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紅蓮仙途 【第203話】【第204話】 月影舞う 血潮を裂きて 光射す

【第203話】第二殿・楚江王 ― 血の河の呪詛


 足を踏み入れた瞬間、鉄の腐臭が鼻を突き、喉を焼いた。空気は重く、息を吸い込むたびに血の味がする。


 三人の目の前に広がるのは、果ての見えぬ赤黒い大河――否、河と呼ぶにはあまりにもおぞましい。濁った血潮は生き物のように蠢き、泡立つ水面からは白い手が無数に伸び、もがき、沈み、また浮かび上がる。無数の亡霊が河そのものに溶け、呻き声が空間を満たしていた。


 蓮弥は無言で一歩踏み出し、丹田に気を練り上げた。気を張らなければ、立っているだけで魂が削がれる。セリナも杖を握り直し、薄く唇を噛む。ルナの尾が広がり、蒼白い狐火が彼女を守るように舞った。


 殿の中央、大河の渦がうねり、血潮の中から一つの巨影が現れる。


 血で編まれた鎧を纏い、全身から呪符のような黒い霧を垂れ流す巨体。爛れた双眸は血のように赤く燃え、視線一つで魂を射抜くような威圧を放つ。


 それは楚江王だった――いや、彼の一糸分身。本体には、今の三人では到底敵わない存在。


 声は河底から響く地鳴りのようだった。

 「我は楚江王……血の河を支配し、罪と虚偽を呑み砕く者なり」


 その宣告と同時に、大河が轟音を上げて盛り上がる。血潮の波には亡者たちの顔が浮かび、無数の怨嗟の叫びが殿を震わせた。


 蓮弥は両腕を広げ、剣気を纏わせる。裂帛の気合と共に一閃。

 ――轟ッ!

 剣気の奔流が波を断ち切ったが、その裂け目はすぐに埋まる。怨霊の河は、切っても切っても蘇る。


 「……無限か」

 歯を食いしばり、さらに気を高める。だが足元の大地すら血潮に呑まれ、立つ場所が揺らいでいる。


 セリナが杖を掲げた。詠唱は低く、鋭い。彼女の指先から蒼い水流が放たれ、血潮の一部を清めるように蒸発させた。腐臭と共に亡霊の悲鳴が上がり、一瞬だけ空気が澄む。しかしそれも束の間。新たな呪詛が渦を巻いて襲いかかった。


 ルナが尾を翻し、狐火を飛ばす。青白い炎が幾重にも広がり、迫る怨霊を焼き払いながら壁を作る。しかし、血潮の中から鎖のような血の触手が伸び、彼女の足を絡め取った。


 「……っ!」

 ルナの体が一瞬で引きずり込まれそうになる。

 蓮弥が咄嗟に剣気を叩きつけ、鎖を断ったが、その直後、今度は彼の胸に別の鎖が突き刺さる。鎖の冷気は魂を直接削るようで、視界が白く霞んだ。


 セリナが杖を振り下ろし、水流の刃を放つ。鎖が断ち切られ、蓮弥は膝をつきながらも呼吸を整えた。セリナの額には汗が滲み、唇がわずかに震えている。


 「……このままじゃ……押し切られる」

 声には出さずとも、三人の心に焦りが広がっていた。


 楚江王の咆哮が殿全体を揺らす。

 「血の津波――万劫の呪縛!」


 その声に呼応し、河全体が隆起した。殿の天井を覆うほどの赤黒い津波が押し寄せ、波には数千、数万の亡者が絡み合っている。彼らの叫びは耳を裂き、精神を蝕む。


 ルナの狐火の壁が一瞬で呑まれ、セリナの魔法陣が血潮に浸食されていく。


 ――避けられない。


 蓮弥は残る気を全て剣に注ぎ、津波に向けて放つ。轟音と閃光が殿を裂いたが、それでも津波は消えず、圧倒的な質量が迫る。

 三人は飛び退き、殿の床に叩きつけられた。血潮の冷気が肌を焼き、視界は赤黒い霧に覆われる。


 セリナは片膝をつき、杖を支えに立ち上がる。彼女の瞳は揺れていたが、決して折れてはいない。ルナは尾を広げ、全身に炎を纏ったが、体は震えていた。蓮弥も膝をつきながら剣を握りしめ、前を睨む。


 楚江王は玉座のような血潮の高みから三人を見下ろし、嗤った。

 「この程度か……その身に刻め、罪の業を」


 無限の河が再び渦を巻き、血鎖が嵐のように襲いかかる。三人はその場に踏みとどまるのがやっとだった。


 蓮弥は荒い呼吸を整え、心の奥底で気を研ぎ澄ます。

 ――退けば死ぬ。進まねば、未来はない。


 血潮が轟音を立て、三人を呑み込もうと迫る。殿全体が脈動し、まるで巨大な生物の体内にいるかのようだった。

 戦いは始まったばかりで、彼らはすでに極限へ追い詰められていた。




【第204話】血の河を裂く月影


 地の底に広がる大空洞は、腐臭と瘴気で満ちていた。空気は重く湿り、吸うたび肺に泥水を流し込むような不快感が走る。足元には血に似た赤黒い液体が川のように流れ、ゆらゆらと蠢くその表面には、人の顔や手の形をした何かが浮かんでは沈んだ。


