拒絶
「は?」
病棟の自室で寝ていた私は、深夜にかかってきた、あまりにも突拍子のないフレゴリーからの電話に、思わずそう答えた。
「なんだって? いや、意味がわからない」
〝……言葉の通りだ。ソジーが、《オルター》を自分から止めたという報告が来た。つい、さっきだ。俺も今R&Dセンターに向かっている最中だ〟
フレゴリーの声は枯れていた。彼も寝ていたところを起こされたばかりなのだろう。しかし、掠れた声からは隠しきれない憔悴と混乱が滲み出ていた。
彼も状況を把握できていないのはわかっていたが、私は怒鳴らずにはいられなかった。
「そんな馬鹿な! チューリング・テストをパスしたこのタイミングでなぜ!」
〝わからない。幸い、すぐに発見されたから命に別状はないそうだ〟
「なんでそんな自殺未遂を……」
〝いや違う〟
「何がだ?」
〝自殺目的ではないんだ。わざわざナースコールを鳴らしてから、ソジーは《オルター》を止めた……自分が昏倒すると理解した上で《オルター》を止めている〟
「じゃあ、もう一度《オルター》を起動させれば……」
〝それもできない〟
「どうしてっ」
意味もないのに、電話先の相手に詰めよるように私が言うと、フレゴリーから一枚の画像が送られてくる。その画像は、手書きで何かが書かれている黄色いメモ帳だった。
『《オルター》で見る世界に耐えられなくなった。あたしを《オルター》で起こさないで』
〝ソジーが残したメモだ〟
それは明確な治療拒否の意思表示だった。しかも、わざわざ手書きで残したのは、捏造を疑う余地も与えない、強い意思の表明だった。
〝権利上、どうしようもない。逆に、チューリング・テストをパスしたこのタイミングだからこそ、ソジーは《オルター》を止めたことになる〟
「そんな……」
知らず、私の体は震えていた。手や顔の筋肉が引きつり、抑えようにも動かし方を知らない筋肉は身勝手に感情を代弁する。崩れ落ちてきた不安で腹の底が歪み、窪んだ心に風が吹き荒れて心を冷やしていた。悪寒で荒涼とした感情。なのに頭に血は上り顔に熱を感じ、動悸とともに気持ちの悪い冷たい汗が出る。心と体の寒暖差で、どうにかなりそうだった。
ソジーはなぜこんなことを? 《オルター》で見る世界とは何だ? 耐えられないとはどういう意味だ? 自分の命を危険に曝してまで逃れたいものが《オルター》にあったのか? しかし私も《オルター》を使用しているが、昏睡状態に戻ってもいいと思えるほどの苦痛は感じていない。
とりとめもなく疑問が湧きあがるが、混乱で撹拌されてしまい、泡のように消えていく。何一つ思考としての体を成さない無意味な問いを繰り返し続けるうちに、やがて胸底で濃くなった疑念の澱が舞った。
治療拒否。《オルター》の拒絶。《オルター》は正常に動作しているのに、なぜ――いや、その出発点から間違っているのではないか?
私が〈欠落〉を抱いているように、それ以上の筆舌に尽くしがたい苦痛をソジーは感じていたのではないか? だとしたら、すべての辻褄が合う。
そしてそれが意味する結論は一つしかなかった。
「……《オルター》に欠陥があったんだ」
〝馬鹿な!〟
今度はフレゴリーが声を張りあげる番だった。
〝それこそありえない! お前が作ったものだ、お前が一番よく知っているだろう? どれだけの人手と時間をかけて、どれだけ慎重に作ったか!〟
「あぁ、そうだとも! だけど《オルター》の被験者である僕自身も違和感を抱いている!」
通話が途切れたようにホワイトノイズが流れた。
〝なんだと……〟
「あぁ、気のせいだと思いたかったよ、言葉にできないこの〈欠落〉感を! ソジーは《オルター》を拒絶している。きっと彼女も僕と同様に違和感を抱いていた、そして何か気づいたんだ。だから《オルター》を拒絶した! 《オルター》に欠陥があったと考えるべきだろう!」
〝……嘘だろう……〟
「くそっ、こんなことになるなんて」
すべては開発設計者の私の責任だ。現代の科学技術では、まだ手を出してはいけない領域に踏み入ってしまったのかも知れない。だがしかし、脳や意識が未だに聖域であり、そこを照らしだすためのプロメテウスの火がないとしても、先に進むしかない。
私の〈欠落〉はR&Dセンターにある、あらゆる最新医療によっても検知されなかった。ならば、ソジーが抱いていたものも同様だっただろう。そして、私とソジーはチューリング・テストをパスしている。つまり、その知性は人間のものだ。肉体的にも精神的にも正常で、脳の論理構造も問題はない。
だから、原因があるとすれば、認知や心理の領域だ。
「やることは一つしかない」
〝どうするつもりだ?〟
「ソジーが欠陥のある《オルター》を拒絶している以上、欠陥を見つけて直すしかない」
〝だが、あれだけの試験をやって、正常に動いているプログラムだぞ。いまさら問題が見つかるわけが……〟
「ソジーと同じ条件の被検体がいるだろう」
そう、すべきことは実に単純明快だ。
「僕を研究するぞ、フレゴリー」