クオリア
「テストは《ルッキングラス》で行う」
私とソジーをオフィスラウンジに呼んだフレゴリーは、そう言った。
ラウンジは社員が休憩やミーティングなどに使用するフリースペースだ。その性質上、フロアを一つぶち抜いた広々とした空間が用意されており、ソファやテーブルが配置されている。解放感を出すためか、窓側は全面ガラス張りだ。
二ヶ月ほどのリハビリの成果で、私はエクソスケルトンの世話から解放されていた。今や自分の身一つで自由に動き回れる。が、特にできることも、することもなく、無為な日々に倦んでしまっていたところだったので、フレゴリーの報せに、ようやくか、という気持ちだった。
ソジーのほうも、視力が完全に元に戻っており、以前のように緑色のカラーレンズの眼鏡をかけるようになっていた。
目線の読みにくいレンズの奥で、彼女は不思議そうに目を細める。
「なんでわざわざ《グラス》なの?」
「簡単に言えば再現性と匿名性のためだな」
ソジーの質問に腕を組んでフレゴリーは答える。
「審査員には、《オルター》の被験者であるお前らが対象者だとは伝わっていない。そもそも、チューリング・テストの対象は機械であることが前提だしな。あとは単純に、《オルター》プロジェクト外のAIも参加してるというのもある」
なるほど、と私は納得した。
「バイアスの排除だね。まぁ、当然か」
「どういうこと? あたしだけ置いてかれてるんだけど」
「植物状態から《オルター》で覚醒したけど、法的に人間と認められていないものが対象者だと知ったら、君はどう思う?」
「あー……それは確かに余計な先入観が入るね」
そういうことだ、とフレゴリーが言う。
「しかも、一人は《オルター》の開発者で、もう一人は共感覚者だ。審査員と他の参加者からすれば、お前らはノイズになる属性情報が山盛りすぎる」
肩をすくめて見せるフレゴリーに、ソジーが噛みつくように言う。
「ノイズって、他に言い方あるでしょ」
「すまんすまん。まぁそれに、VRである《グラス》でなら、参会者全員が厳密な意味で同一の試験を受けられるというのもある。加えて、《グラス》の試験会場では、全員のアバターが群衆モードになる。キャラクター性を極力削ぎ落として、人間らしさだけを見ようとしているわけだ」
まぁ、なんでもいいや、とソジーは眼鏡を外して目頭を押さえる。
「これが終われば、ようやく人間として認められるわけだし……」
「疲れてるのかい?」
私が訊くと、ソジーは返事の代わりに呻き声を上げた。
「なんか、視力が戻って色が見えるのが久しぶりだからか、変な感覚なんだよね。《オルター》って共感覚まで再現してくれるものなの? 余計なことしなくてもいいのに……」
「いや、《オルター》が共感覚を再現しているわけじゃないよ。《オルター》は人間の脳の基本的な働きしか知らないから、共感覚という特異な感覚については、君の脳自身によるものだね」
ソジーの共感覚は視覚がスイッチとなって発現しているが、今は《オルター》の補正に頼っているため、視覚情報が正常に視覚野で処理されているわけではない。一度《オルター》を迂回し、その結果が視覚野に戻され、その後初めてソジーの脳内で共感覚のスイッチが押されて共感覚が発現している。《オルター》は共感覚に何一つ関与していないだろう。あくまで、彼女自身の脳の働きの結果としてのみ、共感覚は発現しているはずだ。
しかし、ソジーの身に起きていることは興味深い。
「確かに、共感覚が戻ってくる、というのはかなり特殊な感覚だろうね。知覚経路が増えた状態だから、極端な話、目が一つ増えたようなものかな」
そもそも――フレゴリーが言った。
「共感覚それ自体が普通の五感とは異なる感覚質だ。それが急に戻ってきたのなら、変なのは当然だろう」
急にクオリアを持ちだしたフレゴリーに、私は少し呆れた心持ちになった。
「そう言えば君はクオリア肯定派だったな」
「俺からすれば、どうしてクオリアを否定できるのかがわからん」
「普通に考えればおかしいだろう。物理的、科学的に説明できないものを、存在することを前提として肯定しているんだから。せめて客観的に検証可能になってからでないと」
「お? それじゃお前は、完全な否定派というわけではないんだな」
「まぁ、実在が証明されれば受けいれるよ」
私とフレゴリーの会話にソジーは急に真顔になり、そのまま無言で首を傾げた。それを見たフレゴリーが小さく笑い声を上げる。
「そうか、いきなりクオリアなんて言われてもわからないか」
