キミがいたから
音の無い世界に生まれ、親にも引き取られず施設で育った少女・あみ。誰にも心を開けずにいた彼女の前に、ある日、新しく入所してきた少年・茂樹が現れる。
自分の声が届かないことにも動じず、真っ直ぐに向き合おうとしてくれる彼。紙とペンを使い、不器用ながらも優しさに満ちたやり取りが、少しずつ二人の心を近づけていく。
やがて芽生える恋心。しかし、突然訪れた里親との出会いにより、あみには新しい生活が待っていた。
離れ離れになる二人は、再会を約束して別れを選ぶ――。
時は流れ、学生になったあみの前に、あの日の約束を胸に生きていた茂樹が現れる。
互いの想いをもう一度確かめ合いながら、“ふたりの未来”を静かに見つめていく。
聴こえない世界に咲いた、一つの恋。 言葉よりも確かな気持ちを描く、真っ直ぐで切ないピュアラブストーリー。
プロローグ
いつも通り、何も変わらない一日がまた始まる。
私は、生まれたときから耳が聞こえない。音のない世界で、親にも見捨てられ、誰の手にも引き取られず、児童養護施設で育った。毎日はただ過ぎていくだけ。
誰にも気づかれず、誰にも必要とされないまま。
――そんな日々が変わったのは、
あなたに出会った、あの日から。
今日も、変わらない一日が始まるーー
そう思っていた、
でもその日は少し違っていた。
管理人さんが共通ルームに入ってきて、通訳さんが私の隣に立っていた。
どうやら新しく入ってきた子が居いるらしい。
名前は中岡茂樹という男の子。
私とは正反対、人見知りもせず、誰とでも打ち解けて楽しそうに話していた。
「挨拶してるのかな、、、」
そう思っていたとき、気付けばその子が目の前に立っていた。
何か話しかけてきていた。でも私には聞こえない。
それが申し訳なくて、涙がこぼれた。
「きっとこの子も私を一人にするんだろうな、、、」そう思ったのもある。
慌てる彼の様子を見て、通訳さんが慌てて間に入ってくれた。
――本当に、申し訳ないな、、、。
そう思っていると、彼は席を外し、紙とペンを持って戻って来た。
そして、そこに自己紹介を書いてくれた。
趣味や特技など、いろいろ教えてくれた。
これが、私と彼の出会いだった。
管理人さんは、その様子を見ていたのかもしれない。
どうやら、私の世話係を彼に任せることにしたようだった。
入ってきたばかりの彼に、なんだか申し訳なくなって、私はうつむいた。
すると彼から一枚の紙が手渡された。
――「今入ってきたばかりだから、申し訳なく想ったりしてない?」
そう書かれていた図星だった。私は黙ってうなずくことしかできなかった。
しばらくして、もう一枚の紙が差し出された。
――「そんなこと思わんくても大丈夫だよ。むしろ俺は得してる。嬉しいよ。君のこと知れる機会にもなるし、仲良くしたいし、ね?」
優しい文字が、まっすぐ私の胸に届いた。
嬉しくて、思わず微笑んでしまった。
聴こえないけれど、それでも話したくて、私はすべてを話した。
ここに来た経緯、趣味、どうして耳が聞こえないのか。
この場所ではなじめてなくて、ずっと一人ぼっちだったこと。
言葉は届かないけれど気持ち伝えたくて、ときどき笑いながら、一気に話し続けた。
――「やっば、、、引かれたかな。」
気づけば、止まらなかった。
こんなに誰かに話したのは、初めてだったかもしれない。
少し恥ずかしくなって下を向いたそのとき――
茂樹は、くすっと笑って、優しい顔を見せてくれた。
そしてまた一枚の紙を差し出してくれた。
――「色々話してくれてありがとう。全部知りたいことだったから少しずつ聞きたかったけどまさか教えてくれるとは思っても無かったよ。もっと君のこと知りたい。だから教えて?」
その文字がとても乱暴気味で、でもやさしくて、嬉しくて、私はまた、泣きそうになった。
窓の外は、夕暮れ前の淡い光に包まれていた。
泣きそうになる気持ちを奥に押し込みながら、私は立ち上がる。
「……少しだけなら、いいかな」
そんな気持ちで、彼を自分の部屋へと案内した。
お互いのことを話しているうちに、思いのほか気が合って、たくさん笑った。
気づけば、こんなに笑ったのは久しぶりだった。
そんな私の笑顔を、彼はまっすぐにほめてくれた。
照れくさくて、つい視線をそらしたけど――心の中では、あたたかい何かが弾けた気がした。
同い年だということもわかって、言葉づかいも自然と砕けていった。
距離なんて、いつの間にか消えていた。
ときどき、彼は他の子に呼ばれて、私の部屋を離れることがあった。
ほんの数分、姿が見えなくなるだけなのに――そのたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
声にはならない気持ちが、喉の奥に引っかかったまま消えない。
なんでだろう……。
わからない。でも、たしかに苦しい。
たぶん私は、もう彼の存在が、私の中で「当たり前」になってしまっていたんだ。
私自身、まだ相部屋の相手が決まっていなかったこともあり、反対側の部屋は彼が使うことになった。
その日は、それで終わった。
ちょうど夏休みだったこともあって、彼は他の子以上に、私とたくさん関わってくれた。
言葉は通じなくても、何気ないやりとりの中に、あたたかさがあった。
――そんなある日のこと。
…罰が当たったのかな。
とても怖い夢を見た。
誰かの姿がぼんやりと浮かんでいた。
ここに来たときの様子だったから、きっと――あれは、親だったのかもしれない。
「ーーーーーーーーーーーーーーーー」
何を言っていたのかは、聞こえなかった。
でも、夢の中に通訳さんが現れて、紙を差し出した。
――「あみちゃん、元気でね」
……それが、親の言葉だった。
目が覚めたとき、彼がそばにいた。
心配そうに、私を見つめていた。
差し出された紙には、こう書いてあった。
――「大丈夫? 怖い夢でも見た?」
私はうなずいて、捨てられたときの夢を見たことを伝えた。
すると彼はすぐに部屋を出て行き、やがて管理人さんと一緒に戻ってきた。
どうやら、
「ベッドは二つあるけど、一つにして、あみと一緒に寝たい」――
そう、彼が言ってくれたらしい。
管理人さんは驚きながらも、許してくれた。
その日から、私は彼と一緒に眠るようになった。
ひとりじゃない夜。
胸の奥が、すこしあたたかくなった気がした。
一緒に寝てくれているだけで、十分ありがたい。
なのに――夢は、怖いままだった。
目を閉じれば、またあの時の記憶がにじみ出す。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
そんなとき、通訳さんが部屋にやって来た。
手には一通の手紙と、何かのチケットが二枚。
手紙には、こう書かれていた。
――「彼と、行ってきておいで」
どうやら動物園のチケットらしい。
きっと気分転換にと、誘ってくれたのだろう。
ありがたく受け取り、私は彼に見せた。
すると彼は、ぱっと笑ってうなずいてくれた。
こうして、私たちは動物園に行くことになった。
移動中のバスの中、
ふたり並んで座った私たちに、彼がそっと一枚の紙を差し出してきた。
『緊張してる。ドキドキしてる。
通訳さんから色々聞いてるから、あみを楽しませたくて仕方ない』
……まただ。
こんなふうに、真っ直ぐに言ってくれるから、
こっちはどうしていいかわからなくなる。
照れくさくなって、ついそっぽを向いた。
すると、肩をトントンと叩かれた。
振り向くと、彼は少し困ったような顔をしていたけど、
すぐに、いつもの笑顔を見せてくれた。
そして、また紙に何かを書き始めた。
『急に決まったことだけど、嬉しいよ。
おれ、……やっぱなんもない。
けど、楽しませるから。いっしょに楽しもう』
途中、言いかけた言葉。
気にはなったけど――
それよりも、
彼の気持ちが伝わってきたことが、何より嬉しかった。
しばらくして、動物園に到着した。
ちょうどその時、スタッフの人に誘われて、私たちはイルカショーを見ることになった。
イルカショーは、とても楽しかった。
笑って、拍手して――その時は、ただ純粋に楽しくて、笑顔になれていた。
……なのに。
気づいたら、私は泣いていた。
自分でも理由がわからなかった。
でも、すぐにわかった。
これは、感動の涙じゃなかった。
――寂しさの涙だった。
どうして気づいたのか?
それは、彼が隣にいてくれたから。
私の顔を見た彼は、目を丸くして驚いていた。
すぐに紙を取り出して、こう書いた。
『なんで泣いてるの? なにかあった?』
紙を渡しながら、彼はそっと背中を撫でてくれる。
その手の温かさが、なんだか余計に泣きたくなった。
……せっかくの動物園なのに。
こんなふうに泣いちゃって、ごめんね。
彼がせっかく楽しませようとしてくれてたのに――
申し訳なさで胸が苦しくなる。
人の少ない静かなベンチ。木陰に風が吹き抜けていた。
彼はまた紙に何か書こうとしていた。
でも、私はその手にそっと触れた。
初めてじゃないのに――
触れた私の手は、かすかに震えていた。
その震えに気づいたのか、彼は何も言わず、優しく私の手を撫でてくれた。
そして、紙が差し出された。
『さっき泣いてたのって……もしかして、寂しかったから?』
私はうなずくことしかできなかった。
彼はすぐに、また紙に言葉を綴る。
『通訳さんが言ってた。
“あみちゃん、自分を責めたり、寂しいときに泣くことがある”って。
……大丈夫。もう、寂しくなんかないよ』
その言葉を読んだとき、胸がふるえて、熱くなった。
ぽた、ぽたと涙がこぼれた。
――ああ、わかった。
私、彼のことが好きなんだ。
私が泣いてしまったのを見て、彼は一瞬びっくりした顔をした。
でもすぐに横に来て、紙に何かを書き始めた。
『実はね、ここに来たの、初めてなんだ。あみは? 初めて?』
私を笑わせようとしてくれてる――
そう思った瞬間、胸があたたかくなった。
笑顔で、聞こえないけど、「うん」って頷いた。
彼はまた紙を差し出した。
『出会った時……って言いたいとこだけど、あみが打ち明けてくれた時あったじゃん?
あの時から思ってた。
俺、あみのこと守りたい。
あみのこと、いっぱい笑わせたい』
――それって、まさか……。
彼は続けて、こう書いた。
『あみがどう思ってるかはわからん。
けど、これから先、何があったって離れたくない。
ずっとあみの隣にいたい。
……彼氏になりたい』
心臓が、ぎゅっと鳴った。
嘘だ。こんなの、嘘だよ――
そう思うことしか、できなかった。
でも彼は、もう一度、静かに紙に書いた。
『嘘だと思ってるでしょ?
