰となり、闇に消える。その先には冥界すら凌駕する絶望の試練が待っていた。
《地獄黒蓮》――その禁忌の花弁がどれほどの血と涙を吸ったのかを知る者はいない。だが、その花に辿り着いた者の運命は必ず変わる。三人もまた、今まさに決定的な一歩を踏み出していた。
【第212話】十八層地獄への同行者
冥界の荒野は、息をするたびに肺の奥まで凍りつくような冷気に満ちていた。
天も地もない虚無の闇が広がり、足下には砕けた骨や朽ち果てた鎧が埋もれ、踏みしめるたびにかすかな音を立てた。どこか遠くから聞こえる獣の咆哮のような風音が、荒野全体を覆っている。
蓮弥、セリナ、ルナの三人は、沈黙の中で師シュウ廉の背を追っていた。彼の歩みは一切の迷いがなく、まるで冥界の迷路を熟知しているかのようだった。やがて、彼がふと立ち止まり、前方を見据える。
深淵の闇に沈む道の先――そこに、五つの黒炎が虚空に浮かび上がった。炎は地に影を落とさず、むしろ闇を引き寄せるかのように揺らめき、冷たい威圧感を漂わせる。炎の輪郭からやがて人影がにじむように浮かび上がり、五つの影が冥界の暗闇を背景に姿を現した。
シュウ廉の眼差しは穏やかでありながら、その奥に強い緊張があった。
「蓮弥。十八層地獄は、お前たち三人と私だけで越えられるものではない。冥界には、己の選択で輪廻を拒み、この試練の地に留まる者がいる。彼らこそ、この道を共に歩むべき者たちだ」
蓮弥の眉がひそかに寄る。その言葉の意味を理解する前に、五人の気配が荒野を支配した。まるで天と地が彼らを中心に揺らぐかのような、異様な圧力が広がる。
◆一人目:蒼凌
最初に進み出たのは、白衣を纏った青年だった。彼の背には九環の剣が収められ、手に持たぬ剣気が風を裂くように漂っている。その瞳は凍てつく湖のように澄み渡り、一切の情を映さない。
「彼は蒼凌。天縛宗の剣修で、天才の名をほしいままにした男だ。百年を要す修行を十年で成したが、その才は同門の嫉妬を買い、裏切られ、冥界に堕ちた。」
シュウ廉の紹介に、蒼凌は一切の感情を見せず、ただ前方を見据えた。
「天は我を選び、剣を与えた。地獄もまた、我が剣を試すにすぎぬ。」
その声は冷たく、刀身のように研ぎ澄まされていた。
◆二人目:黒牙
次に進み出たのは、痩せた男だった。蛇のような細い瞳が笑みとともに歪む。肩から垂れた鎖は鈍く光り、指先には黒い呪痕が刻まれている。
「黒牙は小門派に生まれた凡俗だが、狡猾さと智謀で幾度も死地を抜けた。術は卑劣であろうと鋭く、誰もが嫌悪し、同時に恐れる男だ。」
黒牙は蓮弥を値踏みするように眺め、口端を吊り上げた。
「へぇ……あんたが噂の蓮弥か。師匠の愛弟子ってやつだな。地獄で本当に役に立つか……見せてもらおうじゃねぇか。」
その声には皮肉と興味が絡みつき、まるで獲物を狙う蛇の舌のようだった。
◆三人目:花玲
次の人物は、柔らかな光を纏った女性だった。純白の衣が冥界の闇に映え、彼女の周囲には花の香りが淡く漂う。足元には虚空から花弁が舞い降り、地に届く前に霧のように消えていった。
「花玲は慈悲の心を持ち、仙医の術に秀でていた。生前、無数の命を救ったが、彼女自身は病で若くして倒れた。輪廻を選ばず、今もなお人々を救い続ける道を選んだのだ。」
彼女の微笑みは冥界の冷気を和らげるようだった。
「地獄は厳しい場所。でも、支え合えば必ず越えられるはずです。」
その声には不思議な力があり、荒野の空気すら和らぐ。
◆四人目:周明
弱々しい足取りの青年が現れた。顔は青ざめ、怯えた目で常に後ろを振り返る。震える手を握り締めながら、必死に立ち尽くしている。
「彼は周明。修行を志したが恐怖に勝てず、何一つ大成できぬまま死を迎えた。死後も臆病さを捨てられず、冥界を彷徨う男だ。」
彼はかすかに震える声で言った。
「ぼ、僕は……皆の足を引っ張るかもしれない。でも、ここで逃げたら……永遠に怯えたままだ。だから……行く。」
その目には恐怖を超えた、微かな光があった。
◆五人目:玄武子
最後に進み出たのは、漆黒の外套を纏った人物だった。顔は影に覆われ、ただ双眸だけが闇の底で光を放っている。その瞳に見つめられるだけで、魂が冷たく締め付けられる感覚が走った。
「彼は玄武子。生前の素性は一切不明。ただその力は、底なしの深淵に等しい。」
玄武子は何も言わず、わずかに頷くだけで、周囲の空気を圧倒した。
九人の影が闇の荒野に集った瞬間、世界の気配が一変した。静寂の中に緊張が走り、まるで冥界そのものが彼らを見つめるかのようだ。天才、策士、慈悲深き者、臆病者、そして深淵――まったく異なる道を歩んだ者たちが、今、同じ地獄の門を目指す。
シュウ廉は弟子を見据え、低く告げた。
「蓮弥。これが共に十八層地獄を越える仲間だ。お前が選んだ道は孤独ではない。信じ、疑い、試されながら進む。それが修羅の道だ。」
蓮弥は深く息を吸い、五人の仲間を見渡した。
「……わかった。なら、俺はもう迷わない。誰とでも共に進む。」
セリナは瞳に静かな決意を宿し、ルナは尻尾を揺らしながら笑った。
九つの影が動き出す。暗黒の冥界の中で、その足跡は確かな光となり、十八層地獄への道を踏みしめていった。