ソジーは「あっ、いや待って」と何かを思いだそうとしながら、制止するように掌をフレゴリーに向ける。
「前に先生に教えてもらった気がする。ちょっと待って思いだす……確か、クオリアってアレだ……簡単に言えば感じでしょ」
「だそうだ先生」
「補講だね」
えぇ、と声を上げたソジーに私は思わず笑う。
……とは言ったものの、実のところ私はクオリアを理解できていない。
「まぁ、僕も専門家ではないし、詳しいことは説明できないんだけどね……概要としては、意識や心が現象を体験している感覚に、質感が存在するっていう〝仮説〟だよ」
私がエアクオートで仮説であることを強調すると、フレゴリーは苦笑いを浮かべていた。別に私は嘘は言っていない。
意識や心は脳で発生している。これは自明だ。意識体験は脳で起こっており、脳機能をすべて説明できれば、意識に関するすべても明らかになる。つまり、意識は科学的に説明可能なものであるはずだ。しかし、それでも説明できない、物理的な存在である脳内で、意識が認識している未解明の領域にある何かがあると主張する人々がいる。
それがクオリアだ。
その実在の根拠は、主観的な意識体験として在るのが自明だからだという。つまり、根拠は肯定派たちの主張でしかない。根拠はないが脳が知覚したものというのは、科学的には錯覚と呼ぶべきものだろう。第一に、否定派が存在している時点で、存在が自明であるという肯定派の論理は破綻しているのだ。
しかも、クオリアはその性質上、相互に共有できない概念として定義されている。だからそもそも、肯定派がそれぞれ『クオリア』と呼んでいるものが、同じものなのかも怪しい。
「感覚の質感って、つまり何?」
いまいち理解できていないようで、ソジーが訊いてきた。
「そうだね……」
そこの説明が難しいのだ。
なぜなら私はクオリアの仮説が主張する質感を理解できていない。フレゴリーと議論したときに何度となく説明されたが、ついぞ感覚の質感とやらが、どのようなものなのかわからなかった。
根本的に感覚に質感があるという概念が意味不明だ。物質ならばそれぞれの物理的特性により、ざらざらやつるつるという感じがあるのはわかる。そしてそれは対象の物質に触れたりした知覚を通して他者と共有可能だ。
では感覚の質感とは?
感覚は主観的なものであるし、それが発生しているのは個々人の脳内だ。その感覚に対して受ける感じとは何だというのか? 感覚ごとに固有のものとして、ざらつきやなめらかさのようなものがあるというのだろうか? しかも、感覚は自分の内にしか存在しないので、他者と共有不可能であり検証できないのだから、ふざけている。
ふと、ラウンジの窓から空を眺める。
よくクオリアの説明の例として引き合いに出されるのが色だ。色を見たときに現れる感じ。それがクオリアだという。
空の色の『青』を見ている私には、『青のクオリア』が発生していることになる。クオリアが実在しているとして、今それがどこにあるのだろうか? 私が感じているのは、雲がまばらに浮かんでいる晴れた空に、透き通るような澄んだ色が青々と広がって――
――あれ?
青が。
青がわかる。
急に視界が開けたような解放感に私は満たされた。広大な塩湖に独り佇み、天の青が地に映る様を身体全体で感じているように、今の私の中にはありありと『青』が存在している。今、私は『青』を感じているのだと、まるで母なる海に潜り、海の冷たさに心地よさを感じているように『青』の質感に触れられている。
これがクオリアか。
急激に、あまりにも急激に私は理解した。今までクオリアを理解できていなかったのが、たちの悪い未視感に囚われて認知の迷宮に迷いこんでいたかのようだった。
なぜだ、以前は欠片も理解できなかったクオリアが、今は何となくだが理解できるようになっている。いまさらになって振り返ってみると、逆になぜ私はクオリアを理解できていなかったのかと不思議になってくる。
これを何と表せばいいのだろうか。今まで欠けていたピースが、どこかに上手く嵌ったとでもいうのか。形になっていない無数の意味を持たない塵芥のような想念の中で、青をイメージすることで凝集され、象形を得たものそれ自体を知覚した感覚? あるいは、外からの刺激により私の中で構築された『青』を脳が嘗めることで、ようやく『青』を知覚するような感覚? いやいや、そんなに難解ではなくもっと簡単な表現に収まるはずだ。言うなれば、感覚そのものに触れた感覚?