俺、本気だよ』
黙って、うつむくことしかできなかった私に、
彼はまた紙をそっと差し出してくれた。
『あみの気持ち……知りたいから。教えて欲しいな?』
その文字を読んだ瞬間、心の奥が揺れた。
だから、私は話した。
――彼と同じ気持ちであること。
でも、親とのことがあって不安でいっぱいなこと。
私なんかより、もっといい人が現れるかもしれないのに、それでも私を選んでいいのかって、思ってしまうこと。
話し終えると、彼は一瞬だけ真剣な顔をして、
すぐに紙に文字を書き始めた。
『たしかに、可愛い人とか、施設にもいるし、これから先現れるかもしれない。
告白されることも、あるかもしれない。
……でも、俺は俺。親は親だよ。
俺は、絶対に――あみを捨てたりなんかしない。
信じて。』
まっすぐに、こちらを見るその瞳があたたかくて、
紙の言葉よりも、胸に深く届いた。
その言葉を読んだ瞬間、
こらえきれずに――涙がこぼれた。
嬉しくて、安心して、
そして、ありがとうの気持ちと……「よろしくお願いします」――
全部の想いが、涙に詰まっていた。
それだけを、彼に伝えた。
すると彼は、そっと私を抱きしめてくれた。
いつもの夜みたいに、
やさしく、あたたかく、私を包んでくれた。
その腕の中は、とても心地よくて、
胸の奥から、小さな声が自然と漏れた。
「……大好き」
彼の顔を見ると、耳が真っ赤だった。
きっと、照れてるんだろうな。
それを見て、私もつい、微笑んでしまった。
楽しかった動物園の帰り道。
バスの揺れと彼の笑顔が、まだ胸の奥に残っていた。少しだけ、世界が優しく見えた。
寮に戻ってすぐ、通訳さんが私を呼び止めた。
声のトーンが、いつもと少し違う気がした。
「あみちゃん、急にごめんね。でも、大事なお話があるの」
どこか戸惑いを含んだような目で、通訳さんは私の手を軽く取った。
「……実はね、あみちゃんのことを知って、里親になりたいって言ってくださってる方がいるの」
その言葉が耳に届いた瞬間、
ふわりと宙に浮いていた心が、一気に地面に引き戻されたような気がした。
里親。
あの言葉が、ずっと遠いものに思えていた。
もう誰にも望まれていないって、どこかで諦めかけていたのに。
夢のような話。
ほんとうなら、喜ぶべきことだった。
でも――
胸の中に、重たい何かがゆっくりと沈んでいく。
「……そ、その人、どんな人……ですか?」
かすれる声で尋ねると、通訳さんは丁寧に答えてくれた。
優しくて、穏やかで、私の過去も理解しようとしてくれている人だと。
けれど、説明が進むほどに、頭の中が真っ白になっていく。
ふと、彼の顔が浮かんだ。
笑った顔。
困った顔。
私の涙をぬぐってくれた、あのぬくもり。
――離れたくない。そう思っていたはずなのに。
「ちょっと……部屋に戻っても、いいですか?」
通訳さんは心配そうに頷いてくれた。
部屋に戻ると、彼が待っていた。
さっきまでの笑顔とは違う、少しだけ不安げな表情。
紙を手に、こちらに差し出す。
『……なにかあった? 顔がこわばってる』
――うまく答えられなかった。
だって、話してしまったら、何かが壊れてしまいそうで。
「……ごめん、ちょっと……ひとりになりたい」
その一言だけを残して、私はベッドにもぐりこんだ。
背を向けたまま、布団の中で涙がにじんだ。
彼の気配がすぐそばにあるのに。
届いてほしいのに。
なにも言えない自分が、もどかしくて仕方なかった。
――なんで今なんだろう。
こんなにも、大切な人ができたばかりなのに。
彼の文字を読んで、私はゆっくりと、けれど確かにうなずいた。
「……怖いけど、ちゃんと考えたいの。逃げたくないから。」
そう言葉にすると、口の中が乾いていくような気がした。
でも、彼はその返事に、安心したように目を細めた。
また、紙にゆっくりとペンを走らせる。
『あみが逃げないって決めたなら、俺は信じる。
……だから、これだけは伝えさせて。』
一度深呼吸をして、彼は今度は少し長めのメッセージを書き始めた。
『通訳さんに、さっきお願いしたんだ。
もしあみが望むなら、里親の話にすぐ返事をしないでって。
俺がちゃんと、あみの気持ちを知るまで――時間がほしいって。』
その紙を渡す手が、少しだけ震えていた。
私の反応を怖がっているのかもしれない。
そんな彼が、とても優しくて、あたたかかった。
私は、そっと紙を受け取り、胸の前で抱きしめるようにして、目を閉じた。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう。」
涙がまた、あふれてしまいそうだった。
でも今度は、それを彼に見せても大丈夫な気がした。
しばらく静かな時間が流れた。
風がカーテンをやさしく揺らす。
蝉の声が、どこか遠くに聞こえていた。
彼がそっと立ち上がり、また紙に文字を書き始めた。
それを私の手の上に置いて、彼はすぐ横に座り直す。
『俺ね、あみがここに来たばっかりのとき、ずっと泣いてたの覚えてる。
でもさ、最近のあみ、笑ってることの方が多くなったよ。
それ、全部じゃないかもだけど――俺、ちょっとでも力になれてた?』
私は、その問いに、涙がこぼれないように笑った。
「……ううん、すっごくなってた。大事な人だよ。」
そう言ったとき、彼の耳がすこし赤くなったのを見逃さなかった。
彼はまた、紙に何かを書きながら、少し迷ったような顔をしていた。
けれど、やがて決意したように、まっすぐな目でこちらを見て、紙を差し出してくれた。
『あみの未来は、あみのものだよ。
でも、俺はその未来に――できれば、ずっと一緒にいたいと思ってる。』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
不安や迷いはまだ消えないけど、それでも――彼がいてくれるなら、向き合ってみたいと思った。
「……ありがとう。少しだけ、心が強くなれた気がする」
小さな声でそう言った私に、彼はやわらかく笑って、紙にまたこう書いた。
『また何かあったら、すぐ言ってね。怖いとき、泣きたくなったとき、
俺、できるだけそばにいるから。』
まるで、それだけで未来を照らす光のようだった。
私は深く息を吸って、小さく、けれどはっきりとうなずいた。
「……じゃあ、明日、通訳さんと話してみる」
彼はうれしそうに、でも静かに、何度もうなずいてくれた。
そして、その夜――
私は初めて、悪夢を見ずに眠ることができた。
彼の「そばにいるから」という言葉が、心を守ってくれていた。
あの日以来、私はなんとなく彼との距離を――
ほんの少しだけ、意識するようになっていた。
彼も、どこかそっと、距離を測っているような気がした。
廊下ですれ違えば、今までどおり笑いかけてくれるけど。
私が手を振れば、ちゃんと振り返してくれるけど。
それ以上の何かを、彼はしようとはしなかった。
……いや、しようとしていないのだと思う。
私の心がまだ揺れていること、ちゃんとわかってくれているのだ。
そのことが、うれしいような、さびしいような、そんな気持ちだった。
たとえば、昼休み。
いつもなら一緒に食べていたごはんも、今は別々のテーブルで食べていた。
でも、たまに視線が合うと、彼はふっと笑って、スープのカップを掲げてみせる。
まるで、「ちゃんと食べてるよ」って、伝えてくれてるみたいに。
夜、隣の部屋から聞こえる紙の音――
彼がまだ何か書いているのがわかる。
でも、私のドアをノックすることはなかった。
私が、自分からノックしない限りは。
……そうして、一週間が過ぎた。
少しだけ、寂しさが増していく。
でも、それは彼のせいじゃない。
私が選んだ「考える時間」だから。
「――これでいいんだよね」
ポツリと声に出して、窓の外を見た。
もうすぐ、夏が終わる。
制服を着て新学期を迎える日が近づいている。
私の心も、そろそろ、前に進まなきゃいけないのかもしれない。
そう思った日の夜。
いつもより遅くまで灯りのついた彼の部屋から、
ひそかなノックの音が聞こえた。
ドアを開けると、彼が少しだけ照れたように立っていた。
そして、おなじみの紙が差し出された。
『ごめんね、話しかけたくなるの我慢してた。
あみが、自分のペースで考えたいって思ってる気がしてたから。
でも、……もう少しだけ、近くにいてもいい?』
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
私の時間を、ちゃんと尊重してくれていた。
そして、今、もう一度……「そばにいたい」と言ってくれている。
私は小さく、でもしっかりとうなずいた。
「うん。……待っててくれて、ありがとう。」
そのときの彼の笑顔は、あの日のイルカショーよりも、ずっとまぶしかった。
こうして、私たちはまた、少しずつ、少しずつ、
お互いの気持ちに向き合っていった。
ただ「好き」だけでは進めない、
でも「好き」だからこそ丁寧に育てたい――そんな時間だった。
通訳さんに呼ばれて、事務所の小さな部屋に入ると、やわらかな笑顔で迎えてくれた。
「ちょっと話、できるかな?」
頷いて席に着くと、テーブルの上にメモ帳とペンが用意されていた。私はそのペンを手に取り、少し迷ったあとで、こう書いた。
――「私、彼のことが好きです」
書いた文字を見せるのが恥ずかしくて、視線を伏せたまま紙を押し出した。
通訳さんはそれを読むと、目を細めて、しばらく何も言わずに頷いた。
「……うん。気づいてたよ。あみちゃんが、彼の前で自然に笑えるようになってきたから。」
私はまた、ペンを取った。
――「でも、私なんかが、好きになっていいのかなって思って……」
通訳さんは少し考えてから、柔らかく答えた。
「“好き”って気持ちは、誰かに許してもらうものじゃないよ。あみちゃんの大事な心の声だから。」
その言葉が、胸にすっと沁みた。
通訳さんがさらに続ける。
「実はね……彼も、あみちゃんの気持ちをちゃんと知りたいって言ってたの。自分の想いだけじゃなくて、あみちゃんの本当の気持ちも聞きたいって。」
私は目を見開いた。彼が――?
――「……伝えたい。でも、うまく書けるかわからない」
通訳さんはにっこり笑って、そっと手を伸ばした。
「一緒に考えよう。伝えたい想い、ちゃんと届くように。」
そうして、私たちは少しずつ、言葉を紡いでいった。
彼への想い。寂しさや不安。自分に自信が持てないこと。けれど、それでも彼と一緒にいたいという気持ち。
書き終えた紙を見て、通訳さんは静かに頷いた。
「大丈夫。これなら、きっと彼にも、面談をする人たちにも、あみちゃんの心が届くよ。」
私は深く息を吐いて、ふっと笑った。
その瞬間、小さな希望が心に灯った気がした。
通訳さんは、あみの書いた手紙をもう一度読み返したあと、ふわりと優しい声で話しかけた。
「……あみちゃん、ありがとう。ちゃんと伝えてくれて、すごくうれしいよ」
私は照れくさくなって、少しだけうつむいた。
通訳さんは、その様子をそっと見守ったあと、やわらかく問いかけるように、言葉を続けた。
「ねえ、あみちゃん……少しだけ、面談のことについても話していいかな?」
私は顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
通訳さんは、少しだけ間を置いてから言った。
「今日、施設に新しい里親候補のご夫婦が来てね。あみちゃんのことを知りたがってたの。まだ、面談が決まったわけじゃないけど……お話だけでも、聞いてみたいって」
心の奥が、少しざわついた。
私はペンを取り、メモ帳に書いた。
――「その人たち、どんな人?」
通訳さんは笑顔で頷いた。
「うん、とてもやさしそうな人たちだったよ。子どもを大切に育てたいって、何度も言ってた。手話も少し勉強してくれてるみたい」
私は驚いて、目を見開いた。
手話を――? 私のために?
