チューリング・テスト
テストの当日、私は病棟内で自分に宛がわれた病室にいた。
ソジーは私と同様に自室におり、フレゴリーは私たちの関係者である立場上、テストに関与できないため、通常業務を行っているとのことだった。
テストの開始時刻のリマインドが視界に表示される。それを見て、私はベッドに横になり、《ルッキングラス》へログインした。
ログイン時のホームサイトに指定されていたのは、入院している病室ではなくR&Dセンターのラウンジと思しき一室だった。
ラウンジは白を基調として調えられていた。色つきの目立つものは薄緑色の円形のベンチソファだけで、部屋の中央に二つ置かれており、その他には壁際にマガジンラックとウォーターサーバーが備えられていた。反対側の壁に窓はなく、代わりに明るい森林の映像が投影されている。
どことなく、カウンセリングの待合室といった雰囲気だ。
私の他に室内にいるのは、薄い灰色をした人間のシルエット――群衆モードのアバターだけだった。おそらく、他の人からは私も同じ影人間に見えているのだろう。
影人間たちは思い思いに過ごしており、寝ころんで広いベンチソファを占領している者や、マガジンラックから雑誌をダウンロードして、ぱらぱらとページをめくっている様子の者もいた。テストのスタッフなのか、一応、現実の人間もいるようで、ウォーターサーバーの水を飲んでいるので、一目でわかった。……それが、AIの人間らしさの振りでなければなのだが。
この様子では、ここにソジーも混ざっているのか、それとも別の場所でテストに参加しているのかはわかりそうにもない。
ときおり、はたとその場から立ちあがり、ラウンジの奥にある扉の向こうにいる者もおり、どうやら順番に呼ばれてテストが行われているようだった。
ぼうっと突っ立っていても仕方がないので、私は空いているほうのベンチソファに腰かけた。ふぅ、と思わず息を吐く。
――なんだ?
今、何かがおかしかった。
ただ、ソファに腰かけただけだが、不意な相反する感覚が込みあげた。重いのだが軽いとでも言えばいいのか、広々としているがぴたりとしている。急にむず痒さを感じて、私はソファの上で身じろぎをする。何だか、奇妙に座りの良さがある。
それから数分ほど、私はあれやこれやとソファで足を組んだり、脱力したりと色々な姿勢を試した。うごうごと二十通りほどの姿勢を取っても答えが出ず、逆に気疲れしたところで、私はベンチソファに寝ころんだ。
はて、なんだろう、この妙な気安さは――と、無意識の言葉で答えに思い至った。
そう、居心地がいいのだ。
《グラス》の中は、猛烈に居心地がいいのだ。よけいな感覚がないからか〈欠落〉を意識する必要がなく、リラックスできている。肉体から雑感が取り除かれて、精神がクリアになったとでも言えばいいのか、澄んだ心持ちで過ごせている。これは覚醒してから初めてのことだった。それこそ、現実よりも《グラス》のほうこそが、自分のいるべき場所だと思えるほどだ。
なぜだ? と反射的に思ったが、半分ほど答えは出ている。
〈欠落〉は肉感に起因するものであり、今の私はそのほとんどを現実に置いてきている。それは実のところBCIデバイスによる外界からの感覚遮断だ。代わりに、インターネット上にある《グラス》から送られる情報が脳に伝わっている。そして、私の頭の中には《オルター》があり、脳活動を補正している。つまるところ、《グラス》の中にいるときの私の感覚入力の大半は、脳ではなく《ニューロワイアード》の中で処理されているのだ。
感覚が演算されているから、VRに居心地の良さを感じるのか? しかし、実際にモノを考え、感じているのは『ジョー=N・ダウ』という人間の脳だ。入力の処理経路がいかなるものであれ、出力を行っている場所は変わっていない。
いや? 出力とはなんだ? 私の脳内では、確かに様々な電気信号が処理されている。だがしかし、それらは別に特定のコトとかモノを成果として出力しているわけではない。私の主観の連続を描画し続けているだけであり、常に変化するものだ。それこそが出力だろうか? それも違う気がする。描画された私の思考は、次なる思考に繋がるものであり、連続的だ。そこに完成はなく、延々と出力が続けられている。だが、なぜ私は『出力』という表現を使ってしまうのだろうか? そこに、確実に何かをアウトプットしている確信があるからだ。だがその正体を私は掴みきれていない。この乖離こそ、〈欠落〉の正体だとしたら――
〝ジョーさん、奥の部屋にどうぞ〟
私の思索は、突然の通知にかき消された。どうやら、私の順番が来たらしい。もう少し考えていたかったが、テストをすっぽかすわけにもいかず、私は腰を上げた。
テストの内容は退屈ではなかったが、かといって刺激的なものでもなかった。
現実ではありえない奇妙なねじれ方で立体化された文字を読まされたり、ペンローズの三角形に代表される不可能図形を模したパズルを解かされたりした。おそらく、認知機能をテストされているのだろう。
その次は、奇妙な質問に、はい/いいえ、だけで答える試験だった。
――ウミガメのスープを飲んだら自殺したくなる?
