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紅蓮仙途 【第207話】【第208話】 五感閉じ 暗闇に舞う 無意識剣

【第207話】第四殿・五官王 ― 嫉妬と怨恨


 炎剣の嵐を辛うじて突破した三人の足取りは、なお熱の残る焦げた大地に重く響いていた。踏みしめるたび、地面は微かに赤く光を吐き、靴底から焼け焦げた匂いが立ち上る。


 第三殿での戦いの余韻は、肉体だけでなく魂までも蝕んでいる。息をするたび胸が焼けるように痛み、心臓はまだ乱れた鼓動を打ち続けていた。


 やがて彼らの目の前に、黒々とそびえ立つ巨大な殿堂が現れた。漆黒の岩が積み上げられたその姿は、まるで闇そのものを形にしたようで、天を覆うほどの威圧感を放っている。


 正面の門には、異様な鬼面が彫り込まれていた。裂けた口は耳まで達し、吊り上がった瞳は獲物を嘲笑うかのように光る。耳には深い裂け目が走り、血のような赤黒い染みが滲んでいた。その一枚の扉を見ているだけで、心臓を爪で掴まれるような痛みが走る。


 ――これが五官王の門。

 五つの感覚を司り、人の罪を暴き立てる王。その象徴を刻んだ顔は、ただの彫刻であるにも関わらず、すでに生き物のようにこちらを睨んでいた。


 三人が互いに頷き合い、黒門に手をかける。押し開けた瞬間、空気は一変した。

 灼熱の残響は掻き消え、そこに広がったのは底知れぬ闇。温度すら奪われたかのように、冷たい湿気が肌を這い回り、肺に重く沈殿する。


 土が腐ったような、濡れた葉が長く積み重なったような、どこか墓穴に近い臭気が漂う。

 耳元では、誰のものとも知れぬ囁きが響いた。

 「……見ているぞ……聞いているぞ……お前の奥底を……」


 その声は、外からではなく、脳髄の奥から直に響いてくる。三人は互いに顔を見合わせるが、すでに自分の思考すらも侵食され始めていた。


 闇の中央に、痩せこけた王の一糸の分身がゆらりと姿を現した。

 乱れた長髪が顔を覆い、眼だけが闇を裂くように燃え上がる。血のような赤、煤のような黒――二つの色が揺らめきながら渦を巻き、見る者の魂を絡め取る。


 衣は裂け、骨ばった手がのぞく。その指は長く鋭く、まるで生者の皮を剥ぐためだけに作られた鉤爪のようであった。


 五官王は、静かに唇を歪めた。

 「妬み……羨望……怨嗟……。お前たちの魂に巣くう毒を、わたしは嗅ぎ分ける。隠すな……見せよ……」


 その声は冷ややかなのに、耳を焼くような痛みを伴って響いた。次の瞬間、三人の視界が崩れ落ちる。

 足下の大地は闇に溶け、上下の感覚が消え失せた。気づけば、各々が自らの心を抉り出す幻の中に囚われていた。


 蓮弥の目の前には、友と思っていた者が立っていた。だがその顔は笑いながら言う。

 ――お前はいつも遅れている。羨んでいただろう? 才能を。強さを。

 胸の奥に隠したはずの感情が、焔となって燃え上がる。否定しようとするたび、相手の笑みは深まり、耳を裂くような嘲笑が響く。


 セリナの前では、弟が涙を流していた。

 「なぜ私を置いていったの? 羨ましかったんでしょう、私の幸せが……」

 彼女は声を失い、足がすくむ。罪悪感が蛇のように心臓へ絡みつき、呼吸を奪う。


 ルナの視界には、己と同じ顔を持つ影が立っていた。

 「美しさを欲していただろう? 人の目を奪い、羨望を一身に浴びたかった。違うか?」

 影の眼差しは毒を含み、ルナの胸の奥底に潜む欲望を容赦なく暴き立てる。


 幻影はどこまでも現実的で、抗うほど深く侵食していく。目、耳、鼻、舌、皮膚――五つの感覚すべてから侵入する毒。五官王の力は、肉体ではなく魂を直接握り潰すものだった。