通訳さんは、少しだけ表情を引き締めて、静かに問いかけた。
「……あみちゃんは、その人たちと会ってみたいと思う?」
私はすぐに答えられなかった。
メモ帳の上にペンを置いたまま、しばらく指先が動かない。
通訳さんは、焦らせることなく、優しく待ってくれていた。
しばらくして、私はゆっくりと文字を書いた。
――「正直、少しこわい」
通訳さんは、深く頷いた。
「うん、そうだよね。無理もないよ。これまで、いろんなことがあったもんね。……だけど、“こわい”って思ってることも、すごく大切な気持ちだと思う」
私は、もう一言だけ、書き加えた。
――「でも……ちゃんと話を聞いてみたいとも思ってる」
通訳さんは、少し目を細めて笑った。
「うん、それだけで十分だよ。会うかどうかは、ちゃんとあみちゃんの意思を大事にするから。無理にとは絶対に言わない。……でもね、あみちゃんが“会ってみようかな”って思えたら、きっとその一歩が、これからの未来を変えていくと思う」
私は、そっと胸に手を当てた。
どくん、と小さく鼓動が鳴る。
……きっと、私は、誰かにちゃんと愛されたいと思っている。
それを、怖くて言えなかっただけなんだ。
私は深く息を吸って、メモ帳に最後の言葉を書いた。
――「……もう少しだけ、がんばってみたい」
通訳さんはその言葉を見て、ゆっくりと手を握ってくれた。
「ありがとう。あみちゃんのその気持ち、ちゃんと伝えるね」
その手の温かさが、心にじんわりと広がっていった。
部屋の扉をそっと開けると、彼はベッドの上に座っていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、彼の横顔をやわらかく染めていた。小さな紙片とペンを手に持ったまま、私の姿を見つけると、ぱっと顔を上げた。
「おかえり」
声は聞こえないけれど、その唇の動きと表情で、すぐにわかった。
私は小さく会釈しながら、部屋の中に足を踏み入れた。けれど、なんだか胸の奥がもぞもぞして、うまく彼の目を見られなかった。
さっき通訳さんに話したことが、ずっと胸の中でぐるぐるしている。
「……どうしたの?」
彼はそう言いたげに、すぐにメモ帳を取り出し、さらさらと何かを書き始めた。
『なにかあった? 通訳さんと、ずっと話してたよね』
私は少しだけためらってから、うなずいた。
ペンを握る手が、少し汗ばんでいるのを感じながら、ゆっくりと紙に書いた。
――「……里親さん。面談することになったの」
その言葉を書いた紙を彼に差し出すと、彼は数秒だけ目を見開いて、それから何度か瞬きをした。
すぐに、彼の手が動く。
『そっか。……決めたんだね』
私は黙ってうなずいた。胸がぎゅっと締めつけられる。でも、それは悲しさじゃない。なんとも言えない緊張と、少しの怖さ、そして覚悟。
彼は少しだけ考えるような素振りを見せてから、また紙に言葉を綴った。
『怖くない? 無理してない?』
その問いかけに、私は自然と笑みをこぼしていた。
――「こわいよ。でも、通訳さんがちゃんと私の気持ちを伝えてくれるって。だから、少しだけ、がんばってみる」
そう書いて渡すと、彼は紙をじっと見つめたまま、口元に小さく笑みを浮かべた。
『あみ、すごいよ。ちゃんと前に進もうとしてる。……俺、応援する』
そして、彼はそっと自分の胸を軽く叩きながら、もう一枚の紙を差し出してきた。
『俺も、あみのこと守りたいって、今まで以上に思ったよ』
その言葉に、胸がじんわりと熱くなった。
目と目が合う。言葉はなくても、彼の瞳の奥にある優しさが、まっすぐに心に届いた。
私は、書いた。
――「ありがとう。……面談の日、背中押してくれる?」
彼は勢いよくうなずいた。
『任せて! あみの一番の味方でいるから』
その言葉に、また涙がにじみそうになって、私は慌てて笑ってごまかした。
静かに流れる時間の中で、私は彼と並んで座った。二人の間にある距離は、小さくて、あたたかかった。
面談まであと少し。
怖くても、寂しくても、もう独りじゃない――そう思えたから、私は前を向けた。
面談の日が近づいてきて、私の胸はそわそわと落ち着かなかった。
そんな気持ちを少しでも紛らわせたくて、私はいつもより早く制服に着替え、登校の準備を整えた。教室に入ると、友達が笑顔で迎えてくれる。筆談と身振り手振りを交えてのやりとりも、今ではすっかり慣れてきた。
昼休み。クラスの女の子が「これ、一緒に食べよ!」とパンを半分にちぎって差し出してくれる。その小さな優しさが、心にあたたかくしみこんだ。
でも――
ふと、思ってしまう。
もし里親さんが決まって、今の場所から離れることになったら、私はまた一人になってしまうんじゃないか、と。
笑い声の中にいても、ぽっかりと心に影が差す。
下校後、いつも通り彼と一緒に帰る。でも今日は、どこかうわの空の私に、彼が心配そうな目を向けていた。
「どうしたの?」と目で問いかける彼に、私は笑って首を横に振った。
でも、本当は――不安でいっぱいだった。
***
寮に戻ると、私は迷わず、管理人さんと通訳さんの部屋をノックした。
「あみちゃん?」
通訳さんが私の顔を見るなり、心配そうに声をかけてくれる。
私は紙とペンを手に取り、自分の気持ちを書き始めた。
――「面談のこと、少しこわいです」
「……うん。正直な気持ちを教えてくれてありがとう」
通訳さんは優しく微笑んでくれる。でも、私の手は止まらなかった。
――「学校も、今の友達も大好き。彼とも、もっと一緒にいたいです。なのに、離れるかもしれないと思うと、怖い」
言葉にしてはじめて、自分の気持ちの輪郭がはっきりしていく。
通訳さんは、しばらく黙って私の文字を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「あみちゃん、面談は“決まるための場所”じゃないよ。“知ってもらう場所”なんだよ」
「その人たちが、あみちゃんの今の暮らし、気持ち、大切なものを知ってくれるかどうかを、一緒に考える機会。無理に進む必要なんてないの」
管理人さんも、隣でうなずいてくれる。
「その気持ちがあるだけで、立派な一歩だよ」
私は、少しだけ目を伏せたまま、うなずいた。
――こわいけど、話せてよかった。
通訳さんがそっとメモを差し出す。
『面談の日、無理に元気にしようとしなくていいから。ありのままのあみちゃんを、ちゃんと届けようね』
私はその言葉を、何度も読み返した。
心が少しだけ、軽くなった気がした。
――この気持ちを、彼にも伝えよう。今度は、私からちゃんと。
夕方、食堂の隅にぽつんと座っていたあみは、ふと立ち上がり、通訳さんのいる部屋へと足を向けた。
何度か途中で立ち止まりそうになったけれど、胸の奥の「知りたい」という気持ちが、背中をそっと押してくれた。
コンコン、とドアをノックすると、通訳さんが優しい顔で出迎えてくれる。
「あ、あみちゃん……どうしたの?」
あみは少しだけためらいながら、胸元にしまっていた紙を取り出す。
震える手で、ゆっくりと文字を書く。
――「面談の人のこと……教えてほしい。知りたいって思った」
通訳さんの表情が、すっとやわらかくなった。
「うん、もちろん。話せる範囲になるけど、それでもいい?」
あみは「うん」と、しっかりうなずいた。
通訳さんは、机の引き出しから一枚の書類を取り出す。
それは、里親候補――藤川真紀さんという名前の女性について書かれた、プロフィールのような紙だった。
「藤川さんはね、40歳ちょっと手前の女性で、保育園で長年働いていた人なの。今はおうちで、子どもに絵本を読み聞かせるボランティアをしてるんだって」
――保育園。
その言葉に、あみの胸がかすかにざわめく。
昔、遠くで聞いた子どもたちの笑い声を、ふと思い出した。
通訳さんは続けた。
「一緒に暮らすって、やっぱり不安だと思う。でもこの人、あみに無理をさせないようにって、最初は“週に一度、顔を見て話すだけでもいい”って言ってくれてるの」
あみは、その優しさに少し戸惑いながらも、また紙に文字を書く。
――「そんな人が、なんで私みたいな子に?」
通訳さんは静かに笑った。
「“あみちゃんみたいな子”って、どういう意味?」
あみは答えられない。下を向いて、口をぎゅっと閉じる。
でも、通訳さんはすぐに言った。
「“自分のことを下に見る子ほど、優しさを受けとる器がある”って、藤川さんが言ってた」
――器?
「“大きな悲しみを経験してきた子は、人の気持ちを想像できる。だからこそ、温かさもちゃんと受け止められる”って」
その言葉を聞いたとき、あみの胸の奥が、ほんの少しだけ、あたたかくなった気がした。
しばらく黙っていたあみは、やがて紙にこう書く。
――「……会ってみても、いいかなって思った」
通訳さんは、ゆっくり、しっかりうなずいた。
「それだけで、もうすごいことだよ。ありがとう、あみちゃん」
食事が終わった後、いつもならまっすぐ自室に戻るけれど、
あみはなんとなく、足が談話室の前で止まった。
――伝えなくちゃ。
けれど、口にするのが少し怖くて、扉の前で小さく息を吐いた。
中からは、ページをめくる小さな音。
カーテン越しに月の光がさしこみ、部屋の中が優しく照らされていた。
意を決して扉を開けると、ソファに腰かけていた彼が顔を上げた。
目が合うと、ほっとしたような表情を浮かべて、小さく手を振ってくれる。
「おかえり」
声は聞こえなくても、唇の動きと笑顔で、その言葉はまっすぐ伝わってきた。
あみは静かにうなずき、彼の隣に座る。
彼がすっと顔をのぞきこんでくる。
『通訳さんと話してた?』
あみは頷いて、バッグからメモ帳を取り出した。
ゆっくりと文字を書いて、彼に見せる。
――「明日、藤川さんっていう人に会うことになった」
彼の目が丸くなる。
『……それって、里親候補の?』
「うん」
彼は数秒、何かを考えているように黙ってから、メモ帳を手に取って書いた。
――『あみが会いたいって思ったの?』
「うん。……通訳さんと話してて、ちょっとだけ気になるって思ったの」
しばらく黙ったあと、彼は静かにうなずいた。
そして、少しだけ言葉を綴る手が止まった。
『こわい?』
あみは、小さく唇をかんで、やがて首を振る。
「少しだけ。でも……ちゃんと自分の目で見て、話を聞いて、決めたいの」
彼はその言葉を読んで、しばらく何も言わず、そして――
ノートに大きく、ひとこと書いた。
――『えらい』
その文字を見た瞬間、ふいに胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
でも、すぐにその温かさと一緒に、不安も胸に広がった。
あみは、また文字を綴る。
――「……もしも、あの人に会って、いい人だったら、私……どこか遠くに行くことになるかもしれない」
彼の表情が、少しだけ曇る。
だけどすぐに、それを振り払うように首を横に振った。
『それでも、あみが幸せになれるなら、それでいい』
一瞬、言葉を失った。
でも、次に差し出されたメモには、彼らしい気遣いがあった。
――『でも……できれば、そばにいてほしい』
あみの心が、小さくふるえた。
「……ありがとう。ほんとに」
彼は少し照れたように、ポケットから飴玉を差し出してきた。
手のひらにそれを乗せられて、あみは思わず微笑んだ。
『明日、ちゃんと話せるといいね』
「うん。……頑張ってくるね」
隣にいるだけで、こんなにも心強い。
彼とこうして話せてよかった――
そう思えた夜だった。
カーテン越しの光が、あみの頬を照らす。
目を覚ますと、彼はすでに起きていて、ベッドに座ってノートを開いていた。
あみが目をこすると、彼は振り返り、微笑んだ。
『おはよう』
「……おはよう」
声はなくても、ちゃんと伝わる朝の挨拶。
食堂に行く前、鏡の前で少しだけ服を気にしてみたり、
通訳さんとの待ち合わせ時間を気にしながら時計を見たり。
そんなあみを、彼はずっとそっと見守ってくれていた。
「……いってきます」
彼は頷いて、ノートにひとこと。
――『ファイト。終わったら話、聞かせてね』
その言葉を胸に抱いて、あみは扉を開けた。
大丈夫、きっと、ちゃんと話せる。
不安はあるけど、もうひとりじゃない。
彼が、待っててくれるから。
通訳さんと一緒に面談室の前まで来ると、あみの足は自然と止まった。
心臓の音が、耳の奥でどくどくと鳴っている。
手のひらはじんわり汗ばんで、スカートのすそを何度も握りしめた。
通訳さんが優しく肩に手を置いてくれる。
「大丈夫。ゆっくりでいいからね。あみちゃんのペースで」
あみは小さくうなずいて、深呼吸をひとつ。
ドアをノックして、通訳さんが静かにドアを開ける。
「失礼します」
部屋の中には、すでに一人の女性が座っていた。
きちんとしたスーツ姿で、でも、どこか堅苦しすぎない柔らかい印象。
あみを見ると、優しく微笑んで、小さく会釈した。
「あみちゃんですね。はじめまして、藤川と申します」
口元の動きに合わせて、通訳さんが言葉を手話と声で伝えてくれる。
あみはぎこちなく一礼して、緊張したまま席に着いた。
視線を合わせようとしても、どうしても目が泳いでしまう。
――なにを聞かれるんだろう。
――なにを話せばいいんだろう。
――ちゃんと、話せるかな……。
藤川さんは、すぐには質問を始めなかった。
代わりに、にこやかにこう言った。
「まずは、来てくれてありがとう。会えるの、楽しみにしてたの」
その言葉に、あみは少しだけ肩の力が抜けた。
「こちらこそ……会ってくださって、ありがとうございます」
声にならない声と、手話と、通訳さんのサポートで、言葉を伝える。
藤川さんは、丁寧にその言葉を受け止めてくれた。
「お話しする前に、少しだけ自己紹介させてもらってもいいかな?」
あみがうなずくと、藤川さんは少しだけ背筋を伸ばして話し始めた。
