紅蓮仙途【第01話】【第02話】 夏霧や ほこらに宿る 狐影
【第1話】弥太郎と霊
夏の夜。
山あいの村に、ひぐらしの鳴き声が静かに溶けていく。山の端にはまだ薄い蒼さが残り、やがてそれも星々のきらめきに飲まれた。夜気はひんやりとして肌を撫で、風に混じって土と杉の香りが漂う。
村の子供たちは数人、こそこそと集まり、ひとりひとり顔を見合わせながら息を潜めていた。誰もが声を荒げることを恐れ、囁き声だけが闇に浮かぶ。
「……なあ、本当に行くのか?」
「祠までだ。戻ってこれたら勇者だぞ」
「でも、あそこには“狐の霊”がいるって……」
怯えた声に、別の子がからかうように笑う。だがその笑いも、杉林の奥に広がる暗がりに吸い込まれ、心許なく消えていく。
林の奥の小径は、昼間でさえ薄暗い。まして夜ともなれば、一歩踏み入れるだけで自分の影さえ見失うほどだった。足元には小石や落ち葉が散り、踏むたびにかさりと音を立てる。虫の声は途切れ途切れに響き、時折ふく風が枝を揺らしてざわめきを起こす。
子供たちは一列になって歩いたが、祠が見えるころにはその列は乱れ、何人かが後ずさっていた。
「あんな所、無理だ……」
「弥太郎、やめようよ」
だが、先頭に立つ少年は振り返らない。名は弥太郎。村でも少し気が強く、同時に人一倍好奇心が旺盛な少年だ。
額に汗を浮かべながらも、弥太郎は真っ直ぐ祠へと歩みを進めた。
その祠は村はずれ、小さな丘の上にひっそりと建つ。昼間は子供たちが遊び場にしてもおかしくないほど質素で、苔むした木の扉と石段だけの小さな祠。しかし、夜の闇に包まれると、そこは全く異なる顔を見せる。ひんやりとした空気が漂い、周囲には何か言葉にできない気配が満ちていた。
弥太郎は祠の前で立ち止まり、深く息を吸った。胸の奥に、何かがざわめいている。怖さか、それとも……別のものか。
小さな灯りもない祠の中を覗き込むと、暗闇の奥にひとつの像が浮かび上がった。
それは狐の姿をした像。牙をむき出しにし、瞳は翡翠のように鋭く光っている。昼間に見たときは、ただ穏やかな仏像が鎮座していたはずだった。だが今、そこにあるのはまるで鬼の化身のような狐像。両の手には、細く湾曲した刀の柄が握られている。
「……こんなの、昼間はなかったぞ」
弥太郎は目を凝らす。確かに何度も見た祠の像だ。なのに、今は生き物のような威圧感を放ち、彼を睨み返している。
その瞬間、背筋を冷たい風が撫でた。ふと気づけば、祠の周囲に白い霧が立ち込めている。靄は音もなく揺らぎ、次第に濃くなっていく。
そして、狐像の目が――かすかに動いた。
弥太郎は息を呑む。心臓が早鐘を打ち、逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、体は硬直し、一歩も動けなかった。
白い霧の中から、影がふわりと浮かび上がった。人の形をしているが、輪郭は定かでなく、流れる水のように揺らいでいる。
その影は音もなく弥太郎に近づき――次の瞬間、彼の胸に吸い込まれるように滑り込んだ。
「……っ!」
弥太郎は喉を押さえ、苦しげに膝をつく。全身に冷たいものが走り、次いで炎のような熱が心臓から広がった。頭の奥で誰かの声が響く。
『我が魂、汝と結び、共に歩まん――』
声は深く、古の響きを帯びていた。男か女かもわからぬ声だが、その言葉が弥太郎の心の奥底を震わせた。
しばらくして、熱も冷たさもすっと消える。弥太郎は息を整え、立ち上がった。
その時、林の外から子供たちの声が届いた。
「弥太郎! 大丈夫か!」
「さすが、肝試しの勝ちだな!」
弥太郎は振り返り、いつもの明るい笑みを浮かべた。何事もなかったように笑う彼を見て、子供たちは歓声をあげた。
だが、弥太郎の胸の奥では確かに何かが目覚めていた。
夜が更け、村へ戻った後。布団に横たわっても、彼の内には妙なざわめきが消えなかった。自分の思考の裏側に、もうひとつ別の意識がある。冷たく、鋭く、時に激しい感情を伴って、彼の体を内側から覗き込むような存在。
