紅蓮仙途 【第201話】【第202話】 闇切り裂き 未来を選ぶ 魂よ
【第201話】第一殿・秦広王 ― 虚偽と後悔
第一殿の門をくぐった瞬間、世界が閉じる音がした。
空気は氷のように冷たく、足を一歩踏み出すたび、耳鳴りが深く頭蓋を叩く。冥界の入口にあった黄泉比良坂の荒涼な闇とは違う。ここは完全な静寂に支配された空間――呼吸の音すら許されぬ、魂の底を見透かすための場。
黒曜石の柱が天井へと突き抜け、空間全体を閉じ込めている。床は鏡のように磨かれ、歩けば水面のように波紋が広がる。その波は光も音も呑み込み、深い深淵をのぞき込むかのような錯覚を与えた。
三人はその中央に立っていた。
背筋に重みがのしかかる。見えない眼差しが皮膚の下まで入り込み、骨を透かすような感覚。セリナが無意識に息を殺す。
柱の合間の闇が裂けた。
黒衣を纏った存在が音もなく現れる。顔には表情はなく、額には一筋の光。剣先のように鋭いその光が三人の魂を釘のように打ちつける。
それは秦広王――の分身だった。本体の威圧を極限まで削ぎ落とした、一糸の化身。だがそれでもなお、空気は重く押し潰され、呼吸は胸の奥で詰まる。
何の前触れもなく、床が動いた。波紋が逆流し、黒い鏡が足元から広がっていく。その光沢の奥から、闇がせり上がり、三人を包み込む。
視界が歪む。
蓮弥の足元は血で濡れた戦場に変わっていた。
空気が熱い。燃え盛る炎の音が耳を打ち、焦げた肉の臭いが鼻を刺す。手にした剣は折れ、握る手は血まみれだ。膝をついた彼の目の前には、砕けた金丹の欠片が散らばっている。それは光を失い、灰色にくすんだただの石の破片。
動けない体で、それでも必死に拾い集める自分。
目を上げれば、周囲には仲間たちの亡骸が転がっていた。炎に焼かれ、血に塗れ、目を閉じたまま動かない。――あの日、誰も守れなかった戦場だ。
耳の奥で誰かの笑い声が響く。
振り返ると、自分と同じ顔をした「もう一人の蓮弥」が立っていた。
虚ろな目、血で濡れた頬、そして口元には冷たい笑み。
幻影は変化する。仲間の亡骸は次第に増え、知らない顔が次々と現れる。救えなかったはずの者たち――村で出会った少年、修行で共に学んだ弟弟子、かつて自分を信じてくれた者たち――その全てが血を流し、倒れていく。
膝の下がぬるりと湿っている。見下ろすと、足元の床が黒い水面となり、その奥に無数の手が伸びてきた。
手は冷たく、重く、彼の足を絡め取る。
逃げようと剣を振るうが、刃は水面を裂くだけで、闇は途切れない。
倒れた者たちの目が開いた。血の涙を流しながら、彼を責める。
――守れなかった。
――お前はただの人間だ。
――剣士の仮面をかぶった無力な男。
その言葉が頭蓋の中で反響し、心臓を押し潰す。
秦広王の分身は遠くから無言で彼を見下ろしていた。その沈黙が、すべてを肯定しているかのように重い。
胸の奥で何かが裂けたような感覚が走り、蓮弥は膝を突いた。自分の誇りが剥ぎ取られ、魂が剥き出しになる。剣を握る手が震え、もう一歩も動けなかった。
次に、セリナの視界が暗転した。
彼女は研究室に立っていた。壁際には書物が山のように積まれ、錬金炉が不気味な赤い光を放っている。鉄の鎖で縛られた魔獣が吠え、魔力がほとばしる。
それは彼女がかつて身を置いた場所。己の理性を磨き、感情を殺し、研究に没頭していた頃の景色だ。
床に敷かれた魔法陣が震え、魔獣が絶叫した。血と呪詛の匂いが一気に部屋を満たす。視界が赤黒く染まった瞬間、彼女の足元に小さな影が倒れていた。
――弟。
まだ幼い顔。泣きそうな瞳が彼女を見上げる。
息が詰まった。
あのとき助けられなかった命。彼女はただ研究を優先し、冷静さを装っていた。心を切り離し、感情を捨てれば強くなれると信じていた。
弟の口が動いた。
音は聞こえない。だが唇の形が「なぜ」と問うているのがわかる。
胸の奥で何かが軋んだ。
幻影は増殖する。弟の姿は何人にも分かれ、それぞれが血を流しながら彼女を見上げる。「どうして」と無数の口が囁く。耳元に声が響くわけではない。それは脳の奥に直接届く声。理性を切り裂く刃のような響き。
彼女の周りの本棚が崩れ、本の雨が降り注ぐ。ページが開くたび、中から血の匂いが漂う。自らの研究記録のはずの書には、救えなかった者たちの顔と名が並んでいた。