「私は、福祉の仕事をずっとしていてね。子どもと関わることが好きで、でも、自分の子どもを授かることはできなかったの。だから、誰かの“家族”になれたらいいなって、思って……あみちゃんのことを紹介してもらいました」
その言葉を聞きながら、あみの中に、少しずつ何かが染み込んでいく。
「……ありがとうございます」
小さく手話で伝えると、藤川さんはほんの少し目尻を下げた。
「今日、あみちゃんと話すのは、決めるためじゃなくて、知るための時間だと思ってるの。あみちゃんがどんな子か、どんなことが好きで、どんなことに不安があるか、たくさん教えてもらえたら嬉しいな」
通訳さんも、その言葉に安心するように頷いていた。
あみは胸に手をあてて、小さく深呼吸した。
――話してみよう。ちゃんと、自分の言葉で。
「私は……人と話すのが、少し苦手です。でも……話を聞いてくれる人がいると、安心します」
その言葉に、藤川さんはすぐに笑顔を見せた。
「じゃあ、今日の私の役目は、あみちゃんに“安心してもらうこと”かな」
少しだけ、あみも笑った。
それは、ほんの小さな始まりだけれど――
“家族になるかもしれない誰か”との、最初の一歩だった
沈黙が落ち着いた空気に変わってから、藤川さんがゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、あみちゃん。もしよかったら、好きなこと、教えてくれる?」
その言葉を、通訳さんが手話と声で優しく伝えてくれる。
あみは少しだけ考えてから、指を動かした。
「絵を描くのが、好きです。静かなところで、空の絵とか、動物の絵を描くのが」
通訳さんがその手話を伝えると、藤川さんの目がぱっと明るくなった。
「わぁ、素敵。動物って、どんな動物を描くの?」
「猫とか……あと、鳥とか……ペンギンも好き」
「ペンギン! 可愛いよね。ちょっとふてぶてしい顔してるのに、歩き方が可愛くて、たまらない」
藤川さんのその一言に、あみは思わず「ふふっ」と声を漏らした。
それはとても小さな笑いだったけれど、自分でも驚くほど自然だった。
「あみちゃんの描いた絵、いつか見せてもらえるかな?」
あみは、ほんの一瞬だけ戸惑ったけれど、静かにうなずいた。
藤川さんの目が、やわらかく細められる。
「ありがとう。私の好きなことも、話していい?」
「……はい」
「私はね、植物が好きなの。小さな鉢植えを育てたり、ベランダでミニトマトを育てたりしてるのよ。あと……美術館に行くのも好き。絵を描くのは得意じゃないけど、見るのは大好きなの」
あみは、手のひらの上に絵の具を広げるような仕草をしながら、
「どんな絵が、好きですか?」
とたずねた。
通訳さんが手話で通してくれると、藤川さんは少し考えてから答えた。
「自然の絵かな。緑が多いものとか、季節を感じるもの。夏の光とか、秋の静けさとか……」
その言葉を聞いて、あみの中にある絵のイメージがふわりと浮かぶ。
――夏の朝に、ひまわりが風に揺れている絵。
――秋の夕方に、落ち葉を踏む音が聞こえそうな道。
「あ……それ、私も好きです」
「ほんと? うれしいな。感性、ちょっと似てるのかもしれないね」
あみは、そっと視線を藤川さんに向けた。
――この人と、もう少し話してみたい。
そう思えた自分に、少し驚いていた。
「……お料理とかは?」
藤川さんは目をまるくした。
「意外と、得意かもしれない。煮込み料理とか、よく作るの。カレーとか、肉じゃがとか」
「カレー……大好きです」
「そっか。今度一緒に作れたらいいな」
その言葉に、あみの胸に、ぽっとあたたかい灯がともったような気がした。
まるで、見えない心の距離が、少しだけ近づいたような感覚。
「私……もっと知りたいです。藤川さんのことも。ゆっくり……たくさん」
言葉にするのは、まだ少し怖い。
でも、伝えてみたくなった。
藤川さんは、目にほんのり涙を浮かべながら、微笑んだ。
「ありがとう。私も、あみちゃんのこと、もっと知りたい。少しずつでいいから、教えてね」
あみは、小さく頷いた。
まだ、全部を話せるわけじゃない。
でも、**「家族になれるかもしれない誰か」**との距離が、今日、確かに一歩近づいた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白いシーツに小さな影を落としていた。目を覚ました茂樹は、いつもより少しだけ静かな空気に気づく。隣の部屋に人がいる——そう思うだけで、胸の奥が少しざわついた。
この日から一週間、聴覚に障がいをもつ少女・あみと、体験として一緒に暮らすことになっていた。
理由は、あみの里親候補としての適性を判断するための「一時的な同居」だった。もちろん、正式な里親というわけではない。あくまで「候補」。でも茂樹にとって、それはそれ以上の意味を持っていた。
軽く髪を整え、Tシャツのしわを伸ばしてリビングへ向かうと、もうすでにあみがいた。ソファにちょこんと座り、ひざの上で手を静かに組んでいる。小さな鞄と、ノートとペン。彼女が持ち歩く「声」の代わり。
茂樹はゆっくりと笑みを浮かべて、手を振った。
あみは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく微笑み返し、ペンを走らせた。
《おはようございます。今朝は、よく眠れましたか?》
ノートを見せられるたびに思う。あみの字はとても丁寧で、言葉以上に気持ちがこもっている気がする。
「うん。よく寝たよ。あみは?」
彼女は頷いて、小さくピースをしてみせた。そのしぐさが妙に子どもっぽくて、茂樹はつい笑ってしまう。
——この数日、彼女とは学校で何度か顔を合わせていた。でも、こうして同じ屋根の下で過ごすのは初めてだ。朝食の準備も、片付けも、些細なことすべてが「初めて」の連続だった。
食卓では、茂樹が用意したトーストと目玉焼きをふたりで分け合った。手話はまだおぼつかない。でも、あみは根気よく待ってくれる。彼女のその優しさに、茂樹は救われていた。
朝食を終え、皿を片付ける間も、ノートのやり取りは続いた。
《私、迷惑じゃないですか?》
ふと、あみが見せたノートの一文に、茂樹は手を止めた。
「……そんなこと、あるわけないじゃん。」
言葉では届かない。だからこそ、まっすぐ彼女の目を見て、ゆっくりと頭を横に振った。
「一緒にいてくれて、嬉しいよ。」
あみは、ほんの少しだけ視線を伏せたあと、頬を染めて頷いた。
こうして始まった、静かで、優しい同居生活。ぎこちないけれど、確かに少しずつ、ふたりの距離は縮まっていく。
その日の午後、あたたかい日差しが差し込む相談室で、わたしはひとつのお願いをした。
ノートに、震える手で書いた言葉。
《わたし、自分の物を少しだけ、買いたいです。》
通訳さんはわたしの顔を見て、少し目を丸くする。でも、すぐにやわらかくうなずいた。
「……それ、大事なことね。うん。あみちゃんが、これから暮らす場所の準備を自分でしたいって、すごくいいと思う。」
わたしは、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
わたしの気持ちが、ちゃんと届いた――そんな気がして。
「藤井さんに、相談してみるね。」
そう言って通訳さんがスマートフォンを取り出し、短く事情を伝えている。わたしは、膝の上で手をぎゅっと握っていた。
少しして、通訳さんが顔を上げた。
「OKだって。駅前のショッピングモールで待ち合わせしようって。藤井さん、あみちゃんに会えるの、楽しみにしてるみたい。」
わたしは小さく、でもしっかりとうなずいた。
言葉では言えないけれど、「ありがとう」の気持ちを込めて。
駅前のモールは、天井が高くて、光がふんわりと広がっていた。
エスカレーターの音、人の話し声、館内アナウンス。聞こえないはずの音たちが、なんとなく空気で伝わってくる。
売り場の一角。タオルがずらりと並ぶコーナーで、わたしは足を止めた。
淡い水色。ふわふわのピンク。シンプルな白。
手に取ると、やわらかい感触が指先に伝わる。思わず目を閉じて、額にそっと当てた。
(ここで、暮らすんだ。)
まだ信じられない気持ちと、ほんの少しの期待。
わたしは迷いながらも、水色のフェイスタオルを一枚選んだ。
隣の棚には、香り付きの柔軟剤が並んでいる。
ラベンダー、シトラス、石けんの香り。
蓋を開けて、鼻に近づける。
(これだ……)
ラベンダーの香りが、ふわっと鼻腔をくすぐる。なんだか、お布団にくるまれたときの安心感に似ていた。
紙袋にそれらを入れて、出口近くのベンチに腰を下ろす。ガラス越しに見える空は、どこまでも青かった。
やがて、誰かの影が差す。
そっと顔を上げると、藤井さんがいた。
紺のカーディガンに、ベージュのスカート。落ち着いた雰囲気だけど、どこか優しさがにじんでいる。
「……あみちゃん?」
その声はわたしには聞こえない。でも、藤井さんの口の形と、表情から、すぐにわかった。
彼女はわたしの近くまで来て、にっこりと微笑んだ。
わたしはバッグからノートを取り出し、ペンを走らせる。
《すみません、先に買い物していました。》
「ううん、気にしないで。よく来てくれたね。」
藤井さんは紙袋をちらりと見て、そっと言った。
「……いい香り。ラベンダー、好き?」
わたしは小さくうなずく。
《落ち着く香りです。眠れないとき、匂いを嗅ぐと、少し安心できます。》
「そうなんだ。……あみちゃん、ちゃんと自分のこと、わかってるんだね。」
その言葉に、わたしの胸がじんわりと温かくなった。
誰かが、わたしを「ちゃんと見てくれている」――そんな気持ちが、言葉よりも深く沁みていく。
藤井さんは、少しだけ照れたように笑って言った。
「ねえ、買い物、もう少し付き合ってもいいかな? せっかくだから、あみちゃんの好きな物、もっと教えて?」
わたしは、一拍おいてから、ノートにこう書いた。
《はい。……うれしいです。》
タオルと柔軟剤を買ったあと、わたしと藤井さんは、モールの一角をぶらぶらと歩いていた。
すると、通路の先にカラフルな風船が浮かんでいるのが見えた。赤、青、黄色、ふわふわと天井近くまで届いている。
「ん?」
藤井さんが小さく立ち止まり、案内板に目を向けた。
「……親子向けの、ワークショップ?」
小さな白いボードに、こんなふうに書いてある。
《親子でつくろう!世界にひとつのマグカップ》
子どもがクレヨンで絵を描いている横で、大人がにこにこと見守っていたり、一緒に筆を動かしていたりする。色とりどりのマグカップが、焼き上がりを待つ棚に並んでいるのが見えた。
藤井さんはわたしのほうを振り返り、ちょっとだけ笑う。
「……ちょっと覗いてみる?」
わたしは、おそるおそるうなずいた。
ワークショップの担当の女性が、やさしい笑顔で案内してくれた。
「ご希望でしたら、お二人でも大丈夫ですよ。マグカップは1人1個ですけど、どなたでも歓迎です。」
藤井さんがわたしを見る。わたしは目を伏せるようにして、それでも首を縦に振った。
小さなテーブルに向かい、真っ白なマグカップと、色鉛筆、絵の具、クレヨンが並んでいる。
(何を描こう……)
しばらく考えて、わたしはクレヨンを一本取った。
最初に描いたのは、青い空。
次に、小さな雲。
そして、真ん中に、大きな虹。
隣を見ると、藤井さんは優しい顔で、草の上にお花を描いていた。
「……あみちゃんの、すごく素敵。」
わたしは、マグカップに描かれた自分の絵を見つめた。
空、雲、虹――そのどれも、今の気持ちだった。
描いているうちに、胸の奥がじんと熱くなる。
(……こんなの、初めてだ)
誰かと一緒に、笑って、絵を描いて。
静かだけど、あたたかくて、やさしい時間。
そっと指で頬に触れると、知らない間に、涙がこぼれていた。
藤井さんが、驚いたようにこちらを見つめる。
「……あみちゃん?」
わたしは、必死でノートを開いて、手を動かした。
《ごめんなさい。楽しくて……涙が出てきただけです。》
藤井さんは、ふっと息を飲んで、それから小さく笑った。
「……そっか。ううん、泣いていいんだよ。泣けるって、いいことだもん。」
そっと、背中に手が添えられる。
そのあたたかさに、もう一粒、涙がこぼれ落ちた。
焼き上がりを待つあいだ、二人でジュースを飲んで、少しだけおしゃべりして。
手元には、それぞれの描いたマグカップが、ふたつ並んでいる。
白地に虹を描いた、わたしのマグカップ。
そして、藤井さんの、花の咲いた草原のようなカップ。
陶芸のスタッフさんが、優しく包み紙でくるんでくれた。
「大切に包んでおきますね。冷めたら、ぜひおうちで使ってください」
――おうち。
その言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
おうち、か。
藤井さんの“うち”に、これからわたしは“おじゃまする”。
それでも今日、マグカップを一緒に作って、おそろいの紙袋を手にした今。
その場所が、ほんの少し、“おうち”のように感じられた。
歩きながら、藤井さんがふっと笑った。
「朝は牛乳派? それともジュース?」
わたしは少しだけ悩んでから、ノートを開いた。
《ホットミルク、飲めるなら……うれしいです》
藤井さんは、にっこり笑ってうなずいた。
「じゃあ、明日の朝はそれにしよっか。作ってあげるね」
夕暮れの光の中、手提げ袋が揺れる。
中に入っているのは、今日わたしたちが描いた、世界にひとつのマグカップ。
名前なんて書いていないけれど――きっと、忘れない。
この午後のやさしい記憶と、少しだけ泣いたこと。
そして、あの虹の色。
ショッピングモールの陶芸コーナーを出てすぐ、藤井さんが手を止めた。
「ね、あみちゃん。今日の晩ごはん、一緒に作らない? 何か好きなもの、ある?」
わたしは思わず立ち止まって、ちょっとだけ目を丸くした。
夕ご飯を、いっしょに?