 王はその光景を、静かに愉しむように見下ろしていた。

 「いいぞ……そのまま心を腐らせよ。お前たちの嫉妬と怨嗟が、わたしの糧となる……」


 彼の背後の闇が脈打ち、数え切れぬ眼球が浮かび上がった。大きなものは人の顔ほど、小さなものは虫ほど。すべてがぎょろりと三人を見据え、瞬きもせずに凝視している。


 数百、数千の視線が一斉に注がれる。皮膚は針で刺されたように焼け、心臓は冷たい氷に握り潰される感覚に陥る。


 それはただの幻ではなかった。

 五官王は実際に、彼らの魂を覗き込み、剥き出しにしようとしている。隠すことも、取り繕うことも許されない。


 三人の喉から、同時に苦鳴が漏れた。

 もはや剣や術では防げぬ――これは心の戦場だ。


 五官王は歩みを進める。

 その一歩ごとに、大地が沈み、闇が震える。

 近づくだけで、心に潜む黒い感情が増幅し、意志を塗りつぶしていく。


 「嫉妬は血となり、怨嗟は骨となる。……お前たちの魂は、もうすぐ美味だ。」

 その声は、審判ではなく宣告だった。




【第208話】五感を閉じる戦い ― 無意識の剣


 闇が深まっていく。

 五官王の幻影は濃密さを増し、まるで重油のように三人の心身にまとわりつき、呼吸すら許さない。


 「遅れている……羨ましいと思っただろう?」

 蓮弥の耳に、かつての仲間の嘲りが響いた。

 胸の奥に埋めてきた劣等感が剣のように蘇り、心を突き刺す。蓮弥の剣を握る指先は震え、額から冷や汗が滴った。


 「なぜ置いていったの? 私を羨んだから?」

 セリナの視界には弟の幻影。頬を濡らす涙が責め立てるように光る。心臓を握り潰すような痛みが襲い、彼女は膝を折りそうになった。


 「美を求めただろう? 人の羨望を渇望しただろう?」

 ルナは己の影に縛られ、吐息が熱を帯びる。胸が焼けつくように苦しく、呼吸するたびに皮膚が裂ける錯覚に陥った。


 三人は剣も術も振るえず、ただ幻に飲み込まれていく。

 その光景に、五官王は骨ばった顎を吊り上げて嗤った。

 「抗え、もっと抗え。お前たちの魂は嫉妬と怨恨に満ちてこそ甘美だ。五感は我が掌の中にある!」


 ――その時だった。

 蓮弥は、意識を絞り出すように目を閉じた。

 幻は掻き消え、嘲笑も赤い瞳も遠ざかる。


 「……そうか」

 蓮弥は心の奥で呟いた。

 「五官王が五感を操るなら……その感覚を閉じれば、奴の手は届かない」


 決意と同時に、耳を閉じた。

 その瞬間、闇から鋭い衝撃が飛んだ。鼓動すら聞こえない世界で、回避が遅れた蓮弥の肩に刃が深々と食い込んだ。血が飛び散る。

 ――耳を捨てた代償だった。


 続いて鼻を閉じる。腐臭も血の匂いも消えたが、嗅覚を失ったことで敵の気配を感じ取れない。次の瞬間、黒い鎖が足を絡め取り、蓮弥は転倒し脛を裂かれた。


 それでも蓮弥は立ち上がる。


 セリナもまた決断した。

 彼女は涙を振り払い、瞼を閉じる。

 視界を失った瞬間、幻影が霧散したが、同時に五官王の槍が迫る気配を掴めず、彼女の脇腹を抉った。鮮血が迸る。

 呻きながらも、彼女は光の術を構え直す。


 ルナは舌を閉じた。誘惑の声は消えた。だが代償は大きい。呪文を唱えられぬため、炎を操る術が途絶えた。その隙を突かれ、黒炎が背を焼き、皮膚が爛れる。

 「……まだ……終わらない……」

 ルナは痛みを押し殺し、震える指先から微かな火花を散らした。


 さらに皮膚の感覚を閉ざした時、三人は戦場の痛覚を完全に失った。だが、痛みを感じない身体は動きに遅れを生じ、刃が肉を裂いても気づけない。蓮弥の腕には深い裂傷が刻まれ、セリナの足は貫かれ、ルナの頬は切り裂かれた。


 最後に、視覚を閉じる。

 完全な闇の中で、もはや何も見えない。剣を振るえば空を斬り、足を踏み出せば空間が揺れる。

 だが、彼らは諦めなかった。


 ――心に刻んだ修行を信じろ。

 ――剣は理屈でなく、魂で振るえ。


 蓮弥の体は無意識に動き始めた。

 無数の稽古で磨いた剣筋が、目も耳もなくとも正確に闇を断つ。

 セリナの掌からは、意識せずとも光が溢れ、仲間の刃を導く灯となった。

 ルナの内に燃える炎は、声もなく自然に立ち上がり、三人を包む盾となった。


 三人の無意識の力が重なり合い、一条の閃光となって五官王の幻影を切り裂いた。


 「……馬鹿な!」

 五官王の瞳が血走る。背後から無数の眼が溢れ、再び呪詛の幻を放とうとする。

 だが、すでに五感を閉ざした三人には届かない。


 「人の戦いは、感覚に頼るものだ……! それを捨てて、どうやって――」


 その言葉を遮るように、蓮弥の剣が胸を貫いた。

 セリナの光がそれを浄化し、ルナの炎が闇を焼き尽くす。


 「ぐ……ぬぅぅぅ……!」

 五官王の身体は黒霧となって崩れ、最後に呻き声を残した。

 「……だが忘れるな……感覚を持つ限り……嫉妬と怨嗟は……お前たちの影として残る……」


 やがて闇は晴れ、静寂が訪れた。


 三人は血に塗れた姿で立っていた。肩も足も裂かれ、衣は焼け焦げ、身体は限界に近い。

 それでも、彼らの眼差しは澄んでいた。


 蓮弥は剣を下ろし、血を滴らせながら呟いた。

 「……五感を閉じても、俺たちは戦えた。心に刻んだものが、道を導いた」


 セリナは痛みに顔を歪めつつも微笑み、ルナは炎に包まれた指先を強く握りしめた。


 彼らは互いを支えながら、第四殿を越え、次なる試練へと歩みを進める。

 背後には、黒く沈んだ殿堂と、砕けた五官王の残滓だけが残されていた。



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