リハビリテーション
「お前らは、まだ法的には人間として認められていないんだ」
それが、フレゴリーから説明されたチューリング・テストを受ける理由だった。
確かに私は植物状態から覚醒した。《オルター》は、間違いなく意識という人類の難問への一助となるだろう。しかしそれは、表面的な事象として私の肉体が意識を取り戻した振る舞いをしているに過ぎない。《オルター》が期待する動作をしているかはまだわからないのだ。
要は《オルター》はバグっているかも知れないし、《オルター》とは無関係に、あるいは予期しない副作用で『ジョー=N・ダウの覚醒』という現象が起きている可能性もある。
正式な研究成果が出ていない技術で私は覚醒状態にあるのに加えて、脳の状態だけを見たとき、医学的には私は覚醒しているとは言い難いため、私の判断能力は法的に立証されていない。だからこそ、機械が人間と同等の知性を備えているか試験するチューリング・テストを受ける必要があるわけだ。
過去にテストをパスしたとされるAIは数多くいるが、それらは特定の問題解決能力しか持たない『弱いAI』だ。限定的な環境下での対話方式テストに合格したに過ぎない。
現時点では、人間と同等の汎用的知能を持つ『強いAI』――汎用人工知能――が、一切の制限のないチューリング・テストをパスした実績はない。そして《オルター》はAIではあるが、AGIとして設計されていない。そのため《オルター》の被験者である私とソジーは、テストをパスすれば晴れて法的に人間として認められるという理屈らしい。
なるほど、筋は通っている。
人間扱いされていない当事者が自分である点を除けば。
しかし、私が人間なのは自明であるのに、それを証明する手段がないのも確かだった。そのため、私とソジーはチューリング・テストに臨むために、まずはリハビリに励まざるをえなかった。
幸いにも脳だけは《オルター》により健常状態なので、体の各部位への神経伝達は問題ない。そのため、どちらかといえば、私は脳機能障害の患者というより、帰還した宇宙飛行士に近い状態だった。
リハビリそのものは苦痛ではなかった。私の体が健康に近づけば、それだけ早くテストを受けられて、さっさと人間として認められるのだ。その点はソジーも同じ気持ちだったらしく、文句をこぼしながらもリハビリに打ちこんでいた。
「というか普通に失礼じゃない? 『お前らは人間じゃない』って、名誉毀損だよね――あ、毀損される人格が法的に認められてないのか……ややこしいな」
と、彼女としては、人間扱いされていない事実のほうに憤慨していた。気持ちはわかるが、研究者としての立場ではテストの必要性と理屈も十分にわかる。
リハビリの期間はそこまで長くはなく、一ヶ月もあればかなりマシになるだろうと担当医からは伝えられていた。
それより個人的に辛いのは《ニューロワイアード》の使用に制限がかけられていることだった。より正確に言えば、R&Dセンターから外へのネットワークに接続する権限が与えられていなかった。
サイオメッグ社はまだ自社の研究成果として《オルター》のプレスリリースを出していない。平たく言えば私たちの身柄は機密扱いだった。
臨床試験の被験者とするため、フレゴリーは成年後見人として私とソジーの両親を説得してくれたらしい。当たり前だが、その契約内に機密保持契約が含まれていたので仕方がない。
ソジーも状況は似たようなもので、彼女は大学を休学中扱いになり、友人とろくに連絡を取れない上に、SNSすら使えない環境下では人との繋がりに飢えているようだった。病棟内でもスタッフと限られた時間しか話せず、フレゴリーもPMとして多忙なため、ゆいいつ自由に話せる相手として、私とソジーは一緒にいる時間が増えていった。
「トマトが嫌いって、どんな感じなの? 美味しいのに」
そしてそれは、リハビリを始めて一ヶ月ほど経った、ある日のソジーの何気ない一言だった。
ちょうど社員食堂で昼食中で、口腔リハビリの成果でようやく問題なく食事できるようになって少し経ったころだった。食堂には来ているが食べているのは病院食だ。わざわざ食堂に来ているのは、病棟内で宛がわれた個室で美味くもない病院食を一人で黙々と食べるより、会話相手がいるほうが、お互い気分がマシだからだ。
味はともかくとして、自分の口で物を食べられることを文字通り噛みしめて喜んでいたが、私は苦手なトマトを残していた。もちろん、彼女もそれは知っている。だからそれは、他愛のないただの雑談に過ぎなかったのだろう。
しかし、その彼女の問いに、私は強烈な違和感を抱いた。
「え……なに?」
「あ、別に大したことじゃなくて。あたしはトマト好きだから、トマトが嫌いってどんな感じなのかな、って思っただけ」