 ルナの四本の尾が背後で広がり、淡い紫の妖火がその先で揺らめく。血の河は腰まで届き、進むたび足を絡め取るように吸い込んでくる。その粘度は泥よりも重く、爪先から冷気が這い上がり、骨の髄まで侵食していくようだった。耳元では「帰れない」と囁く声が絶えず響き、精神を揺さぶる。


 影が揺らめく。血の河の表面から骨ばった手足が伸び、異形の怪物が這い出てくる。肉が腐ったままの顔、眼窩に火が灯るような赤い光。翼を持つもの、獣の頭をしたもの、そして無数の舌を持つもの。その全てが血に濡れた爪を伸ばし、三人を取り囲んだ。


 ルナは尾の一本を振り、妖火を放った。火柱が迸り、前方の怪物を焼き払う。しかし血の河がすぐに火を呑み込み、黒い霧となって煙を吐き出す。炎の明かりは一瞬で掻き消え、視界は再び闇に閉ざされた。


 「右だ!」蓮弥の声が闇を裂いた。

 剣が閃き、飛びかかってきた影の首を断つ。骨が砕ける音と共に血が飛沫となり、蓮弥の顔を汚す。だが倒れたはずの影が再び霧のように立ち上がり、蓮弥の背に迫る。ルナが尾を伸ばし、火花のような妖火を爆ぜさせてそれを撃退した。


 蓮弥は血まみれの剣を構え直し、息を吐く。呼吸のたび、瘴気が肺を焼くように侵入し、頭が霞む。足場は不安定で、剣を振るたび血の波が跳ね上がり、赤い飛沫が視界を曇らせた。


 セリナは後方で詠唱を始めていた。月光のような青白い魔力が彼女の周囲に満ち、瘴気を押し返す。しかし敵の数は膨れ上がり、詠唱の邪魔をするかのように四方八方から迫ってくる。


 「時間を稼ぐ!」

 蓮弥が声を張り上げ、前方に突進した。剣が影を貫き、血飛沫と霧が混ざり合って視界を覆う。ルナは四本の尾を鞭のように操り、左右の敵を薙ぎ払った。尾に纏う妖火は鋭い刃のように敵を裂き、飛び散る火花が闇を一瞬照らす。


 その一瞬の光の中で、セリナの詠唱が完成に近づいていくのが見えた。彼女の魔力は月を模した光の輪となり、背後に浮かび上がる。その光輪は次第に大きさを増し、空洞全体を淡く照らし始めた。


 だが敵の攻撃も激しさを増す。ルナは尾を絡ませて飛びかかってきた影を拘束し、蓮弥の剣がそれを切り裂く。ルナの尾に血が絡み、冷気と呪詛がじわじわと侵入してくる。指先が痺れ、呼吸が荒くなる。


 ――時間が足りない。

 蓮弥は歯を食いしばり、足場の悪さを無視して前方の敵に突っ込んだ。剣を振り下ろし、骨の翼を持つ異形の首を跳ね飛ばす。その瞬間、足元の血の河が膨れ上がり、無数の手が彼の足を掴んだ。


 「ッ……!」

 蓮弥の体が沈む寸前、ルナが尾を巻き付け、彼を後方に引き戻す。血の河から立ち昇る呪詛が三人を飲み込もうとした瞬間、セリナの魔力が爆ぜた。


 「――私の星の光を見せてあげよう……月影よ、舞い乱れ、全てを穿て。その名は《月影乱舞げつえいらんぶ》!」


 彼女の背後の光輪が花弁のように開き、そこから無数の月影の刃が放たれた。刃は蝶の群れのように舞い、嵐のような軌跡で敵を切り裂く。触れた瞬間に影は悲鳴を上げ、瘴気が霧散し、血の河が清浄な光に照らされて蒸発していく。


 ルナはその光を利用し、尾を刃のように鋭くして残った敵を薙ぎ払った。蓮弥は剣を閃かせ、逃れようとする影を突き刺す。三人の攻撃が交錯し、戦場は嵐のような刃と光の渦と化した。


 耳をつんざく断末魔が空洞に響き渡る。血の河は白い霧を上げながら収縮し、やがて地面が露わになった。

 月光が差し込んだような静けさの中、セリナは膝をつき、額の汗を拭った。呼吸は荒いが、その瞳は澄んで揺らがない。


 ルナは尾を畳み、膝を折って肩で息をしながらも笑みを浮かべた。蓮弥は剣を杖代わりに立ち尽くし、血の匂いが消えた空洞を睨みつけた。

 ――戦いは終わった。


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