紅蓮仙途 【第209話】【第210話】 黄金と血 天秤揺れ響く 虚空の声
【第209話】閻羅王 ― 因果審判
五殿に足を踏み入れた瞬間、蓮弥の肺は押し潰されるように圧迫され、息が止まった。
炎も血の池もない。ただ静寂が満ちている。だが、その静けさの奥底には幾千幾万の魂の重みが沈殿しており、足を置いた大地そのものが軋むような圧を放っていた。
天井は見えなかった。闇は虚空の彼方まで果てなく続き、漆黒の石で築かれた壁は冷たく、どこからともなく魂の呻きが滲み出て響いている。
大殿の中央には、黄金と血の赤黒さを対に抱いた巨大な天秤が鎮座していた。
皿はわずかに揺れ、きしむ音が殿全体を震わせる。その響きは金属の軋みであると同時に、地の底から上がる亡者の叫びでもあった。
その天秤の奥、黒曜石の玉座に王は座していた。
冠は漆黒、額牌には「閻羅大王」の文字が淡く光を宿す。胸まで垂れる墨髭は重々しく揺れ、龍を刺繍した深紅の衣は血を思わせる闇の輝きを放っている。瞳は蒼氷のように冷え、肉体というよりは罪そのものを見抜く「視線」が形を取った存在のようだった。
一糸の分身にすぎぬはずなのに、彼が息をするだけで殿の空気が震え、ただ見下ろされるだけで魂の奥底が焼き切れるように痛む。
――閻羅王。
十殿の第五を司り、因果を裁く存在。
「……すべての命は因を刻み、果を背負う。天地と共に記録は消えぬ。ここに至りて、いかなる修行も術も、おのが罪を覆うことは叶わぬ」
「お前の金丹が砕けなければ、地獄に落ちることはなかった。落ちるとしても、一人で良い。なぜ彼女らまで連れてきた」
低く響く声は雷鳴に似て、地底から殿全体を震わせた。
宣告と同時に、闇の虚空より赤黒い鎖が奔り出る。蛇のように蠢き、意思を宿したかのごとく蓮弥、セリナ、ルナへ襲い掛かった。
蓮弥の胸に激痛が走り、骨が砕ける音と共に血が吐き出される。鎖は全身を締め上げ、床へと叩き付けた。両腕は背にねじられ、脚は引き裂かれるほど食い込む。セリナもルナも同じく縫い付けられ、呻き声を漏らす。
だがそれは単なる拘束ではなかった。鎖は肉体を締め付けると同時に、魂の奥底に刻まれた記憶を引きずり出していく。
蓮弥の視界に、幻影が広がった。
――己の背後で、セリナとルナが鎖に絡め取られ、血の河へ沈んでいく。
その原因はただ一つ。彼が彼女たちを伴ってここまで来たからだ。
胸を抉る痛み。
心に巣食う自責が、現実となって襲い掛かる。
「……俺のせいで……」
声は喉に塞がれ、血に濡れた吐息しか出ない。
それでも幻影は容赦なく続く。
セリナは苦痛に顔を歪め、無言で蓮弥を見つめる。
ルナは黙したまま、血に沈み、姿を消していく。
叫びたい。だが喉は締め付けられ、声は出ない。砕かれた腕は剣を握ることすら許されない。
ただ胸に響くのは――「お前が彼女たちを地獄へ連れてきた」という因果の審判だった。
閻羅王は玉座から動かない。
ただ冷ややかに天秤を揺らし、蓮弥を見据えるだけ。
天秤の片側が沈む。そこに積み上がるのは、蓮弥が歩んだ因――嫉妬、怒り、失敗、仲間を巻き込んだ罪。
もう一方には、努力や守ろうとした意志が載る。
しかし差は歴然だった。罪の重みが勝り、皿は深く沈み込み、鋼鉄の軋みが殿全体を震わせる。
絶望が胸を覆う。剣も術も届かず、逃れられぬ因果そのものが彼を押し潰す。
王は沈黙したまま。
その沈黙こそが審判であり、絶対の事実だった。
鎖はなお強く締め付け、骨が砕ける音が蓮弥自身の耳に響く。視界は赤に染まり、やがて闇が覆う。
――これは本体ではない。
玉座の王は、ただの分身にすぎぬ。
それでもこの威。
本体が現れれば、今の蓮弥に抗う術などない。
その現実を突きつけられたとき、心に深い影が落ちた。
そして審判は、なおも静かに続いていく――。
【第210話】第五殿 ― セリナとルナの審判