質問の意図は解っていた。だが即答できなかった。嫌いな理由は自覚している。歯で薄い果皮を破るときの、青虫を潰すかのようなぶじゅりとした感覚。中から滲みだす、雑草を絞ったような青臭さを持つ酸味のある液体。口の中で崩れた果肉からこぼれる種が、咀嚼の間ずっと歯の間でぶちぶちと潰れる食感。これらのすべてが私の中で負に繋がるからだ。
しかし、私は急に字が読めなくなったような、簡単な計算ができなくなったような、そう、まるで何かがゲシュタルト崩壊して元に戻らなくなっているような感覚に襲われていた。
言葉の意味は理解できる。しかし、私の中で『嫌い』にぴったりと合致するものが見つからない。トマトが嫌いな理由は見つかる。しかし、それらを統合しても『嫌い』という実体が見つからない。
私の中に、私の知らない情報の欠落があるように思えて仕方がなかった。
「それは……一言では言えないな」
湧きあがってきた戸惑いを隠すように、私は笑みを作って誤魔化した。
「まったく、食べないと元気になれないよ」
私は皿に残ったトマトに目を落とし、フォークでつつく。私は『これ』が嫌いだ。その理由も正しく認識できている。だが、言葉にしようのない不足を感じる。何かが足りない。嫌いだというあの感じ――呼吸を意識しだすと途端に苦しくなる類いのあの感じ――を思いだせない。そもそも元から覚えていたのか? 記憶の反芻の中には経験が保存されているだけで、当時に意識した確然とあったものは、そこに含まれていないだろう。あれは、そのときにだけ現れるものなのではないだろうか?
「ねぇ、先生、聞いてる?」
つつきすぎて形が崩れはじめたトマトに対し、私はあることを試してみることにした。
「君の言う通りだ」
「え?」
「トマト。食べてみるよ」
急に意を決した私に対し、ソジーは不思議そうにする。
「そう? よし、じゃ頑張れ、先生」
私がトマトを口にした反応を見ようと彼女は無言で構えてきた。
……じっくりと見つめられると逆に食べにくい。そして、いざとなるとなかなか嫌いなものを自ら口にする勇気が出ない。ふと正面の相手の表情を見ると、口元が少し緩んでいた。これは完全に面白がられている。
そうして逡巡しているうちに、昼の終わりを告げる予鈴が鳴ってしまった。
「あ、先生がぐずぐずしているから昼休み終わっちゃったよ、もう。午後はまた検査とリハビリだし……面倒臭い」
「目の調子はどうなんだい?」
「大分見えるようになってきたよ。と言っても、眼鏡をかけても意味ないぐらいには、まだ視界がぼやけてるけどね。担当の先生によると、あと一週間もあれば完全に見えるようになるだろうってさ」
「それじゃ、早く人間として認められるためにも頑張らないとね」
「先生のほうこそ、頑張ってトマトを食べるんだよ」
いたずらっぽく微笑みながら、彼女は席を立った。
一人になったあと、私はトマトを口の中に入れた。
不味い。
記憶通りの味だ。私はトマトを口から吐きだし、ゴミ箱に捨てた。口の中の不快さを洗い流すように水を飲み、一刻も早くあの味を忘れようとする。
わざわざ嫌いなものを食べて辛い思いをしたのに、今まさに嫌いなことを実践をしたのに、今そこに『嫌い』はなく、私は自分の内に『嫌い』を見つけられなかった。
嫌いであるとはどのようなことだっただろうか?
それから、何度か似たような出来事が起きた。色、音楽、肌触り――感覚に由来するものについて、私は明確に『何か』の欠落を感じるようになっていた。
もしや、《オルター》には欠陥があったのだろうか? あるいは、《オルター》は正常に動作しているが、何か重大なミスが見落とされており、私の頭はロボトミーを施術されたような状態になっているのではないだろうか? そんな疑念を抱くようになった。
明確な〈欠落〉。言葉にできない何かの不在。自分を自分足らしめるための何かが足りていないと確信している。しかし、それが何かわからないので、不安感だけが募っていく。
私に足りていないのは何だ?
疑念を振り払うように私はリハビリに打ちこんだ。リハビリの経過は順調で、肉体も精神も健康と判断されていた。最先端の医療器具が揃っているR&Dセンターにいるのに、この〈欠落〉は異常と診断されない。どころか、私自身もそれ以外のことについては平常である自覚がある。
心身を越えた何かの〈欠落〉は、ただの私の強迫観念によるものだろうか? あぁ、そうだ。きっとそうに違いない。私よりも早く覚醒したソジーですら、《オルター》の学習が追いついていないために、視力が回復しきっていない。私のこの〈欠落〉も、《オルター》の学習が追いついていないが故の副産物としての感覚だろう。
仮に《オルター》に何か異常があったとしても、チューリング・テストが行われれば、潜んでいる問題は表面化するはずだ。
だからそう、何も問題はない。