――これは夢か、それとも現実か。
弥太郎は戸惑いながらも目を閉じた。しかし、彼の運命の歯車はすでに動き出していた。
遠い未来。彼が修仙の道へと歩み出す、その第一歩が、この夜、静かに刻まれたのである。
【第2話】村八分
あの夜、祠で狐の霊と出会って以来、弥太郎の心は波立ち続けていた。
昼間は村の子供たちと同じように笑い、田畑の手伝いも欠かさない。かつての彼は村一番の優しい子であり、困っている人を放ってはおけなかった。だが夜になると、胸の奥で別の何かが目を覚ます。冷たく、鋭く、激情を湛えた声が囁き、彼を衝き動かすのだ。
「弱さを見せるな。踏みにじれ」
「笑顔をやめろ。牙を剥け」
それは彼自身の思考の裏側から響く声であり、時に自分の意志よりも強く彼を支配した。弥太郎は夢遊病者のように、誰かを突き飛ばしたり、物を壊したりしてしまう。翌朝になれば後悔の念に苛まれるのだが、誰もその内なる葛藤を理解してはくれなかった。
子供たちは最初こそ彼を案じていた。「弥太郎、大丈夫?」と声をかけてくれた友もいた。だが彼の行動が日に日に荒くなるにつれ、心配の眼差しは恐怖へと変わっていった。
「弥太郎、また変なことやったんだって?」
「怖くて近づけないよ」
その噂が広がるたびに、弥太郎の胸に鋭い刃が突き立った。孤独感と怒りが混ざり合い、どうすればよいのか分からなくなる。
村の大人たちも眉をひそめ始めた。農作業や祭りの準備といった共同作業から、彼とその家は次第に外されていく。村には古くからの掟があり、問題を起こした家は「村八分」と呼ばれる扱いを受ける。火事や葬式といった最低限の助けだけは与えられるが、それ以外はすべて拒絶される。
弥太郎にとって、それは生きる場所を失うことと同義だった。
両親は早くに亡くなり、彼は親戚の家に身を寄せていた。最初は「かわいそうな子」と同情され、笑顔で迎えられていた。だが噂が広がるにつれ、態度は冷え切っていった。
ある晩、ふと目を覚ました弥太郎は、囲炉裏端で交わされる親戚たちの話し声を耳にした。
「どうしてこんな子を引き取ったのかねえ」
「狐憑きか、祟りか……いずれにせよ厄介者だ」
胸が張り裂けるほどの痛みが走った。布団をかぶっても涙は止まらない。自分はもうどこにも居場所がないのだと、幼い心に深く刻まれた。
翌日、勇気を振り絞って隣家の少女に声をかけたときも同じだった。彼女は怯えたように後ずさりし、何も言わずに走り去った。他の子供たちも目を合わせず、無言で彼を避けて通った。
「どうして……みんな……」
声は喉でかすれ、胸の奥で黒い感情が渦を巻いた。その時、あの声がまた囁いた。
『怒れ。拒絶する者を拒絶せよ。牙を剥け。』
弥太郎は耳を塞いだが、声は消えない。
やがて、村の年寄りが弥太郎を呼び出した。白髪の老人は重い声で言った。
「村の掟に逆らう者は、村の輪から外されるのだ。……弥太郎、お前の中に宿るものは、村に災いを呼ぶ。ここに留まることは許されぬ」
冷たい視線が集まる中、弥太郎は言葉を失った。誰も彼を庇う者はいなかった。親戚ですら目を伏せていた。
その日の夜明け前。まだ薄暗い空の下、弥太郎は小さな荷物を背負い、村の外れに立っていた。遠くから、囁き声が聞こえてくる。
「あいつは呪われている」
「村の災いを呼ぶ子だ」
弥太郎は唇を噛みしめ、振り返らずに歩き出した。涙は出なかった。ただ胸の奥で、あの冷たい声が静かに囁いた。
『良い。これで自由だ。お前は一人ではない。共に行こう。』
心の奥で、別の人格が微かに笑う。その笑みは冷酷でありながら、不思議と心強さをもたらした。
こうして弥太郎は、村という小さな世界から追放された。孤独と憎しみを抱えながらも、同時に運命の歯車は新たな方向へと回り始めていた。
この先に待つのは、苦難か、修羅か、あるいは――仙への道か。
夜明けの光が山々を染める中、弥太郎の小さな背中は確かにその一歩を踏み出していた。