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紅蓮仙途 【第199話】【第200話】 十の王 雷鳴と秤に 魂揺る

【第199話】死界の門を越えて


 冥霧が漂う峡谷の奥、黒い岩壁の裂け目が口を開けていた。その先からは、風ではない何かが吹きつけ、魂の奥底を震わせるような冷気が滲み出ている。蓮弥は一歩踏み出そうとしたが、頭上に不意に黒い影が舞い降りた。


 それは一羽の大きな黒いカラスであった。羽は墨のごとく艶やかで、瞳は人間のごとき光を宿している。その嘴が開かれた瞬間、言葉が漏れた。


「若き修士よ、その先は死界だ。踏み込めば生人の道は閉ざされる。戻ることも、再び陽世に帰ることも不可能ぞ」


 低く重い声が峡谷に響き、セリナとリナは息を呑んだ。死界――それは冥府のさらに奥、生きた者の存在を拒む最終の地であると、古より伝えられていた。


 カラスは続ける。

「おぬしは金丹を砕かれ、魂の再生を求めてここまで来た。しかしその道は二つに分かれる。


 一つ、ここで引き返せば、命は保たれよう。だが金丹は再び宿らず、修仙の道は閉ざされる。

 もう一つ、前へ進めば、死界へ至る。魂の再生の可能性はそこにしかない。だが生人が入れば、必ず代償を払う。帰る道は断たれるぞ」


 冷たい声が岩壁に反響し、峡谷全体が警告しているかのようだった。


 セリナが震える声で言った。

「蓮弥……やめよう。あなたが死界に消えてしまったら、わたしたち……」


 リナも顔を青ざめさせて首を振る。

「生きて戻れないなんて……そんなの駄目よ! わたし達がずっと一緒にいるって約束したじゃない!」


 だが蓮弥は静かに目を閉じた。胸の奥には、これまでの旅路で交わした数々の誓い、守るべき人々の姿が脈打っている。彼はゆっくりと息を吐き、決意の言葉を紡いだ。


「――俺は進む。金丹を失えば、いずれ力も尽き、皆を守ることはできなくなる。死界の先にわずかでも希望があるなら、賭けるしかない」


 セリナとリナの目に涙が滲む。彼女らは生人であり、通常ならば孟婆の湯を飲まされ、記憶を失って黄泉を渡るはずだった。しかし二人はまだその湯を口にしていなかった。冥府の番人である孟婆が、何かを察したのか、あるいは情けで手を緩めたのか――記憶を抱えたまま、ここまで来てしまったのだ。