考えたこともなかったけど――それは、なんだか、とても嬉しいことのように思えた。
わたしはゆっくりとノートを開き、こう書いた。
《ハンバーグ……たべたいです》
藤井さんの顔がぱっと明るくなる。
「いいね! じゃあ、合いびき肉と玉ねぎ、それに……サラダもつけようか。好きなドレッシングある?」
わたしは首をかしげながらも、ほんの少し笑った。
――なんだか、普通の親子みたい。
スーパーのカートを押しながら、藤井さんは必要なものを一つずつチェックしていく。
玉ねぎを手にとって、「これ、ちょっと大きめだね」とつぶやいたり、
お肉コーナーでは「ふたり分だと、どのくらいがちょうどいいかな」と首をかしげたり。
わたしも少しずつ、棚に手を伸ばして、ミニトマトやレタスをかごに入れる。
そのたびに藤井さんはうれしそうに「ありがとう」って言ってくれる。
日常の、なんでもないやりとり。
だけどその一つひとつが、わたしの心を少しずつやわらかくしていった。
最後に、わたしはノートにこう書いた。
《お料理、手伝えますか?》
藤井さんは驚いたように目を丸くしてから、やさしく笑ってうなずいた。
「もちろん。ふたりで作った方が、きっとずっと美味しくなるもんね」
買い物袋の中には、食材と、ちいさな期待がいっぱい詰まっている。
――その袋を持って向かうのは、藤井さんの“家”。
だけど今は、それがちょっとだけ、“わたしの帰る場所”に思えた。
藤井さんの家は、こじんまりとしていて、でもあたたかさがにじむ場所だった。
玄関を開けた瞬間にふわりと漂う木の香り。
靴を脱いで上がると、白いラグの敷かれたリビングに、小さなソファと観葉植物。
窓から差し込む光が、空気ごと優しく染めていた。
「散らかってるけど……ゆっくりしててね」
そう言いながら、藤井さんはキッチンに荷物を運んでいく。
わたしもカゴを両手で抱えて、あとに続いた。
エプロンを手渡されて、わたしは少し戸惑いながらも、それを身につける。
胸元のひもを結んでくれた藤井さんの手が、やわらかくてあたたかかった。
「じゃあまずは、玉ねぎをみじん切りにしようか」
包丁を前にしたわたしの手が、ちょっとだけ震える。
それを見て、藤井さんは優しく笑って、自分の手を添えてくれた。
「大丈夫。一緒にやってみよう」
トントン、トントン……
その音が台所に響くたびに、不思議と不安が和らいでいく。
「上手。私よりきれいかも」
そう言ってくれた声に、わたしは思わず顔をあげて、目を細めた。
涙じゃない。
玉ねぎのせいじゃない。
胸の奥が、ほんのり温かくなっただけ。
お肉を混ぜて、こねて、丸くして――
藤井さんがフライパンで焼いている間、わたしはトマトを切って、レタスを洗って。
不器用ながらも、役に立てていることが、嬉しかった。
夕暮れ時、テーブルの上にハンバーグが並んだ。
「じゃあ……いただきます」
ふたり、静かに手を合わせる。
最初のひとくち。
ふわっとやわらかくて、でも芯があって。
味よりも、なによりも――あたたかかった。
《おいしいです》
ノートにそう書いて見せたら、藤井さんはふわっと微笑んだ。
「ほんと? よかった。……一緒に作ったから、だね」
ご飯を食べながら、藤井さんはいろんなことを話してくれた。
好きな食べ物、苦手なもの。
昔のこと、今日のこと、そして――ちょっと未来のこと。
「こうやって一緒にご飯食べるの、いいね。……もし、よかったら、また作ろうか。今度はカレーとか?」
その言葉に、わたしは静かにうなずいた。
ほんとうは、もっと声に出して、ありがとうって言いたかった。
だけど今は、まだそれができない。
だからわたしは、ノートに、こう書いた。
《また、つくりたいです。ここで。藤井さんと》
藤井さんは少し目を潤ませて、それでも笑ってくれた。
「うん。また、つくろうね」
窓の外、夜の空にひかる星が、ひとつだけ見えた。
その小さな光みたいに――わたしの中にも、希望が灯っていた。
藤井さんの家は、こじんまりとしていて、でもあたたかさがにじむ場所だった。
玄関を開けた瞬間にふわりと漂う木の香り。
靴を脱いで上がると、白いラグの敷かれたリビングに、小さなソファと観葉植物。
窓から差し込む光が、空気ごと優しく染めていた。
「散らかってるけど……ゆっくりしててね」
そう言いながら、藤井さんはキッチンに荷物を運んでいく。
わたしもカゴを両手で抱えて、あとに続いた。
エプロンを手渡されて、わたしは少し戸惑いながらも、それを身につける。
胸元のひもを結んでくれた藤井さんの手が、やわらかくてあたたかかった。
「じゃあまずは、玉ねぎをみじん切りにしようか」
包丁を前にしたわたしの手が、ちょっとだけ震える。
それを見て、藤井さんは優しく笑って、自分の手を添えてくれた。
「大丈夫。一緒にやってみよう」
トントン、トントン……
その音が台所に響くたびに、不思議と不安が和らいでいく。
「上手。私よりきれいかも」
そう言ってくれた声に、わたしは思わず顔をあげて、目を細めた。
涙じゃない。
玉ねぎのせいじゃない。
胸の奥が、ほんのり温かくなっただけ。
お肉を混ぜて、こねて、丸くして――
藤井さんがフライパンで焼いている間、わたしはトマトを切って、レタスを洗って。
不器用ながらも、役に立てていることが、嬉しかった。
夕暮れ時、テーブルの上にハンバーグが並んだ。
「じゃあ……いただきます」
ふたり、静かに手を合わせる。
最初のひとくち。
ふわっとやわらかくて、でも芯があって。
味よりも、なによりも――あたたかかった。
《おいしいです》
ノートにそう書いて見せたら、藤井さんはふわっと微笑んだ。
「ほんと? よかった。……一緒に作ったから、だね」
ご飯を食べながら、藤井さんはいろんなことを話してくれた。
好きな食べ物、苦手なもの。
昔のこと、今日のこと、そして――ちょっと未来のこと。
「こうやって一緒にご飯食べるの、いいね。……もし、よかったら、また作ろうか。今度はカレーとか?」
その言葉に、わたしは静かにうなずいた。
ほんとうは、もっと声に出して、ありがとうって言いたかった。
だけど今は、まだそれができない。
だからわたしは、ノートに、こう書いた。
《また、つくりたいです。ここで。藤井さんと》
藤井さんは少し目を潤ませて、それでも笑ってくれた。
「うん。また、つくろうね」
窓の外、夜の空にひかる星が、ひとつだけ見えた。
その小さな光みたいに――わたしの中にも、希望が灯っていた。
温かいハンバーグの湯気が、二人の間をふわりと揺れる。
わたしはフォークを握ったまま、何度も咀嚼する。
目の前の藤井さんは、スープをひとくちすくって、静かに口に運んだ。
しばらくは、食器の音だけが部屋に響いていた。
そしてふいに、藤井さんが目を上げる。
わたしの目を、ゆっくりとまっすぐに見て言った。
「……あみちゃん」
わたしも顔を上げる。
口元にハンバーグの味が残っていたけど、そのまま、黙って見つめ返した。
「ねえ。もし、嫌じゃなかったら……なんだけど、耳の検査、してみるのって、どうかな」
その言葉に、フォークを持つ手が、わずかに止まる。
検査――
その言葉は、ずっと遠くにあるものだった。
希望と、絶望と、そのどちらにも届く可能性のある扉。
わたしは、しばらく視線を落とした。
手元のノートに、そっとペンを走らせる。
《聞こえるようになる、かもしれないってことですか?》
藤井さんは少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「うん。もしかしたら――もしかしたら、ね。でも、そうじゃないかもしれない。
だけど……ちゃんと調べておけば、あみちゃん自身が、自分の体のこと、少しでもわかると思うんだ」
わたしは、胸の奥に渦巻くものを感じながら、もう一度ノートを開いた。
《こわいです》
それを見て、藤井さんは表情をゆるめた。
ほんの少し、目を細めて。
「うん、怖いよね。私も、そうだった」
わたしは、思わず藤井さんを見た。
藤井さんは、小さく笑ってから、スープのスプーンを皿に置いた。
「昔ね、病気の検査をしたことがあって。結果がどう出るかわからないのって、本当に怖かった。
でもね、知ることって、ちゃんと未来を選ぶ準備になるの。知らないままだと、選べないままになっちゃうから」
選ぶ。
自分で――
もう一度、ノートを開く。
《藤井さんがいるなら、こわいけど、少し大丈夫な気がします》
その言葉に、藤井さんの目がすこし潤んで、でもすぐにふわりと優しく笑った。
「ありがとう、あみちゃん。……一緒に、がんばろうね」
ご飯の味は、まだ残っていたけど、
それよりも深く、胸の奥に、あたたかい何かが染み込んでいた。
たぶん、これは勇気っていうもの。
わたしの小さな一歩に、藤井さんが、手を添えてくれたから――
お風呂あがりの足に、ふわふわのスリッパが心地いい。
バスタオルで髪を拭きながら、わたしはリビングに戻る。
藤井さんは、テーブルに温かいハーブティーを置いて、わたしのほうに微笑んでいた。
「おかえり。湯冷めしないように、ちゃんと乾かしてね」
うなずくと、藤井さんが髪を乾かしてくれるという。
わたしは大人しくソファに座り、タオルを渡した。
やわらかな手が、そっと髪を包む。
ドライヤーの風がやさしく、頭の奥までぽかぽかしてくる。
「ねえ、あみちゃん。今日は、楽しかった?」
小さくうなずく。
買い物も、イベントも、夕ご飯も。
そして何より――耳の検査の話ができたこと。
わたしはそっとノートを開いた。
《本当は、もっと早く誰かに相談したかったのかもしれません》
藤井さんの手が、いったん止まる。
そして、静かに髪を撫でたあと、笑って言った。
「うん。そう思えたことが、すごく素敵なことだよ」
やがて髪が乾き、ハーブティーがぬるくなる前に、一緒にひとくち口に含む。
ほんのり甘くて、胸の奥まで温かくなるような味だった。
テレビはついていたけれど、音は出していない。
わたしたちはそのまま、ことばのないままに、同じ空間を共有していた。
藤井さんが、カップを置いたあと、小さな声でこう言った。
「……ねえ、あみちゃん。検査の日は、病院まで一緒に行こうね。ちゃんと、そばにいるから」
わたしはペンを握り、迷いながら書いた。
《ありがとう。ひとりだったら、たぶん行かなかったと思います》
その文字を見た藤井さんは、少しだけ目を伏せて、静かに頷いた。
「……うん。そう思ってくれて、うれしいよ」
部屋の時計が九時をまわっていた。
「もう寝ようか」と声がかかり、わたしは立ち上がる。
ベッドに入る前、ノートにもう一行だけ書いた。
《今日、ここに来てよかった》
そして、それを見せると、藤井さんは優しくうなずいて、わたしの頭をなでてくれた。
あったかくて、安心する手。
「わたしも、あみちゃんが来てくれて、本当によかったって思ってるよ」
布団の中はすぐにぬくもりで満たされ、外の風の音も気にならなかった。
わたしの小さな世界が、少しだけ、やさしく広がっていく気がした。
目を閉じる。
また明日、きっと、笑える日でありますように――
一か月後のある穏やかな午後。柔らかな春の陽射しが街を包み込む中、あみは少しだけ緊張した面持ちで、藤井さんと共に耳鼻科の待合室に座っていた。隣には通訳の橋本さん、そして管理人の佐伯さんが座り、やや遅れて茂樹が駆け込んできた。
「あ、間に合ってよかった……ごめん、遅くなって」
手話を交えて茂樹が伝えると、あみは驚いたように目を見開き、問いかけるように藤井さんを見た。藤井さんは微笑んで頷いた。
「茂くん、自分から『俺もちゃんと知っておきたい』って言ってきたのよ。えらいよね」
あみは小さく頷いた。頬がほんのり赤く染まり、口元には不安と感謝が入り混じったような、そんな複雑な笑みが浮かんでいた。
検査は時間をかけて行われた。耳の奥深くに小さな音を流して反応を確かめる検査、言葉の聞き取りテスト、骨伝導による聴力チェック。あみは不安げに機械に耳を傾けながらも、真剣な目で一つ一つの指示に従った。
診察室に戻った時、担当の医師がモニターに映る検査結果を指し示した。
「結果は、感音性難聴です。両耳とも、音はある程度感じ取れているのですが、特に言葉の識別が難しい状態ですね。ただ、補聴器を両耳に装用することで、日常会話の理解度はかなり改善すると思われます」
通訳の橋本さんが手話でその内容を丁寧に伝える。あみは静かに頷いたが、その瞳の奥が揺れていた。
補聴器――それは希望にも見えた。でも、現実的な壁もある。ふと、あみは藤井さんを見上げた。
(補聴器……って、お金、すごくかかるんじゃ……)
あみの表情が曇ったのを感じ取った藤井さんは、優しく微笑み返した。
「大丈夫よ。あみちゃんがちゃんと音を感じられるようになるなら、それが一番大切。お金のことは、私たち大人が考えること」
その言葉に、あみの目から涙が零れ落ちそうになった。けれど、彼女は必死にこらえた。
(それでも……私のために……って思っちゃう……)
そのとき、茂樹が前に出て、真剣な目であみを見つめた。
「俺も、あみがちゃんと音を感じられるようになるなら、それが一番だって思う。だから、もし……何か手伝えることがあるなら、絶対言って」
言葉だけじゃなく、視線と、表情と、あたたかい手話で――彼は、まっすぐにあみに向き合っていた。
あみは小さく頷いた。でも、その胸の奥には、まだ消えない葛藤の火種がくすぶっていた。
(――私が“負担”になってないって、本当に、思っていいのかな……)
後日、あみは藤井さんに連れられて、補聴器専門店を訪れた。受付で案内され、ガラス張りの明るい試聴室へ入ると、小さなテーブルの上に、様々な形や色の補聴器が整然と並んでいた。
「こんにちは、あみさん。今日は実際に補聴器を試してみましょうね」
白衣を着た優しげなスタッフがにっこりと笑い、あみに手話でゆっくり話しかけてくれた。通訳の橋本さんも同席していたが、スタッフの手話は流れるように自然で、あみは思わず目を丸くした。
(……すごい、手話ができるんだ……)
試聴が始まった。まずは右耳に小型の補聴器を装着される。スタッフが機械を操作すると、小さな電子音が鳴った。
「この音、聞こえますか?」
あみは眉をひそめて首をかしげる。少し遅れて、確かに“何か”が耳に届いた。くぐもった水の中のような音。でも、何かが変わったと、確かに感じた。
次に左耳にも装着され、音量が調整されていくと――
(……聞こえる)
ほんの少し、世界が変わった。壁の時計の針の音、藤井さんが椅子を引くかすかな音、人の話し声が“音”として形を持って届く。
今まで「見て」「想像していた」世界が、「音」として輪郭を持ち始める――その瞬間だった。
けれど、嬉しさと同時に、胸の奥に小さな不安が芽生える。
(こんなすごいもの……本当に、私が使っていいの?)