理性で築いた壁がひとつずつ崩れ落ち、冷静な顔の裏で隠した後悔が、全身を突き刺す。
魔獣が鎖を引きちぎった。
部屋が震える。巨大な顎が迫るが、彼女の足は動かない。弟の視線が重すぎて。
赤黒い影が絡みつき、彼女の体を縛る。息ができない。
秦広王の分身は依然として無言で立ち尽くしていた。ただその瞳の光が、彼女の魂を深く射抜いている。
セリナの胸の奥でも、何かが音を立てて裂けた。冷静さはもはや仮面でしかなかった。
二人の精神は奈落へと沈んでいく。
幻影はただの幻ではない。彼らの記憶と罪悪感を糧に成長し、意志を砕くための牢獄となっていく。
この場を支配するのは本物の秦広王ではない。ただの「一糸分身」にすぎない。それでも、今の彼らに抗う術はなかった。
【第202話】第一殿・秦広王 ― 孤独の檻
蓮弥とセリナがそれぞれの幻影に囚われ、意識を闇に沈める中、ルナの足元の鏡面も裂けた。黒曜石のような床が波紋を広げ、やがて一面の夜空を映す水面へと変わる。その中心に立たされ、ルナの視界は暗闇に飲まれた。
――気がつけば、彼女は人間の里にいた。夜の祭囃子が響き、軒先には朱色の提灯が揺れ、甘い菓子の香りが漂う。屋台の灯りは温かく、笑い声が耳を満たす。ルナは気づく。これは夢見た幸福の景色。妖としての尾も耳も消え、ただ一人の娘として、人々の輪の中に溶け込んでいた。
舞台の上で舞い踊る彼女に、拍手と笑顔が降り注ぐ。温もりに包まれ、心の奥で長年の孤独が疼いた。「これが、欲しかったもの……」その思いは胸を締め付け、涙が滲むほどに切なかった。
――だが、祭りの灯が一つずつ消えていく。屋台は影に沈み、笑い声が遠ざかる。人々は背を向け、誰も振り返らない。「待って……」掠れた声を上げても、返事はない。闇は濃くなり、足元が水面のように揺らぎ始めた。
ぽたり。目の前の少女が振り返る。それは幼い日の自分。狐耳を隠せず、尾を見せたまま泣きじゃくる幼いルナ。小さな声が響く。「……どうして、私は生まれてきたの?」胸を抉るその言葉に、忘れていた記憶が蘇る。村人に追われ、石を投げられ、山で凍えた夜。誰も味方はいない。笑顔も軽口も、傷を隠す仮面でしかなかった。
闇が渦を巻き、無数の影が彼女を囲む。それは関わった人々――助けられなかった命、裏切り、失った仲間たち。目も口もない影が彼女を責める。動けない。息が詰まる。「もう誰も信じない……」心が閉ざされ、闇の中から伸びた白い手が彼女を絡め取る。尾も腕も動かず、彼女は奈落へと引きずられた。
――沈む。冷たく深い水底。呼吸は途切れ、体は石のように重い。「孤独」という言葉が頭の奥でこだまし、世界が暗闇だけになる。時間の感覚も失われ、ただ恐怖と痛みが心を蝕む。
底に辿り着いたとき、ルナは気づいた。幻影が見せるのは、自分の恐怖と痛み。逃げ続けてきた孤独そのものだった。強さを演じても、何も変わらなかった。
「……これが、私。」 小さな声が魂の奥で響いた瞬間、胸の中に温かな光が灯る。孤独を否定せず、過去を抱えたまま前に進むと決める。痛みを力に変えると誓った。
ルナは目を開く。闇の中に、蓮弥とセリナの存在を示す光が揺れていた。――私はもう一人じゃない。そう確信した瞬間、彼女は爪で闇の手を切り裂いた。光が波紋となり、闇を押し流す。幼い自分も影の人々も光に溶け、温もりが戻る。
魂が叫ぶ。「進む」と決めたその瞬間、世界は砕け散った。
床に倒れたルナの額には冷たい汗が滲み、荒い息が漏れる。だが瞳には強い光が宿っていた。目を開けた彼女を、蓮弥とセリナの微笑みが迎える。
「幻影から脱出したね。」ルナが呟く。 「過去は変えられない。でも未来は選べる。」蓮弥の声は穏やかだ。 「今のルナを信じてる。これからの自分も。」セリナの微笑みには確信があった。
秦広王の分身は玉座で三人を見下ろす。その目には感情はないが、認めるような気配が漂っていた。三人はそれぞれの幻影を破り、立ち上がる。魂には先ほどまでなかった強さが宿っている。
「己の虚偽を認め、後悔を抱き、それでも進む者よ。第一殿を越える資格あり。」
重い扉が開く。光が差し込み、楚江王の待つ第二殿への道が現れた。