紅蓮仙途【第19話】【第20話】 霧晴れて 笑顔の灯火 道を照らす
【第19話】蒼汰
「おい、待ってくれよ!」
元気いっぱいの声が背後から飛んできた。蓮弥が足を止めて振り返ると、先ほど市場の路地で見かけたあの若者──蒼汰が、肩からずり落ちそうな荷物を抱えて小走りでこちらに駆けてきていた。
まだ昼前の城下町は、霧が晴れ切らず淡く煙っている。白い靄の向こうで蒼汰は手を大きく振り、息を弾ませながら笑顔を浮かべた。その笑顔は曇りのない快活さで、まるで太陽のように明るい。
「君もここに来たばっかりだろ? 俺もそうなんだよ!」
駆け寄ってきた蒼汰は、肩で息をしながらも言葉を畳み掛ける。
「沼に行くんだろ? 一人か? 仲間はいるのか? 一人じゃ危ないぞ!」
質問の嵐に蓮弥は圧倒され、わずかに眉を上げるだけで返答もできない。だが、蒼汰はそんなことなど気にも留めず、さらに勢いよく言葉を続けた。
「正直言うとさ、俺はあんな沼なんか行きたくないんだよ。でも親父が行けってうるさくてさ! 一か月もこの城に泊まり込んで準備ばっかりしてるんだぜ? でも怖くて沼には一歩も入れなくて……もう情けないったらないよ。だから仲間を探してたんだ。君、なんか強そうだし、頼りになりそうだし……よし、一緒に行こうぜ!」
押しの強さに蓮弥は思わず苦笑した。
蒼汰は年の頃で言えば蓮弥より一つ二つ年下か。浅黒い肌と少し茶色がかった髪、澄んだ黒い瞳。表情がくるくる変わり、言葉の端々に人懐っこさがにじむ。周囲の緊張した雰囲気の修行者たちの中で、彼だけは場違いなほど陽気で、無邪気な少年のようだった。
蓮弥は沼へ向かう道をゆっくりと歩き始めた。蒼汰は当然のように隣に並ぶ。
「……さっき助けてくれてありがとうな!」
唐突に蒼汰が言った。
「助けた?」
「ほら、あの広場でさ。荷物をひっくり返した俺を見て、通りすがりに拾ってくれただろ? あれ、すげぇ助かったんだよ。誰も立ち止まってくれなくてさ、恥ずかしくて死ぬかと思った。」
蒼汰は照れくさそうに笑い、頭を掻いた。その仕草に嘘はなく、蓮弥は小さく頷いて応じる。
「たいしたことじゃない。」
「いやいや、そういう小さなことがありがたいんだって! だから俺、君を信じて一緒に行こうと思ったんだよな!」
蒼汰の声には一片の打算もなく、ただ真っ直ぐな信頼が込められていた。その真っ直ぐさが、蓮弥には少し心地よかった。
霧の中を歩きながら、蓮弥はふと昨日読んだ古書の一節を思い出す。仙道、霊力、霊石。まだ断片的な知識しかないが、蒼汰のような若者なら詳しい話を知っているかもしれない。
「……蒼汰、仙道のことをもう少し教えてくれないか?」
「仙道? おう、任せろ!」
蒼汰は途端に胸を張り、得意げな笑みを浮かべた。
「まず“気”ってのはな、俺たち修行者は“霊気”って呼んでる。天地に満ちてる霊気を体に取り込むことで、肉体も精神も鍛えられるんだ。修練を続けりゃ寿命も伸びるし、力も強くなる。仙人だって夢じゃない!」
少年らしい目の輝きで話す蒼汰に、蓮弥は自然と耳を傾ける。
「霊気を取り込む方法はいくつかあるけど、霊石を使うのが一番手っ取り早いんだ。ただし、霊石は使ったらただの石になる。だから緊急時以外はみんな大事に取っておく。」
「霊石にも等級があるんだろう?」
「そうそう! 下品、中品、上品の三つ。俺たちが普段使うのは下品霊石だな。中品なんてそうそう手に入らないし、上品霊石なんて伝説級だって話だぜ。見たやつがいるのかどうかも怪しいくらいだ。」
蒼汰は誇張気味に肩をすくめるが、その仕草はどこか愛嬌がある。
「修練は一人でもできるけど、大体のやつはどこかの宗門に入る。宗門ってのは修行者の集まりだ。師匠がいて、仲間がいて、技や知識を教えてくれる。俺も本当は宗門に入りたいんだけど……親父は“まずは一人で荒野を旅して来い”って言うんだよな。」
苦笑混じりに言ったその言葉には、少しだけ影が差していた。だが蒼汰はすぐに顔を上げ、元気よく笑った。
「ま、怖いのは仕方ねぇよな! でも、こうして君みたいなやつに会えたんだ。今日はツイてるぜ!」
蒼汰の明るさは、霧に包まれた城下の空気を少し和らげるようだった。
蓮弥は彼の無邪気さを横目に、心の奥でひそかに決意を固める。
仙道の道は長く険しい。これから先、命を落とすこともあるだろう。それでも、この道を選んだのは自分だ。
そして今、この少年との出会いが──
その道を進むための、小さな縁となるのかもしれない。
【第20話】もう一人
霧の立ちこめる城下の通りを、蓮弥と蒼汰は肩を並べて歩いていた。石畳の道には露店が並び、薬草や符籙、古びた武器を売る声が響き渡る。すれ違う修行者たちは険しい表情を浮かべ、皆一様にどこか焦燥の色を帯びていた。南の沼に眠るという宝や秘薬の噂は町中に広がっており、腕に覚えのある者たちが続々と集まっているのだ。