試聴が終わると、スタッフが価格や購入の流れを説明した。両耳用の補聴器は、保険の適用があっても相応の費用がかかるという。
あみは、沈黙した。
「……ねえ、藤井さん」
手話でゆっくり問いかけた。
(もし、これを使ったら、誰かに迷惑かける?)
藤井さんは驚いたように目を見開き、それからふわりと微笑んだ。
「迷惑だなんて、一度も思ったことないよ。あみちゃんにとって、必要なことだから。ね?」
続けて、管理人の佐伯さんが深く頷いた。
「君は今、誰かの“お荷物”じゃない。これから、たくさんの音の世界を手に入れて、もっと自分の人生を広げていくんだ」
あみは、俯いたまま肩を震わせた。
(……ありがとう。でも、まだ、少しだけ怖いの)
その夜、藤井さんの家であみは一人、ベッドの中で補聴器のケースを見つめていた。小さな、その機械は、まるで自分の未来そのもののようだった。
(私は変われるのかな――)
そして、翌朝。まだ誰も起きていないリビングで、あみはそっと補聴器を耳にあててみた。カチ、とスイッチが入る。
――そのとき、小鳥のさえずりが、かすかに聞こえた。
(……)
それは、涙がこぼれるほどに、綺麗な音だった。
補聴器を外したあみは、わずかに名残惜しそうな目をしていた。あの瞬間、初めて感じた“音のある世界”の断片が、まだ耳の奥に残っているようで——でも同時に、心のどこかがざわついていた。
「どうだった?」と、診察室を出たところで通訳さんが優しく声をかけてくれる。
あみは少し迷ってから、手話で答えた。
「……音が、多すぎて、少し、怖かった。」
藤井さんがそっと背を支え、うなずく。「それが普通だよ。初めてなんだもん。すぐに全部慣れなくてもいい」
管理人さんが、診察室から出てきた医師の言葉を受け取って、あみに伝えてくれる。
「感音性難聴……先生がおっしゃってたのは、内耳や神経に原因があるタイプで、補聴器で改善する可能性が高いって。両耳に使えば、もっとはっきり聴こえるようになるって」
そう、希望を伝えるように微笑む。でもその言葉のあとに、管理人さんの表情が少し曇る。
「ただ……補聴器の費用が、ね……」
金額が書かれた見積書を見た瞬間、あみの表情が強張った。思っていたより、ずっと高い。両耳分となれば、なおさらだ。
「無理にとは言わないよ」と、藤井さんが静かに口を開く。「でも、あみが——音のある世界に、少しでも希望を感じたのなら、考えてみてほしい」
そのときだった。
「俺も……聞きたかったんだ」
小さく発されたその声に、あみが振り返る。そこには、茂樹の姿があった。
通訳さんが言葉を伝えてくれる。
「……俺も、君の世界に、もっと近づきたい。あみが何を感じてるのか、音がある世界で何を見てるのか、俺も知りたいから」
あみの胸が、きゅっと音もなく締めつけられる。
彼がいた。ずっと、そばに。
「……でも、お金……」
手話が震える。彼女の中にある“負担”の二文字が、誰よりも強くのしかかっていた。
その手を、そっと藤井さんが包み込んだ。
「私たちは、あなたの“負担”じゃないよ。あみの選択が前を向くものなら、それを支えるのが、大人の仕事」
管理人さんもうなずいた。「そうよ。あなたが、これからの人生で、音の世界も知りたいって思ったら……それを応援する人が、ちゃんといるの」
通訳さんが一歩、前に出る。「あみちゃん、私も一緒にいる。もし、音が怖くても、戸惑っても、大丈夫。補聴器つけるの、すぐじゃなくてもいいの。ちゃんと考えて、ゆっくり選ぼう」
あみは、もう一度見積書を見つめた。数字は変わらない。でも、周囲の人のまなざしが、その紙をそっと包み込むように感じた。
心の奥で、わずかに芽吹いた“音のある世界”への好奇心。
それを、彼らは守ろうとしてくれていた
あみは、自室のカーテンをゆっくりと開ける。窓の外には、街路樹の葉がやさしく揺れている。補聴器を両耳に装着した瞬間、その葉が風にこすれる音が、微かに耳へと届いてきた。
それは、かすれた紙のような、シャリッという響きだった。
「……?」
あみは少し首をかしげてから、窓を細く開ける。
すると、音はすぐに鮮やかになった。風の息吹、遠くを走る自転車のタイヤ音、鳥のさえずり。すべてが、彼女にとってはまだ“くぐもった音”で、正確な意味はわからない。でも、それでも——音はたしかに、彼女を包んでいた。
朝食のテーブルにつくと、管理人さんが笑顔で手を振ってくれた。
「おはよう、あみちゃん。調子はどう?」
通訳さんがそばで手話にしてくれると、あみはゆっくり頷いた。
「……きのうより、音が、こわくなかった」
それだけの返事に、管理人さんはふわっと目を細める。
「それは、とても大切なことよ」
その日の登校途中、茂樹と並んで歩く道すがら。
あみはふと、足元から響く「ザッ、ザッ」という音に気づいた。ふたりのスニーカーが、歩道の砂利を踏むたびに、柔らかい音を立てていた。今までは無音だった世界に、確かなリズムが生まれている。
茂樹が、ポケットからスマホを取り出し、「これ、聞こえる?」と問いかける。
イヤホンを片耳だけ差し込み、小さく音楽を流してくれると、あみは目を見開いた。はじめて聴く“音楽”。メロディーはまだ濁っていて、歌詞までは追えないけれど——耳の奥で、波のように響いていた。
「すごい……」
その日から、あみは毎日少しずつ、音の世界と向き合っていくことになる。
■ 四日目:教室のざわめきが、耳に届くようになる。騒がしさに少し疲れたが、茂樹の笑い声を拾えたとき、不思議と心がほぐれた。
■ 五日目:水道から流れる水の音、食器の触れ合う音に驚きながらも、それが「生活の音」だと実感できた。
■ 六日目:下校中、背後から「ねえ、あみちゃん」と声をかけられ、振り返った。声が音として耳に届いたのは、初めてだった。
■ 七日目の夜。夕食後、藤井さんがあみに尋ねる。
「最近、どう?」
あみは少し考えてから、手話で答える。
「まだ、わからない音も、多い。でも……わかりたいって、思うようになった」
その言葉に、藤井さんも管理人さんも、ゆっくりと微笑んだ。
そして、茂樹がそっと言った。
「それが、いちばん大事な気がする」
—
音は、あみにとってまだ「意味」ではなく「気配」だった。それでも、心は少しずつ、その気配を受け入れ始めていた。
聞こえなかった世界から、少しずつ歩み寄っていく毎日。
それは、“聞くこと”ではなく、“つながること”を学ぶ日々だった
場所は藤井さんの家。ほんのり甘い匂いの漂うリビングには、手作りのガーランドや色とりどりの風船が飾られ、部屋の空気さえ柔らかく、あたたかく感じられた。
「あみちゃん、お誕生日おめでとう!」
そう言って迎えてくれたのは、藤井さん、管理人さん、そして通訳さん。それに——玄関で照れくさそうに立っていた茂樹も。
あみは小さく微笑み、静かに一礼した。その頬は、うっすらと紅をさしたように温かい。
リビングの真ん中には、大きなテーブル。その上には、藤井さん特製のちらし寿司、唐揚げ、ポテトサラダ、そして可愛らしいミニサンドイッチが並んでいた。どれも、あみが好きなものばかり。
「がんばって作ったのよ〜」と藤井さんがにっこり笑って言うと、通訳さんが手話で伝えてくれる。
あみはその手話を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう……すごく、うれしい」
そして、あみはふと耳を澄ませた。遠くで、ポットからお湯が沸く音が聞こえた。誰かの笑い声が、小さく耳の奥をくすぐる。
これまでは、ただ「沈黙」の中にいた。でも、今日は違う。
音があって、気配があって、そして「ことば」があった。
パーティの中盤。
「せーの!」
声に合わせて、部屋の灯りが一瞬落とされた。次の瞬間、キッチンの奥から管理人さんがケーキを運んでくる。その上には、小さなローソクが立ち、淡い光を揺らめかせていた。
『ハッピーバースデー、あみちゃん』
音が、あみの耳を包む。
通訳さんが、歌の歌詞を手話で伝えてくれる。でも——あみは、その手話を見ながらも、ほんの少し、耳に届く「歌」の響きを追いかけていた。
輪郭はぼやけていても、音はたしかにあった。人の声、気持ちの波、誰かの笑い。すべてが、今のあみを祝ってくれていた。
ローソクの火を吹き消すと、まわりから大きな拍手。音が、胸の奥にまで届くようだった。
「……ありがと」
声にはならない小さなつぶやきを、あみは心の中でくり返す。
—
パーティの終わり際。
茂樹が、そっと手渡してきたのは、小さな包み。
「開けてみて」
手話とともに、少しはにかんだ表情。あみが包みをほどくと、中にはかわいらしいペンダントが入っていた。ペンダントトップには、小さな耳のマークと、音符のチャームがついていた。
「これ……」
「“きこえるようになった”記念も兼ねてる。おめでとう、あみ」
あみはしばらくその小さなチャームを見つめていた。補聴器をつけた自分——音の中に少しずつ馴染もうとする、自分自身。そのすべてが、ここに込められているような気がした。
「……ありがとう。大事に、する」
—
その夜、藤井家を後にする帰り道。夜風は少し冷たかったが、耳に届く音は温かかった。風の音、遠くで走る車の音、そして茂樹が横でくすくす笑う音。
そのどれもが、いとおしい“音”だった。
あの日、教室の窓から差し込む陽射しはまぶしいほどだったのに、あみにとっては、どこか色のない世界に見えていた。
補聴器をつけたことで世界が開けたと思っていたのに、逆だった。
「聞こえるんでしょ?なら無視すんなよ」
「なにそれ、なんでそんなもんつけてんの?」
遠巻きに聞こえる言葉の一つひとつが、ガラスの破片のように胸に刺さった。
教室で補聴器をなくした日、あみは泣けなかった。ただ、心が静かに沈んでいくだけだった。
数日後の放課後。下駄箱で靴を履き替えようとしたあみの背中を、突然誰かの手が叩いた。
「あ、これ、落としてたよ?」
振り返ると、そこには同じクラスの女子生徒。無表情のまま、あみの片方の補聴器を投げてよこした。
あみの手元に届く前に、それは床にぶつかり、カチンと鈍い音を立てた。
壊れたかもしれない。けれどそれよりも、あみの心がもう限界だった。
何も言わず、拾い上げて走った。校舎を抜け、裏手の非常階段を駆け上がる。
——そして、屋上へ。
そのころ、校門の外では、藤井家からの帰り道、偶然通訳さんが学校へ立ち寄っていた。
保健室の先生にあみの様子を聞きに来たのだ。
「最近、教室でもあまり話さないって……?」
違和感を覚えた通訳さんは、すぐに職員室へ向かい、藤井さんにも連絡を取る。
——けれど、今一番話すべき相手は、彼だと通訳さんは直感した。
「……ごめんね。私一人じゃもう届かないかもしれない」
そう言って、通訳さんはスマホを取り出し、茂樹に連絡を入れた。
「今すぐ、来てくれませんか。あみちゃん、たぶん今、すごくつらい場所にいます」
そのメッセージを見て、茂樹は自転車にまたがり、ペダルを力強く踏んだ。
放課後の町を、風を切るように走る。学校が見えた瞬間、胸の中にこみ上げてきたのは、強い不安と、焦り、そして怒りだった。
なぜ、気づかなかった。
どうして、離れていた。
駆け込むようにして校舎に入り、屋上へと続く階段を一気に駆け上がった。
「——あみ!」
風の音とともに、屋上に彼の声が響く。
あみは、フェンスのそばで座り込んでいた。顔を伏せ、膝を抱えて。
彼は駆け寄り、あみの肩に手を置いた。
「ごめん……ごめんな。俺、何も知らなかった……」
あみの体が、びくりと震えた。
そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳には、大粒の涙が滲んでいた。
——聞こえた。彼の声が、確かに。
泣きながら、あみは唇を震わせた。
「……こわかった……ひとりで、ずっと……」
彼はあみを、そっと、でもしっかりと抱きしめた。
「もうひとりになんて、させない」
その腕のぬくもりが、あみにとっては、やっと見つけた光のようだった。
彼の腕に包まれながら、あみはしばらく泣いていた。フェンスに背を預けて座ったまま、彼の肩に顔をうずめ、小さな嗚咽を漏らし続けた。
「……壊れちゃった、補聴器……落とされたとき、音が割れて」
涙で詰まった声を、彼はしっかりと聞いていた。
「直せる。俺、なんとかする。だから……大丈夫」
その言葉が、何よりの救いだった。
やがて、通訳さんと職員の先生が屋上に駆けつけた。
通訳さんはあみを見て、一瞬声を詰まらせたが、すぐに笑顔をつくった。
「無事で、よかった……あみちゃん。怖かったね」
あみはこくんと小さくうなずき、差し伸べられた通訳さんの手を、ぎゅっと握り返した。
■保健室での静かな時間
そのあと、あみは保健室へ案内された。
先生があたたかいお茶を淹れてくれ、通訳さんが傍らでやさしく話しかけてくれる。彼は教室から外れた場所に残され、心配そうに様子をうかがっていた。
「……聞いてほしいこと、たくさんあるよね。でも、今は無理しなくていい。ここにいる大人たちは、あみちゃんの味方だから」