蓮弥の苦悶がまだ胸に残る中、残る二人――セリナとルナの審判が始まった。
赤黒い天井は裂けた傷口のように歪み、漆黒の石床は呼吸するかのように脈打っていた。
空間全体が生きている――そう錯覚させるほどの禍々しい気配が満ち、静寂の中に漂うのは死者の声のような低いざわめきだった。
虚空を割って現れた赤黒い鎖は蛇の群れのように絡みつき、セリナとルナの四肢を絡め取り、背骨を這い、心臓に冷たい棘を刺す。
鎖はまるで生きているかのように脈動し、彼女たちを縛り付けながら魂の奥底に侵入してきた。
まず、セリナ。
鎖が胸を締め付ける。意識の奥底に、過去の瞬間が強烈に浮かび上がる。
――まだ技を極めぬ自分が、力を使ってしまった。空間を裂き、仲間を落とし、己の未熟さがすべてを引き寄せた。
痛みと後悔が重なり、全身の血が逆流するようだった。鎖は彼女の体を縫い合わせ、魂の奥底を抉る。 目を閉じても、耳を塞いでも、映像と感覚は消えない。なぜ、まだ力を使ったのか。なぜ、無理をしてしまったのか。
「やめて……」
掠れた声は、自分自身に向けた懇願だった。しかし幻影は慈悲を見せない。裂け目の縁で倒れる仲間たちの血が広がり、彼女の足を濡らす。魔力を暴走させたその瞬間の自分が、今も背後で笑っている。
鎖が胸を貫くように締め付け、心臓の鼓動を強制的に速めた。
「私のせい……私の……」
涙が頬を伝い、呼吸は荒く、視界はぼやける。自分のせいで、失われたものは戻らない。幻影はそれを突き付け、彼女の心を削り続けた。
一方、ルナの視界には別の地獄が広がっていた。彼女には、別の審判が下される。
――なぜ、自ら地獄に飛び込んだのか。
仲間を巻き込むことも考えず、ただ己の選択で落ちていった。迷惑だった、と無数の声が心の奥で響く。影のような幻影が、ルナの胸を切り裂いた。血のように濁った虚空で、自らが突き進んだ道の先で、仲間が苦しむ姿が次々に映し出される。
ルナの身体は鎖に絡み取られ、骨がきしむほど締め付けられる。尾が床を叩き、火花を散らすが、鎖は微動だにしない。視界に浮かぶ仲間たちは次々と倒れ、足元の血は深紅の湖と化した。
「……私が……」
低く呟いた声は、奈落の底で消えた。目の奥が焼けるように熱い。だがその熱は怒りではなく、後悔と自己嫌悪の炎だった。
仲間の笑顔を、自らの選択で曇らせたのかもしれない――そう思えば、尾の先まで凍り付くような感覚が広がる。
だが、二人の心に、蓮弥の思いが届く。
――仲間だから、共にいる限り、後悔などない。
セリナは鎖に締め付けられた体を震わせながら、心の奥で叫んだ。
――技を極めていなくても、未熟でも、仲間を守ろうとした私の選択は間違いではない。
鎖が引き裂こうとする体を押し返し、胸の中で決意を燃やす。その瞬間、鎖の一部が裂け、幻影が揺らぎ始めた。
ルナも同じように、血に濡れた床の上で、心を閉じ、胸の火を絶やさなかった。
――たとえ迷惑をかけても、仲間と共にいることが、私の正義。その想いが、鎖の意志に抗い、幻影を押し返す。
幻影が崩壊を始める。
大殿全体に響く軋む音。赤黒い鎖は、やがて二人の意志の前に縮み、解けていった。天秤は微かに揺れ、黄金と血の皿は均衡を取り戻し、赤黒い霧が散っていった。
蓮弥もまた、胸に深く息を吸い込み、二人の心に呼応する。
――三人であれば、後悔はない。どんな審判が来ようと、共に立ち向かえる。
三人は静かに立ち上がる。鎖に刻まれた傷も、血に染まった衣も、戦いの痕として刻まれるだけだった。
足元の漆黒の石はまだ軋むが、かつての絶望は影を潜める。大殿の中心で、天秤は穏やかに揺れ、玉座の分身も沈黙したまま、彼らを見守っている。
仲間の絆――それだけが、第五殿の因果の審判を越える力となった。そして三人は、互いに視線を交わし、深く息を吐き、次の試練へと歩みを進めた。