いや違う。
どれもこれも違う。
どれだけ言葉を重ねても不正確な気がする。むしろ、言葉を重ねるほど本質から遠ざかっていく気すらする。もっと単純なことだ。
青を想起したときのあの感覚。
それ以上でも以下でもない。それを完璧に言語化する語彙はこの世になく、あまたの表現がすべて過たず誤謬となる、あの感覚。ここにあるが離れた場所にあるので、そうとしか表現できない、彼の感覚。
気づき。
そうとしか表現できない感覚だった。
「先生、どうしたの? 急に空を眺めて固まっちゃって」
クオリアの理解の衝撃に呆然としていた私はソジーの呼びかけで我に返る。
「あ、いや、説明の仕方を考えていたんだ。えっと、そうだね……空を見てごらん」
私が窓の外を指差すと、ソジーは促されて空のほうを向く。
クオリアを実感として理解できた今、様々に議論されてきたクオリアの仮説が声高に叫んできた内容を私は理解できている。すらすらと、すべるように言葉は出てきた。
「『空の青さ』は、空を見たことがある人に共有できるけど、物理的な『青』そのものの説明は、現象的な『青さ』――『青』から受ける印象や思い起こされるもの――なしではできない。この物理-現象間の断絶――言語化できないけれど確かに感じている、個々人の意識体験に結びつく感じがクオリアだよ」
「はい先生、ピンときません」
即座に言ったソジーに、フレゴリーが大笑いする。……これでも可能な限り噛み砕いたつもりだったのだが。
「クオリアの概念は言語化しようとすると途端に難しくなるよなぁ。しかし、どういうことだジョー?」
「何がだい?」
フレゴリーは不思議そうに言う。
「何がって、前はクオリアという概念自体が意味不明で、議論すら徒労だとあんなに否定的だったろう。今はずいぶんと肯定的だが、どういう心変わりだ?」
フレゴリーは目敏く私の変化に勘づいたようだった。ちょっとした言葉の先や表情の変化の違いに気づく人間観察力はさすがだが、今は正直その質問は困る。別に隠しているわけではないが、自分でもなぜ急にクオリアを理解できたのか、わからないのだ。この説明不可能な自明さは、とても非科学的な気がして気持ち悪く、できれば口にしたくなかった。
「えっとだね、それは……」
何と説明すべきか考えあぐねた末に、私は観念して端的に事実を伝えることにした。
「……クオリアを理解した」
「は?」
私の言葉にフレゴリーは虚を衝かれた顔をしていた。
「いや、悪い。何だお前、急に……」
「おそらくだけど、《オルター》の効果で僕はクオリアを理解できるようになったんだ」
私の言葉に釈然としない様子のフレゴリーだったが、やがてその顔色が変わり、何かに気づいたように瞠目する。
「――認知機能が補正されたのか?」
「そうだね、その可能性が一番高いと思う」
肯定派の反論の中の一つに、否定派は認知機能に障害があるのではないかという仮説があった――つまり、脳機能のどこかに問題があり、クオリアを認識できていないのだという。そして、今の私には脳機能を正しく補正する《オルター》がある。ならば今感じているこれは、《オルター》による補正で認識できるようになったと考えるのが自然だろう。事故で受けた脳の損傷の影響や、植物状態からの覚醒という経験に起因する可能性もあるが、何れにしろ、それらの回復の端緒を担ったのは《オルター》だ。
フレゴリーは感心したように言う。
「《オルター》はそこまでできるのか……もしかしたら、俺たちの想像以上にすごい代物かもしれん……もし、《オルター》を通して意識を客観的に検証できたら、ハード・プロブレムを解決することも夢じゃない。ジョー、お前の名前は歴史に刻まれるかも知れないぞ!」
《オルター》のポテンシャルに期待を膨らませてあれこれと想像しているのか、子供のように目を輝かせるフレゴリーに私は嘆息する。
「さすがにそれは大袈裟だろう。まだ《オルター》による効果かもわかっていないんだ。存外に、事故で受けた脳の損傷が《オルター》で完全回復した暁には、僕はまたクオリアを理解できなくなることだってありえる」
私がにべもなく言うと、フレゴリーは渋面を作った。
「夢のないことを言うなよ。いつも言ってるだろう、お前は自分を過小評価しすぎだ」
「僕は皮算用をしていないだけだ」
「いいや、お前はもっと自己肯定感を高めるべきだ。新人時代だって無能のヨーゼフに言われるがままを受けいれて――」
「ねぇ、ちょっと」
不意に、ソジーが話の流れを切るよう割りこんできた。
「あたしを放置して二人だけでお話して楽しい?」