「いいえ」
――アリを潰したことがある?
「はい」
――砂漠でひっくり返った亀を助ける?
「はい」
といった具合で、これは情動機能を見られているのだろう。
最後のテストは、他の影人間たちと対話を行うというものだった。
これが最も退屈で苦痛だった。なにせ、グループカウンセリングのように、かといって悩みを打ち明けたりするわけでもなく、群衆モードの影人間を相手に、本当に他愛のない会話をさせられるだけだったのだから。さすがに、これは何をテストされているのかはわからなかった。もしかしたら、影人間たちの中には、他のAIが紛れこんでいたのだろうか。だとしたら、機械の代弁者と会話していることに誰も違和感を持たないか確認する、性能試験にはなるかもしれない。
それにしても退屈であることに変わりはなく、私は適当に相槌を打ったり、当たり障りのない話題を提供するだけに徹し、早くこの時間が終わってくれと願うばかりだった。一瞬、あまりにも退屈すぎるテストに、何かの間違いで不合格と判定される可能性が頭を過ったが、そんな一抹にもならない不安に悩まされること自体が馬鹿馬鹿しいと気づいた。
自分が人間であると自覚している私にとって、このチューリング・テストは、法的に人間社会に戻るための通過儀礼に過ぎない。必ず満点を取れるテストほど退屈なものはないだろう。
そのため残ったほとんどの時間で私は、《グラス》の中で〈欠落〉を感じない理由について、退屈しのぎにぼんやりと思索に耽っていた。
感覚の削られた世界は、なぜ私に心の安寧を与えるのだろう?
*
「おめでとう、二人とも合格だ!」
オフィスラウンジに呼びだされた私とソジーが到着するや否や、フレゴリーは満面の笑みでクラッカーを鳴らした。光沢のある紙吹雪が辺りにちらばり、紙テープがひらひらと舞う。
「……あとで自分で掃除しろよ」
「むっ、もう少し驚いてくれるかと思ったが」
残念そうにフレゴリーが言うと、クラッカーの中身が消えた。どうやらAR式のパーティーグッズだったらしい。
「テストの翌日に君に呼びだされれば色々と察しがつくよ、さすがに」
私が呆れ半分に言いながらソファに腰かけると、 フレゴリーは面白くなさそうに言う。
「なんだつまらんことを、もう少し乗ってくれてもいいだろう」
「僕がそういうのを好まないのは知っているだろう」
やれやれと言わんばかりにフレゴリーは肩を落とす。
「はぁ、まったく面白みのない。見ろ、ソジーはこんなに驚いてくれているのに」
フレゴリーの言う通り、ソジーは呆けたように突っ立っていた。これはサプライズのお祝いに驚いたのではなく、単純にクラッカーの音にびっくりして放心しているだけではないだろうか。
「ソジー?」
「え? あっ、ごめんなさい先生、考えごとしてた」
私がソジーの顔の前で手を振ると、彼女は我に返った。自分の用意したサプライズを半ば蹴とばすような姪っ子の悪意のない言葉にフレゴリーは肩を落とした。
「なんだ驚いてくれたわけじゃないのか……」
私はフレゴリーを無視してソジーに訊く。
「考えごとって?」
「あ、別に大したことじゃなくて……テストをパスしたってことは、《オルター》には何も問題は見つからなかったんだなーって」
実感が湧かないのだろうか、ソジーは《オルター》に対して不安を抱いているようだった。
それは安心していいぞ、とすぐに元気を取り戻したフレゴリーが言う。
「設計上、《オルター》では実現不可能な知性を持っているとお前らは判定された。逆説的に、《オルター》は正常にお前らの脳を補正していることになる。そもそもジョーが設計したものだからな、問題が見つかるほうがおかしい」
ふっ、とフレゴリーは鼻を鳴らして見せた。
「なんで君が得意げなんだよ。バグは摘出率通りに出たほうがいいだろう。……まぁ、その段階の工程はもう終わってるんだけど」
「そういうことだ、ソジー。自分の頭の中に入っているアプリに対する不安はわかるが、十分な安全性が保証されているから安心しろ」
「……そっか」
ソジーはぼんやりと虚空を見つめる。その視線はどこも捉えておらず、気のせいか、緑色のレンズの奥で彼女の瞳が少し濡れているように見えた。
「……ソジー? どうかしたのかい」