 黒いカラスは二人を睨み、声を低めた。

「娘たちよ、お前たちは陽世の者。死界に足を踏み入れれば、二度と戻れぬ。魂は裂け、輪廻も失われよう。なぜ共に行こうとする?」


 セリナは涙を拭き、しかし真っ直ぐに答えた。

「蓮弥と一緒に歩むと決めたから。たとえ死界でも、彼を一人にしたくない」


 リナも叫ぶ。

「死んでもいいなんて言わない! でも……見捨てるなんてもっとできない! わたし達は仲間なんだから!」


 カラスはしばらく沈黙した。その瞳にわずかな憐憫の光が宿り、やがて翼を広げた。

「愚かだが……心は揺るぎないか。よかろう。ならば、この羽を渡そう。おぬしらが完全に霧に呑まれる前に、一度だけ、死界の瘴気を払う盾となるだろう」


 カラスは一枚、黒曜石のような羽を落とした。掌に載せると、冷たいのにどこか熱を帯びているような、矛盾した感触があった。


 蓮弥はそれを受け取り、深く頭を下げる。

「感謝する……だが、この先は俺たち自身の道だ」


 カラスは頷き、翼を大きく広げて闇に消えていった。


 峡谷の奥からは、なおも冷気が溢れ出す。霧の向こうには、魂の叫びが木霊しているかのようだった。


 蓮弥は振り返り、セリナとリナを見つめる。

「最後に聞く。本当に来るのか? 戻るなら今しかない」


 二人は同時に頷いた。その瞳には恐怖もあったが、それ以上に強い意志が宿っていた。


「行こう、蓮弥」

「わたしたちは、どこまでも一緒だよ」


 蓮弥の胸に熱いものが込み上げる。彼は剣を握り直し、闇の裂け目へと歩みを進めた。


 ――その瞬間、霧が渦を巻き、三人を飲み込んだ。

 大地は消え、上下の感覚も失われる。無数の声が耳元で囁き、足を引きずり込もうとする。死者の怨嗟、未練、苦痛、すべてが押し寄せてくる。


 セリナとリナは必死に互いの手を握り合い、蓮弥の背中にすがりついた。

 黒い羽が淡い光を放ち、一時だけ瘴気を押し返す。


 だが、その光はいつか尽きる。


 彼らは知っていた。

 この先は、もはや帰ることの叶わぬ死界。

 それでも――進むしかなかった。


 蓮弥の瞳は、炎のように揺るぎなく輝いていた。




【第200話】十殿閻羅の王座


 奈河を渡り、忘川のほとりを越え、蓮弥・セリナ・ルナの三人は、冥界特有の重苦しい霧をかき分けながら進んでいた。

 空は常に黄昏に染まり、陰気は肌にまとわりついて魂を凍らせ、足取りは鉛のように重く沈む。霧の奥からは、時折、亡者の呻きとも風の唸りともつかぬ声が響き、三人の胸奥に恐怖を染み込ませていく。


 やがて、足元を覆っていた灰色の霧が裂けた。

 目の前に広がった光景に、セリナは思わず息を呑む。


 そこには――果てしなく並ぶ十の宮殿があった。

 黒曜石の柱に支えられた城郭は天を衝き、炎と霜の気が交錯し、雷鳴と怨嗟が渦巻いている。十の城は円を描くように並び、その中央には巨大な石の祭壇が鎮座していた。

 冥府に堕ちた魂を裁く場――十殿閻羅の王座。


 足を踏み入れた瞬間、雷鳴のごとき声が空を震わせた。


 「生者が冥府に至りしは千年に一度。されど、十殿閻羅を越えねば、魂は一片も還らぬ」


 その声に応じ、第一殿から第十殿まで、十の王の影が次々と浮かび上がる。


 第一殿――秦広王。

 光を宿す双眸が三人を射抜く。その瞳は人の心を映し、隠された罪を暴き出す。


 第二殿――楚江王。

 全身に血の文様を刻み、手には血潮を操る杖を握る。大地に染みつく血の匂いが幻のように広がった。


 第三殿――宋帝王。

 炎を纏った鎧を着、背後に無数の剣の軍勢を従え、呼吸一つで空気を灼熱へと変える。


 第四殿――五官王。

 その口は幾重にも裂け、言霊を放つたびに虚空が震え、空間が歪む。


 第五殿――閻羅王。

 因果の秤を掲げ、鎖が幾重にも垂れて揺れ、過去未来の罪を量る音が骨に響いた。


 第六殿――変成王。

 半ば人、半ば獣の姿。幻獄をまとい、見る者の心に応じてその形を自在に変える。


 第七殿――泰山王。

 運命の帳簿を携え、筆を一振りするたびに寿命の数が削られていく。


 第八殿――都市王。

 雷の玉座に座し、全身が稲光に覆われ、鼓動のたびに空そのものが震えた。


 第九殿――平等王。

 無表情の顔に、六道の秤を掲げ、あらゆる存在を同じ基準で量ろうとする。


 第十殿――転輪王。

 背後に巨大な輪廻の車輪を従え、全ての魂を飲み込み、生死を超えた再生へと導く権能を持つ。


 その威容に、セリナは膝が震えそうになるのを必死に堪えた。

 「……これが、冥界の王たち……十殿閻羅」


 ルナは四本の尾を大きく揺らし、白い牙を食いしばる。

 「本当に……全部と戦わなきゃいけないの?」

 声はかすれていたが、黄金の瞳には決意が宿っている。


 蓮弥は拳を握りしめ、霧よりも冷たい空気を深く吸った。

 砕けた金丹が胸に痛む。しかし、その瞳だけは揺るがない。

 「ここを越えなければ、俺の金丹も……俺たちの帰る道もない」


 十殿の王は、漆黒の天を揺るがす声で宣告した。

 「罪を抱えし魂よ、汝らを試す。光を越え、血を越え、炎を越え、言葉を越え、因果を越え――

 幻獄を越え、寿命を越え、雷を越え、平等を越え、最後に輪廻を越えよ」


 その声は万雷のように響き渡り、霧も地も震えた。


 セリナは唇を噛み、頭の中で可能な戦略を組み立てる。

 「十殿……それぞれに異なる力。属性の魔法対決も避けられないわね」


 ルナはかすかに怯えを滲ませながらも、尾を高く掲げた。

 「わたしは……もう逃げない。蓮弥とセリナと一緒なら、どんな王でも……」


 蓮弥は深く息を吸い込み、玉座の王たちに向けて声を放つ。

 「俺たち三人……必ず最後まで進む。たとえ魂が裂けても、この道を諦めはしない!」


 その叫びに応えるように、第一殿の宮殿から眩い光が溢れ出す。

 秦広王の審判が、今まさに始まろうとしていた。


 十殿閻羅――冥界の絶対者たち。

 三人の魂を賭けた戦いが、ここに幕を開ける。


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