ソジーは頬杖をついていた。そしてその声色には明らかに棘があった。
まずい。私はフレゴリーに目配せすると、彼もこちらにアイコンタクトを送ってきていた。年頃の女の子の機嫌を損ねる危険性を察知した私たちは、早々に話題を切り替えることで暗黙に合意した。
「フレゴリー、この件はまた今度詳しく調べよう」
「あぁ、そうだな。プロジェクトの拡張も視野に入れておこう」
さて、と私は何事もなかったかのようにソジーに言う。
「えっと、どこまで話したんだっけ」
「空の青さがどうのこうのって話だよ、先生」
「あぁ、そうだったね……ソジー、君は他人に『青さ』を説明するのに、青いものを使わずに説明できるかい?」
「え? 要は青色を説明できればいいだけでしょ……」
そのまま何かを言おうとして、口を開きっぱなしにしたままソジーは固まった。少しして説明とは無縁の言葉をその口から漏らした。
「……マジか。できない」
「まぁ、そういうことだよ。『青さ』は『青』からしか得られないからね。今君が頭の中に持っていた『青さ』が、『青のクオリア』だ。僕たちは他人に『青さ』を説明するとき、直接的にしろ間接的にしろ、物理的に『青』を必要とする。これは物理的に『青』を見たとき、意識の中で『青さ』という現象を体験しているからだよ。ただ、意識で体験している以上、個人の中にしかない『青さ』は、物理的な『青』みたいに他人とは共有できない」
ざっくりとした私の説明を聞いて、理解したのかしていないのか、ソジーは「ふぅん」と考えこむように顎に手をやった。
「じゃあ……そのクオリアがなければ、あたしの共感覚でも色が見えなくなる?」
「そういうわけじゃない。クオリアっていうのは、意識体験から発生するものだから、君が共感覚で感じているもの自体がクオリアだ」
「あ、そうじゃなくて……色のない色っていうか、彩りはあるのに色味がないっていうか……何て言えばいいのかなぁ、これ」
「何だソジー、今日はやけに勉強熱心だな。そんなに脳科学や心の哲学の領域に興味があったのか?」
「茶化さないでフレゴリー。人がせっかく頭を使ってるのに」
腕を組んで天井を見上げたソジーは、「えー」とか「あー」とか脳内でいくらか格闘した様子を見せたあと、これだと言わんばかりに指を鳴らした。
「色を見ても色の感じを持たない人ってのは?」
「あぁ、そういう思考実験はある。ただ仮にそんな人間がいたとしても、見た目は普通の人と同じだから、自分自身も含めて誰も何も気づかないよ」
「でもありえないってわけじゃないんだよね?」
「それは何かを感じている意識体験そのものがない存在ってことだから、ありえないと思うな」
クオリアが実在しようがしまいが、人間に意識が存在するという事実は覆しようがない。議論からその前提を取り除くのは、白紙の小説について語るようなものだ。体験すべきものがないものを、体験するなどできるだろうか? 私たちは物理的世界を脳内で現象として体験している。だからその事実は、現象的意識や主観的経験といった言葉で呼ばれるのだ。
いや、と面白そうにフレゴリーが議論に参戦してきた。
「ありえないというのは語弊があるんじゃないか? あくまで意識体験は現象的なものだから、意識体験を持たない物理的な存在は論理的には成立するだろう」
「引っかき回すなフレゴリー」
「何も知らない相手にはフェアじゃないと思ってな」
呵々と笑うフレゴリーに私は嘆息する。
「確かに、フレゴリーの言う通り、意識体験を持たない存在は想定できるよ。ただ《オルター》っていう意識を科学するものを作っている立場からすると、そんな存在には懐疑的だけどね。『物質を知覚する』と『物質を知覚して体験する』の差は、ロボットと人間くらい異なることだから」
「じゃあその、色の感じを持たない――意識体験がない人は、意識を持たないから人間じゃないってことなの?」
ひとしきり頭を悩ませて捻りだした質問が、次々に否定されていくことに納得できなかったのか、ソジーは食い下がるように言う。
「人間か否かと言われれば人間だと僕は思うよ、少なくとも機能的には。喜怒哀楽の感情を見せるけど、持たないことになるね」
私の言葉に、ソジーはひどく悲しそうな顔を見せた。
「それって、なんか……すごく寂しい存在じゃない?」
「それは難しいところだね……」
今まで否定的だった私の態度が、共感的に軟化したのが意外そうにソジーは訊いてくる。
「どういうこと?」
不思議そうなソジーに私は答えた。
「寂しさを見せたとしても、感じていないはずだからさ」
「そんなの身も蓋もない!」