通訳さんのやわらかな手話と声に、あみは涙をこらえながら、ゆっくりと、少しずつ自分の気持ちを打ち明けていった。
——補聴器をつけたことで、よけいに目立ってしまったこと。
——近づいたことのないグループの子たちから、無視や悪意の言葉を投げられたこと。
——怖くて、誰にも言えなかったこと。
話していくうちに、あみの顔からこわばった表情が少しずつ溶けていくのがわかった。
「ひとりで、がんばろうとしすぎたんだよね」
通訳さんのその一言に、あみは小さくうなずいた。
■帰宅、そして再び寄り添う
その日の夕方、藤井さんが迎えに来た。
「本当に、怖い思いをさせてしまって……ごめんね、あみちゃん」
玄関で深く頭を下げた藤井さんに、あみはぶんぶんと首を振った。
「藤井さんのせいじゃない。わたし……もっと、ちゃんと話せばよかった」
「ううん。でも、こうして帰ってきてくれて本当によかった」
藤井さんはあみを抱きしめ、その背をやさしく撫でた。
家に帰ると、夕食があたたかく用意されていた。あみの好きなクリームシチューと、柔らかいパン。にんじんは、花の形に切られていた。
その小さなやさしさに、あみは思わず笑った。
■そして、次の日へ
翌日。学校はあみの希望で休むことになった。
その間、先生たちはいじめの状況を確認し、関係する生徒に事情を聴くことを約束した。
あみの周囲には、通訳さんや藤井さん、彼、そして管理人さんがついてくれていた。
補聴器も、修理ではなく新調する方向で進めることに。
費用は、藤井さんが「これは私たち大人の責任です」と、迷わず引き受けた。
そして、彼は言った。
「もし、またつらいことがあったら、俺にぜったい言え。言葉じゃなくても、手でも、目でも、何でもいいから」
あみはその言葉に、まっすぐうなずいた。
心にできた傷は、すぐには消えない。
でも、誰かに抱きしめられ、話を聞いてもらって、あたたかい食卓を囲んで……そうして少しずつ、前を向ける日がくる。
そのことを、あみは、はじめて実感として知ったのだった。
数日ぶりに登校した生徒たちの表情には、どこか緊張の色があった。
その日の朝、教室に入ってすぐ、担任の山口先生が真剣な声で告げた。
「……今日の放課後、一部の生徒に個別で話を聞かせてもらいます。内容は、藤井あみさんに関することです」
教室が一瞬ざわめいた。
あみのこと。
誰もがあの屋上からの出来事を思い出していた。
名前を呼ばれた生徒たちは、普段あみと近しくしていた者も、距離のあった者もいた。そのなかには、彼女を嘲笑していたグループの名前も含まれていた。
第一音楽室。窓のカーテンが閉められ、外の光が柔らかく差し込んでいる。
向かい合うのは、学年主任、スクールカウンセラー、そして教頭。
最初に呼ばれたのは、あみの同級生で隣の席だった宮野。
「宮野さん、正直にお話ください。あみさんが、学校で困っている様子を見たことはありませんでしたか?」
少し俯きながら、宮野は言った。
「……からかわれてるのは、見たことあります。筆談してるとこに『なんか書いてる〜』って横取りしたりとか……。でも、止められなかった。ごめんなさい……」
沈んだ声に、主任が静かに頷く。
「ありがとう、話してくれて。大事な証言です」
次に呼ばれたのは、あみをからかっていたグループの一人、長谷川。
当初は「ふざけてただけ」と言っていたが、複数の生徒の証言や校内カメラの一部映像により、徐々に追い詰められていく。
「……別に、いじめるつもりなんて……ただ、無視してるだけだったし……」
「“無視”も立派な加害行為になり得ますよ」
教頭の冷静な一言に、長谷川は押し黙った。
午後の校長室。空気が重く、時計の秒針の音だけが妙に響く。
校長・教頭・学年主任が並び、その正面には、加害生徒である長谷川とその母親が座っていた。長谷川の顔はうつむき、母親は落ち着かない様子で手元のバッグを何度も握り直している。
校長はゆっくりと書類を置き、言葉を選びながら口を開いた。
「……本日は、お忙しいところお時間をいただきありがとうございます」
母親はかすかに頭を下げる。
「藤井あみさんに対する一連の行為について、学校として調査を進めてまいりました。その結果、これは明確な“いじめ”であると判断しました」
沈黙が落ちる。
「……いじめ、ですか……?あの、うちの子が……そんな……」
母親の声には戸惑いが混じっていた。信じられない、という表情。
校長は続けた。
「複数の生徒の証言、校内カメラの映像、そして本人の筆談ノートに記録されていた内容――それらすべてにおいて、一貫した証拠が揃っております。藤井さんは現在、心身ともに深く傷ついており、命を絶とうとするまで追い詰められていたのです」
長谷川が、小さく震えた。
母親は校長を見据えるように言う。
「……でも、本人がやったって、証拠はあるんですか?もしかしたら、その……本人の思い違いとか……」
その瞬間、教頭が低い声で言った。
「“本人が感じたこと”が、いじめの核心です。加害者側が“そういうつもりじゃなかった”と言っても、被害者が苦しみ、傷ついた事実は変わりません」
長谷川の肩が、ぐっと縮こまった。
母親は目を伏せ、何も言えなくなる。
校長は静かに語った。
「この出来事は、学校として重大な事案として取り扱います。長谷川くんには一定期間の登校停止を、また今後は専門のカウンセラーと共に再教育プログラムへの参加を求めます」
その言葉の重さが、校長室を包んだ。
一方、藤井家の近くの病院。あみはベッドに腰掛け、小さなぬいぐるみを胸に抱いていた。
窓の外は夕焼けに染まり、淡い茜色がカーテンを照らしている。
補聴器は今も、両耳に装着されていた。けれどその音の世界は、まだ「優しい」と言えるものではなかった。
彼女の指が、ベッドサイドのノートをなぞる。
《……私、間違ってなかったよね?》
ドアがノックされ、茂樹が入ってくる。
「……聞いた。学校、ちゃんと“いじめ”って認めたって」
彼は、あみのそばに静かに腰を下ろした。
「……俺、悔しいよ。もっと早く気づいてたら、守れたかもしれないのに。あみを……こんなに苦しませる前に」
あみは首を振り、ノートにゆっくりと書いた。
《でも、来てくれた。あのとき、間に合ってくれた。》
彼はあみの手をそっと握った。
「……俺、これからもずっとそばにいる。あみが音の世界でつらいって思う日があっても、その音を一緒に受け止めるよ」
あみは初めて、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
《じゃあ、次は――一緒に“優しい音”を探そう?》
茂樹は頷いた。
窓の外、風が揺れ、どこかから鳥の声が小さく届いた。あみはそっと補聴器に手を添える。
その音はまだ少し遠いけれど、確かに「ここ」にあると思えた。
午後3時を過ぎた頃。校長室の空気は、冷たい張り詰めたような静寂に包まれていた。
校長、教頭、生活指導の先生が並んで座り、向かいにはいじめの主犯格とされた生徒・美咲(仮名)と、その母親が緊張した面持ちで椅子に座っていた。窓の外では、グラウンドで風が木々を揺らしている。
校長が深く息を吐いた。
「……今回の件について、本日正式に“いじめ”として学校内で認定されました。」
母親がわずかに顔をしかめる。「うちの子が……そんな。たしかにからかったことはあるかもしれませんけど……それが“いじめ”だなんて」
「“からかい”で済ませてはなりません」
教頭の声が、冷静に遮った。
「被害に遭った藤井あみさんは、耳に障がいがあります。そのことを揶揄され、無視され、机にゴミを入れられ、名前を呼ばれるときにだけわざと背後で囁かれる——聞こえないことを利用され、笑い者にされていたんです」
母親が小さく「あの子……そんなに酷いことを……?」と娘に視線を向けるが、美咲は目を逸らしたまま、唇を噛んでいた。
校長は淡々と、けれど強い口調で言葉を続ける。
「藤井さんは、自ら命を絶とうとしました。校舎の屋上から……」
沈黙。言葉を失った母親の顔が、徐々に青ざめていく。
「――幸い、間一髪のところで保護されました。ですが、心には深い傷を負っています。これは“軽い冗談”ではありません。れっきとした、犯罪に準ずる行為です」
校長の視線が、美咲に向けられる。
「あなたが彼女にしたことが、どれほど彼女の心を壊したか、今すぐには理解できないかもしれません。でも、この先、決して忘れてはいけないことです」
美咲が震える声で言う。「……ごめんなさい……そんなつもりじゃ……」
「“つもり”は関係ありません」
生活指導の先生の声が厳しく響いた。
「被害者が“傷ついた”と感じた時点で、それは“いじめ”なんです。耳が聞こえないという理由で排除された彼女が、どれだけ孤独だったか――」
母親が涙をにじませながら、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません……本当に……私の監督不足です」
校長もゆっくりと頷く。
「謝罪は大切です。しかしそれと同時に、今後、同じことを二度と繰り返さないよう、親として・生徒として、学んでいただく必要があります」
室内には再び、重く深い沈黙が降りた
夕方の病室。茜色の光がカーテン越しに差し込み、やわらかな静けさに包まれていた。
あみはベッドに腰かけ、静かに筆談ノートを膝に広げていた。補聴器は両耳にあり、窓の外の小鳥のさえずりがわずかに聞こえてくる。
ノックの音とともに、茂樹がそっと入ってくる。
「あみ……今日、学校で事情聴取があったんだって。……ちゃんと“いじめ”だって認められたって」
あみはゆっくりと顔をあげた。どこか、安堵と寂しさが交じる表情だった。
ノートに一言。
《……もう、怖くないのかな》
茂樹は彼女のそばに腰を下ろし、迷いながらも手をそっと握った。
「……まだ全部は終わってない。でも、学校も動いた。先生たちも、校長も、もうあみの声を無視してないよ。……俺も、ずっとあみの味方だよ」
彼の言葉に、あみの瞳が揺れる。
《……ありがと》
彼女はノートに書いて、ゆっくりと笑った。小さく、けれど確かな微笑みだった。
「また一緒に歩こう。補聴器の音の世界が怖いときも、いじめのことを思い出しちゃうときも……俺が、そばにいる」
窓の外、春の風がそよいでいた。
その音は、あみの耳に――たしかに、届いていた。
春のやわらかな陽射しが差し込む窓辺で、あみは制服の襟をぎゅっと握りしめていた。鏡に映る自分の姿には、補聴器がしっかりと両耳に装着されている。あの日から、ほんの少しの間しか経っていないのに、まるで世界が変わってしまったようだった。
「行ってくるね」と指で伝えると、藤井さんは深くうなずいて、そっとあみの手を包んだ。
「ゆっくりでいいからね。無理しないこと、忘れないで」
小さくうなずいたあみの頬に、藤井さんがそっと手を添えた。ふと、目に涙を浮かべているのが見えたが、彼女はそれを隠すように微笑んで、背中を押してくれた。
昇降口に立った瞬間、あみの鼓動が早くなる。何人かの生徒の視線が、彼女の耳の補聴器に向けられていた。囁く声が、聞こえたかどうかは曖昧だったけれど、気配は確かにあった。
すると、彼――茂樹が、あみのそばにすっと寄ってきた。
「大丈夫。あみが怖い時は、俺がいる。約束したろ?」
彼の声が、補聴器を通してはっきりと届いた。あみは小さくうなずき、手話で「ありがとう」と伝えた。
教室に入ると、一瞬空気が張り詰める。何人かは気まずそうに目を逸らし、何人かは真正面からあみを見ていた。担任が小さくうなずいて、彼女の席へ促す。
席に着いた瞬間、背後から「おかえり」と声が聞こえた。
それは、以前はほとんど関わりのなかったクラスメイトの声だった。あみが驚いて振り返ると、彼女はにっこり笑っていた。
その日の授業が終わると、彼があみを屋上へ誘った。あの日、すべてを止めたあの場所。
「もう一度、ここに来たかったんだ」と彼は静かに言った。「あの日、あみがどんな気持ちだったか、完全にはわからない。でも、助けられてよかった。…これからも、絶対守るから」
あみはゆっくりと頷き、震える手で彼の手を握った。
藤井家のリビングは、夕暮れの柔らかい光に包まれていた。カーテン越しの陽が、部屋の中を淡くオレンジ色に染めている。
あみは、いつものように藤井さんの隣でクッションを抱きしめていた。管理人さんはキッチンからお茶を運んできて、テーブルに置いた。彼――茂樹は、少し離れたソファで静かにあみの様子を見守っていた。
あみの心臓は、さっきからずっとどきどきしていた。どうしても伝えたい。けれど、言葉にならない。声を出す自信も、まだ完全にはない。
それでも、伝えたかった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、両手を胸の前で組む。そして、そっと手話を始めた。
「わたしは……」
皆が自然とその動きに集中する。茂樹がさりげなく口を添える。「“わたしは”……」