そんな中で蒼汰の声だけはやけに明るく、通りのざわめきに紛れてもなお耳に残る。
「蓮弥、お前は練気期だろ? 俺もだ。長いこと錬気期に止まってるけど、早く筑基期になりたいんだよな!」
蒼汰は胸を張り、どこか誇らしげな顔をして言った。蓮弥はその横顔をちらりと見やり、小さく首を傾げる。
「筑基? それって何だ?」
「おっと、知らないのか。じゃあ教えてやるよ!」
蒼汰は嬉しそうに足を止め、まるで先生のように腕を組んだ。
「筑基ってのは“体の基礎を築く”って意味だな。錬気期で霊気を体に巡らせるだろ? でも体そのものが弱けりゃ、せっかくの霊気を扱いきれない。だから次の段階じゃ体を改造して、骨や経脈を強化し、修行者としての基盤を作り直すんだ。鍛体期って呼ぶやつもいるな。」
その説明を聞きながら、蓮弥は心の中で考える。蒼汰は明るく快活で子供っぽいところもあるが、知識や経験は侮れない。修行の世界に足を踏み入れて間もない自分にとって、彼から学べることは多そうだった。
「それとだな――」
蒼汰は少し声を潜め、前を歩く旅装姿の修行者の一団をやり過ごしてから、真剣な顔つきで続けた。
「沼に入るには注意が必要なんだ。錬気期のやつは外側の湿地帯までしか入れない。あの中は霊気が濃すぎて、体が耐えられないからな。」
「それなら……俺たちは奥には行けないということか?」
「いや、俺は符籙を手に入れたんだ!」
蒼汰は得意げに懐から小さな竹筒を取り出す。そこには霊気を帯びた青い符が数枚巻かれていた。
「これを使えば、一時的に体を保護して霊気の濃い場所にも踏み込める。高かったけどな!」
蓮弥は符を見つめながら問いかけた。
「それほど危険な場所なのか?」
「危険だよ!」
蒼汰は笑いながらも、目だけは真剣だった。
「でも、宝も多い。外側はもうほとんどの探索者に荒らされちまってるから、貴重な薬草や霊獣を見つけるには中に入るしかないんだ。運が良ければ、俺らの修行も一気に進むぜ。」
蓮弥は小さく頷いた。確かに、この街に集まる修行者たちの目つきや準備の念入りさを見れば、その危険度がどれほどかは察せられる。だが同時に、彼の中には未知の世界への好奇心も芽生えていた。
「とはいえ、中核地域は無理だろう?」
「そりゃそうだ!」
蒼汰は両手を上げて大袈裟に首を振る。
「あそこは結丹期に達したやつじゃないと近づけない。俺たちが行けるのはせいぜい沼の中層部までさ。でも、それでも十分価値はある。」
蓮弥は少し考え、やがて決意したように口を開いた。
「わかった。だが、俺たち二人では心許ないな。もう一人、仲間を探そう。」
「そうだな!」
蒼汰の顔がぱっと輝く。
「三人ならもっと安心だし、探索の幅も広がる。俺、戦闘はそこそこ得意だけど索敵は苦手だから、補ってくれる仲間が欲しいんだよな。」
二人は歩みを止め、賑やかな市場の広場を見回した。香辛料の匂いが漂い、薬草を干す屋台や符籙を売る老商人が並んでいる。修行者たちは無言で品を吟味し、時折険悪な視線を交わす。
蒼汰はそんな空気の中でも、まるで散歩でもしているかのように楽しげに辺りを見回し、時折鼻歌を歌っている。その無邪気さが逆に目立って、蓮弥は思わず苦笑した。
「蒼汰、お前は怖くないのか?」
「怖いよ!」
即答だった。
「でも、怖いからこそ楽しいんだ。沼で何が待ってるかなんて誰も知らないだろ? だから行く価値があるんだよ。」
その言葉には、恐怖を超えた冒険心と若さゆえの大胆さが滲んでいた。蓮弥は彼の横顔を見つめながら、心の奥で静かに呟く。
「……この出会いは、偶然じゃないのかもしれないな。」
二人は視線を交わし、自然と笑みを浮かべた。蒼汰の快活さと蓮弥の冷静さ。全く正反対の二人が組むことで、何かが動き出す予感があった。
「よし!」
蒼汰は両手を腰に当て、勢いよく言った。
「仲間探しだ! 俺、情報収集は得意だからな。宿屋の掲示板も見てみようぜ。探索者を募集してるやつもいるはずだ!」
「わかった。俺は道具屋を回ってみる。」
「いいね、分担しよう! 夕方に広場の噴水で集合だ!」
蒼汰は軽快に手を振り、雑踏の中に消えていった。その背中は小柄ながらも活気に満ちており、まるで霧の中の灯火のように周囲を照らしているようだった。
蓮弥は立ち尽くし、そんな蒼汰の姿を目で追いながら思った。
「仲間……か。」
胸の奥に、修行者としての覚悟と冒険への高鳴りが同時に湧き上がる。
――この出会いは確かに縁だ。
沼の奥深くで待つ試練や宝、そして未知の危険。それらすべてが、この瞬間から始まる。
石畳を踏みしめ、蓮弥もまた市場の雑踏へと足を踏み出した。