「あ、ううん。何か、これで人間として認められたんだなぁ、って感慨深くて」
はにかむように彼女は苦笑する。そして、伸びをするように両腕を伸ばした。
「よし、それならお祝いだ。人間になった日なんだったら、二回目の誕生日みたいなものだし、ささっと手続きを終わらせて退院して、その辺のお店で食事でもしよっか」
二回目の誕生日というのは言い得て妙だった。確かに、法的に判断能力が認められた今、我慢していた分、自由を謳歌したいところだ。ちょっとした記念日とするのもいいだろう。
「いや駄目だぞ」
「えっ」
期待を裏切るフレゴリーの言葉に、思わず私とソジーの声が揃う。しかし、そんなことを意にも介さずに彼は淡々と続ける。
「チューリング・テストが終わっただけで、《オルター》での臨床試験は終わってないからな。悪いが、退院はもう少し先だ」
納得できていないように眉をひそめてソジーが言う。
「《オルター》は正常って判断されたのに、これ以上何を検査するの?」
「検査というより経過観察だな。何せ、BCIデバイスによる治療を受けた人間は、世界でお前らが初めてだからな。色々と細かい検査も必要になってくる」
つまり、と私は自分のこめかみを指先で突いて見せる。
「僕たちの脳の補正はまだ終わってないのか?」
ソジーには悪いが、実のところ、まだ退院せずに済むのは、私にとっては好都合だった。
私は未だに〈欠落〉を感じている。まだ補正が終わっていないのならば、〈欠落〉が残っているのは仕方がないと割りきれる。これからさらに検査を行って、脳に問題が見つかるならば、それはむしろ歓迎すべきことだ。最低限、この〈欠落〉に診断が下されることぐらいは期待したい。気味の悪い〈欠落〉を抱えたまま日常生活に放りだされるより、今しばらくモルモットになって籠の中で飼われているほうがマシだった。
「あぁ、そのことだが……そうだ、思いだしたことがある、まず先にこっちの説明をしないとな」
フレゴリーはそう言うと、中空で手を動かし、何度か小さく指を振る。《ニューロワイアード》で視界に表示されたディスプレイを操作している動きだ。
「……よし、設定を変更した」
フレゴリーの言葉とともに、視界に《ニューロワイアード》からの通知が届く。『《オルター・ブレイン》へのアクセスが許可されました』。プログラムの変更通知のようだった。詳細を開くと、自分にインストールされている《オルター》に対し、所有者権限でアクセスできるようになったようだ。
突然付与されたアクセス権に、ソジーが訝しむように訊く。
「なにこれ?」
「見ての通り《オルター》へのアクセス権だ。今までのお前らは法的な判断能力が認められていなかったから、医療用にインストールされた《オルター》を停止する権限がなかったんだ。晴れて人間として認められたからな、今度は逆に《オルター》を停止する権利を与えないといけないわけだ」
「じゃあもう《オルター》は止めていいのか?」
停止してもいいということは、もう《オルター》による補正が終わり、脳が正常に戻ったと考えるのが自然だ。しかし、私の質問に「いや」とフレゴリーは答えた。
「まだ駄目だそうだ。専門医たちの見解だと、完全回復にはあと三ヶ月はかかる」
「あと三ヶ月……僕が覚醒したのが大体二ヶ月前だから……まぁ、妥当なところか」
人間の脳は損傷を受けたとしても、脳組織自体が無事であれば時間をかけて回復する。回復には早くて半年、長くて数年とも言われているが、リハビリで回復を早めることもできる。要は、脳の可塑性による神経回路の再生と再配置を促しているわけだから、《オルター》で二四時間、常に補正を行い脳に刺激を与えていることを考えれば、納得のいく期間だ。
「その間に止めたら、どうなるの?」
ふと、ソジーは不安げな顔で言った。その質問に、私もフレゴリーも虚を衝かれ、彼女が何を心配しているのか理解できなかった。どうなるかなど、考えるまでもないからだ。
困惑した表情でフレゴリーは、当たり前のことを答えた。
「また昏睡して植物状態に戻るに決まってるだろう」
「あ、そっか、そうだよね。変なこと聞いちゃった」
ソジーは慌てたようすで取り繕うような笑顔を浮かべた。そして、どこかぼんやりした様子で、ぼそりと呟いた。
「合格、かぁ……」