「ふじいさんと、いっしょに……」
あみの手が、小さく震えている。
「かぞくに、なりたい」
——沈黙。
部屋の空気が、一瞬止まったようだった。
藤井さんの目が、驚きに見開かれ、すぐに潤む。唇が震え、小さく「……あみ……」と呟く。
管理人さんは、ゆっくりと湯飲みを置き、あみの隣にしゃがみこんだ。
「それは、あなたが決めたのね?」
あみは、こくんと頷く。目に涙が溜まっている。
「過去のこと、いろいろあっても……。でも、ここがいい。あたたかいから。守ってくれるから。大切にしてくれるから。」
最後は、手話ではなく、震えた声で、ひとこと。
「……ここが、わたしの“うち”なの」
藤井さんが、静かに立ち上がって、あみをそっと抱きしめた。あみの背中を優しくなでながら、ひとこと。
「ありがとう。言ってくれて。——私も、ずっと、あなたのこと……本当の娘のように思っていたわ」
茂樹は、目元をぬぐいながら、笑って言った。
「じゃあ、俺は妹持ちか……。うん、悪くないな」
その場にいた誰もが、涙ぐみながら笑っていた。
外では、ひぐらしの鳴く声が、夏の終わりを告げていた。
——その日、あみは、自分の居場所を、自分の言葉で選んだ。
藤井家のリビングは、夕暮れの柔らかい光に包まれていた。カーテン越しの陽が、部屋の中を淡くオレンジ色に染めている。
あみは、いつものように藤井さんの隣でクッションを抱きしめていた。管理人さんはキッチンからお茶を運んできて、テーブルに置いた。彼――茂樹は、少し離れたソファで静かにあみの様子を見守っていた。
あみの心臓は、さっきからずっとどきどきしていた。どうしても伝えたい。けれど、言葉にならない。声を出す自信も、まだ完全にはない。
それでも、伝えたかった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、両手を胸の前で組む。そして、そっと手話を始めた。
「わたしは……」
皆が自然とその動きに集中する。茂樹がさりげなく口を添える。「“わたしは”……」
「ふじいさんと、いっしょに……」
あみの手が、小さく震えている。
「かぞくに、なりたい」
——沈黙。
部屋の空気が、一瞬止まったようだった。
藤井さんの目が、驚きに見開かれ、すぐに潤む。唇が震え、小さく「……あみ……」と呟く。
管理人さんは、ゆっくりと湯飲みを置き、あみの隣にしゃがみこんだ。
「それは、あなたが決めたのね?」
あみは、こくんと頷く。目に涙が溜まっている。
「過去のこと、いろいろあっても……。でも、ここがいい。あたたかいから。守ってくれるから。大切にしてくれるから。」
最後は、手話ではなく、震えた声で、ひとこと。
「……ここが、わたしの“うち”なの」
藤井さんが、静かに立ち上がって、あみをそっと抱きしめた。あみの背中を優しくなでながら、ひとこと。
「ありがとう。言ってくれて。——私も、ずっと、あなたのこと……本当の娘のように思っていたわ」
茂樹は、目元をぬぐいながら、笑って言った。
「じゃあ、俺は妹持ちか……。うん、悪くないな」
その場にいた誰もが、涙ぐみながら笑っていた。
外では、ひぐらしの鳴く声が、夏の終わりを告げていた。
——その日、あみは、自分の居場所を、自分の言葉で選んだ。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、あみは静かに目を覚ました。
カーテンを開けると、晴れ渡った青空が広がっていた。どこまでも澄んだ空は、まるで新しい未来を祝福してくれているようだった。
リビングに降りていくと、すでに藤井さんが朝食の準備をしていた。テーブルにはトーストとスクランブルエッグ、湯気の立つミルク。
「おはよう。今日は、行こっか。ね?」
あみは、軽く頷く。言葉には出さないけれど、胸の奥がそわそわしていた。
今日は、“家族になる日”。
それを思うと、食べ物の味も少し違って感じられた。
大型ショッピングモールに到着すると、藤井さんと管理人さん、そして茂樹も合流してくれた。
「緊張してる?」と小声で聞いてきた茂樹に、あみは笑って首を振った。緊張よりも、なんだか胸があたたかかった。
最初は洋服売り場へ。
藤井さんが「これ、似合いそうじゃない?」と差し出した春色のワンピースを、あみは少し照れながら受け取った。
試着室の鏡に映った自分は、昨日までの自分と少し違って見えた。
そのあと、みんなでフードコートで昼食。あみは筆談アプリで「カレーにする」と告げた。
食後、藤井さんが静かに言った。
「……じゃあ、行こうか。市民センター、近いから」
あみは思わず緊張でのどが鳴った。けれど、逃げたくはなかった。
この日を、自分の意志で選んだのだから。
市民センターの受付で、藤井さんが職員に書類を差し出す。
「この子を……正式に、うちの子として迎えたいんです」
カウンター越しの職員は、優しく微笑んでうなずいた。
名前、生年月日、住所……何枚もの書類にサインしていく。
あみも、震える指で、自分の名前を書いた。
そのひと文字ひと文字に、これまでのすべての想いが宿っていた。
藤井さんが横でそっと手を添えてくれる。管理人さんも温かく見守ってくれていた。
茂樹は後ろからそっと背中を押してくれたような気がした。
最後に、受付の人が言った。
「これで、本日付けで家族登録が完了しました。おめでとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、あみの目に、ぽろぽろと涙がこぼれた。
声に出すことはできなかったけれど、あふれる気持ちは止められなかった。
——ありがとう。ありがとう。
そう心の中で何度も繰り返した。
その日の帰り道、モールのフォトスタジオで記念写真を撮った。
白い背景の前で、四人並んで立った。藤井さんの隣に立つあみは、やっと心からの笑顔を見せていた。
手元には、名前が入った「家族カード」。
あみは、それを大事そうに胸ポケットにしまいながら、こう思った。
——これからは、この人たちと一緒に、生きていく。
休日の朝、やわらかな日差しが差し込む部屋の窓辺で、あみはそっとカーテンを開けた。補聴器をつけてからというもの、鳥のさえずりや風の音に少しずつ耳が慣れ、世界がほんの少し、広く感じられるようになっていた。
「今日は、久しぶりの……デートだ」
手話で鏡に向かってつぶやくと、胸の奥がそっと高鳴る。藤井さんと正式に家族になることを決めてから、少しずつ日常が落ち着きを取り戻していた。そんな中で、茂樹との時間は久々だった。
待ち合わせの場所は、以前二人で訪れたことのある、小さなショッピングモールの前。懐かしい場所に足を運ぶだけで、自然と微笑みがこぼれた。
「……あみ!」
その声と同時に、手を振る彼の姿が見えた。あみは小さく手を振り返し、近づいていく。茂樹は少し照れくさそうに笑って言った。
「なんか、久しぶりだな。……ちょっと、緊張する」
あみもこくんと頷きながら、スマホの手話アプリを起動する。そして、ふたりで画面を見ながらやりとりを始めた。
――「今日はどこ行く?」
――「あみの好きな雑貨屋さんと、あのパンケーキのお店」
手話と文字、時折声も交えながら、ふたりの距離はすぐにいつものように近づいていった。
雑貨屋では、あみが気になっていた可愛いイヤリングを見つけ、茂樹がさりげなく「プレゼント」と言ってレジに向かう。あみは驚きつつも、うれしそうに笑ってうなずいた。
パンケーキ屋では、少し贅沢にフルーツたっぷりのメニューを頼み、向かい合って食べる時間がとても幸せだった。ふたりとも口数は多くないけれど、あたたかな空気がそこに満ちていた。
食後、ベンチに並んで座ると、茂樹が少し真剣な顔をした。
「……あみ。最近、笑うことが増えたよな。すごくうれしいよ。でも、無理はしてない?」
あみはしばらく考え、ゆっくりと手話で応えた。
――「無理はしてないよ。藤井さんのこと、管理人さんのこと……そして茂樹がいるから、前よりもずっと心が軽いの」
それを見て、茂樹は安心したように微笑み、そっとあみの手を握った。あみも、その手をぎゅっと握り返した。
空には、うっすらと春の雲が流れていた。ふたりの影は寄り添うように伸びて、ゆっくりと揺れていた――。
午後の陽射しが少し和らぎ、モールの敷地内にある小さな公園にふたりは移動した。子どもたちの声が遠くから聞こえる中、あみと茂樹はベンチに並んで座っていた。
あみはポーチから手帳を取り出し、膝の上に開いた。ページの端には、今日の日付と、小さな「♡」マーク。それに気づいた茂樹が、少し照れたように微笑む。
「それ、今日のこと?」
あみはうなずくと、ペンでさらさらと文字を書き始めた。
――『ひさしぶりのデート。パンケーキ、美味しかった。ありがとう』
それを見た茂樹は、隣に腰を寄せて、彼女の手帳の余白に自分の字で返す。
――『俺もすごく楽しかった。あみが笑ってると、ほっとする』
手帳越しの静かな会話。言葉は少ないけれど、伝わるものはたくさんある。
少しして、あみがペンを持ったまま、迷ったように視線を落とした。そして、ゆっくりと書いた。
――『これからも、いろんなこと、一緒に経験したい』
茂樹はその文字をじっと見つめてから、小さく笑って答える。
――『もちろん。あみとだから、一緒に未来のこと、考えたい』
あみは思わず笑顔になり、ぽつりとつぶやいた。
「……家族になったから、もっと先のことも話していい?」
彼女の口元を見て、茂樹はすぐにうなずく。そして言った。
「うん。俺も、そう思ってた。まだすぐじゃなくてもいい。けど……あみの未来に、俺がいていいなら、嬉しい」
ふたりは顔を見合わせ、あみは静かに手を伸ばして、茂樹の手をそっと握った。
どこからか風が吹き抜け、葉っぱの揺れる音が微かに聞こえた。その一瞬も、補聴器越しにちゃんとあみの世界に届いていた。
この日、あみは確かに感じていた。ひとりではなく、支えてくれる誰かと未来を語ることの温かさを。
そしてふたりは、並んで歩き出す。まだ夕焼けには少し早い空の下、長い影が寄り添いながら、静かに伸びていく。
れから数年後。
誕生日の日、私は茂樹に呼び出されていた。
場所は、あの思い出の施設。
校舎の裏手にある、昔よく二人で座ったベンチ。
向かうと、茂樹はもう来ていて、少し落ち着かない様子で待っていた。
私の視線に気づいたのか、彼はこっちを見て、少し照れながら手を振る。
私も自然と笑って、手を振り返した。
「……呼び出したのには、話があって」
彼は、どこか言いづらそうに視線を逸らしながら言った。
私は無言でうなずく。
少し沈黙があって――
彼が差し出したのは、一枚の小さな封筒だった。
中には、色とりどりのマグカップの絵。そして――
『もし、これからの時間を一緒に過ごしてくれるなら。
あのときの「彼氏にしてほしい」じゃなくて――
今度は、「人生を一緒に歩んでほしい」って、
言ってもいい?』
心臓が、またあのときみたいに、ぎゅっと鳴った。
私は、封筒の中の紙をそっと握りしめる。
一瞬、言葉が出てこなかった。
けれど、胸の奥から自然とあふれる気持ちが、声にはならなくても――
しっかりと、伝えたかった。
ノートを開いて、私は丁寧に、たった一言を書いた。
――「もちろん」
それを見た茂樹は、最初、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
でもすぐに、ふわりと笑った。
あの頃と変わらない、でも少しだけ大人になった笑顔。
彼はそっと私の手を取り、優しく、でもしっかりと握った。
「ありがとう」
声は聞こえないけど、その唇の動きと、目の奥にある真剣な光で、
その言葉がまっすぐに伝わってきた。
過去も、不安も、迷いも全部抱きしめながら――
ふたりは、新しい一歩を踏み出した。
夕暮れの光の中、あの日と同じ場所で、
手と手が、しっかりと重なっていた。
春の光がカーテン越しに差し込む。
柔らかく揺れるレースの向こう、窓辺にはあのとき作ったマグカップ。
――青い空と、虹の絵。
隣には、草原に咲いた花たち。
キッチンから、ミルクを温める音が聞こえてくる。
私はそっと起き上がり、廊下に出た。
「……おはよう」
声は聞こえない。でも、言葉はもう必要なかった。
振り返った彼の唇が、その一言を紡いでいた。
そして、当たり前みたいに笑って、ホットミルクのカップを差し出す。
私は、受け取ったマグカップを胸に抱いて――
そっと、微笑んだ。
いろんなことがあった。
泣いた夜も、逃げたくなった日も。
でも、ちゃんと向き合って、誰かと心を重ねて、ここまで来た。
ここは、どこか遠くの「幸せ」じゃない。
ちゃんと、自分で選んだ毎日。
そして、隣には――あの日、手を取ってくれた人がいる。
彼がマグカップを掲げて、口を動かす。
「いただきます」
私は頷いて、自分の唇もそのかたちに合わせる。
言葉よりも、ちゃんと伝わる。
静かで、優しい、ふたりの朝が始まった。
名前なんて、まだつけられない。
だけど、きっとこれが――
「しあわせ」って呼べる時間。