オルター・ブレイン
私が研究開発員として働いているサイオメッグ社は、《ニューロワイアード》というBCIデバイスを販売しており、その業界では世界一位のシェアを誇っている。
シリコン繊維のメッシュ上に並列化されたナノコンピュータのクラスタを、電算する擬似神経として脳に注入し、デバイス化する。両耳の後ろにインプラントされた直径一ミリほどの端末が、アクセサリ型のウェアラブルコンピュータと脳活動の情報を送受信し、有機的なコンピュータである脳と、機械的なノイマン型コンピュータを結線する装置。それが《ニューロワイアード》だ。
当然、私の頭の中にも《ニューロワイアード》は入っている。そして、私は《ニューロワイアード》の新しいアプリケーション開発プロジェクトの設計主担当者として参画していた。
そのアプリケーションの名は《オルター・ブレイン》。
その中核は、ヒト幹細胞から培養された、脳に似た小型の生体組織である脳オルガノイドにより、人間の脳の働きを学習させた人工知能だ。《オルター》はユーザーの普段の脳の働きからフィードバックを得て、ユーザーの思考を学習する。やがて一人前になると、もう一人の自分としてユーザーの思考を補助してくれるようになるのだ。
つまり、《オルター》は《ニューロワイアード》を外付けの思考回路として動かすアプリだ。
簡単に言えば脳の予測入力機能。または補助用意識。あるいは人工的で安全な解離性同一症。いや、正確には二つの独立した人格が存在するわけではないので、二重人格というよりは重複人格という表現が近いだろうか。
そして、《オルター》には、もう一つの使い道が検討されていた。
脳の基本的な働きを学習しており、個人の脳から教育を受けて成長するアプリケーションの性質からして、その発想は当然だった。障害のある脳を補正するという発想は。
私の脳活動はめちゃくちゃなままだが、《オルター》が脳神経の電気的なバイパスを行ってくれているわけだ。なるほど、あの四〇ヘルツの星々の夢――意識がなかったので夢と言えるだろうか? ――は、《オルター》が〈私〉を学習しているイメージだったのだろう。
状況には納得できたが、しかし、そうすると次は新たな疑問が湧いてくる。
「でも誰が? 僕もソジーも《オルター》の臨床試験への応募なんてしていない。誰が被験者に選んだんです? いや、それ以前に僕には意識がなかったのだから、参加には代諾者が必要だったはずだ」
「それは――」
「ジョー! 目が覚めたんだな!!」
「あー……いえ、大丈夫です。大体わかりました」
医師が口を開きかけたタイミングで、非常識な大声と共に大柄な男が病室に入ってきた。諸手と歓声を上げてこちらに近づいてくる見知った姿を見て、少しばかりの疎ましさを感じつつ、私はすべてを把握した。
「やった、やったな、ジョー! お前の研究は大成功だ! ソジーもお前も無事に目を覚ました、今日は何て素晴らしい日だ!」
来訪者は《オルター》開発のプロジェクト管理者であるフレゴリーだった。
仕立ての良いスーツの上からでもわかる鍛えられた巨躯は威圧感があるが、それを打ち消す人懐こい子供のような屈託のない笑顔と高いコミュニケーション能力で、性別問わずに好かれている男だ。
PMとして巧みな話術と人心掌握でプロジェクトの推進剤になり、確かなリーダーシップを発揮している。それが周囲からのフレゴリーに対する一般評価だ。しかし、彼と同期で他の人よりもつき合いの長い私の評価は少し違う。確かに私と違って、優秀で誠実で正しい人間なのだが、まっすぐすぎるため振りかざした剛腕で辺りを破壊しないよう、非常に気を遣わされるので疲れるのだ。
あぁ、今までに何度彼の暴走を未然に防ぐために奔走させられたことか。
そもそも《オルター》の開発プロジェクトも、BCIデバイスと脳の関係をテーマにしていた私の研究内容に興味を持ったフレゴリーが、いつの間にか勝手に企画を通していたのだ。当時、あとで「驚くだろうと思ってな」と彼は言ったが、驚かないほうがおかしい。
私とソジーを《オルター》の臨床試験にねじこめるとしたら、彼しかいないだろう。
「フレゴリーさん、病棟では静かに……」
大声で喋り散らすフレゴリーを見かねた医師の注意に、悪びれた様子もなく彼は言う。
「おっとすまない。しかし、無二の友が植物状態から覚醒したんだ。しかも、やつ自身の研究成果でだ。興奮もやむなしだろう! なぁ、ジョー!」
おそらく大学ではアメフト部に所属し、ポジションはクォーターバックだったに違いないと勝手に私は思っている。
前に進みそうにない話の調子に嘆息して、私は訊いた。
「それで、ソジーは?」
「ん? 一緒に来たのだが……」
フレゴリーは入り口から廊下の様子を覗くと、慌てた様子で駆けだした。少しして、ふくれっ面をした病衣の若い女性に背中を叩かれながら戻ってきた。
「あたしを忘れて置いていくなんて信じられない。まだ目が覚めたばかりでリハビリ中だよ? ほんっと信じられない」
「いや、悪気はなかったんだ。ただジョーが目覚めたと聞いて興奮してしまってな……いや待て、痛い、痛いぞ、それ本当に医療用のエクソか」
「あたしだって先生に早く会いたかったのに、一人で勝手に先に行くのが輪をかけて信じられない」
フレゴリーを責め立てながら病室に来たのは、彼の姪で、私の研究協力者でもあるソジーだった。
ソジーは病衣の上から外骨格状の装置で全身を覆っていた。医療用エクソスケルトンだ。寝たきりの間に低下した筋力を補うためのものだろう。
あぁ、安心した。いつも通りのソジーだ。大学生の若者らしい溌溂として血色のいい顔に、ブロンドのショートヘア。少なくとも、見た目では記憶に最後に残っている彼女と同じで、目立った傷や怪我は見当たらなかった。
私はソジーに軽く手を振って見せる。しかし、彼女はこちらに反応せず、辺りを見回して隣のフレゴリーに訊いた。
「フレゴリー、先生はどこ?」
「おっと、そうか」
何かを思いだしたように、フレゴリーは私に言う。
「ジョー、《グラス》のネットワーク共有を許可してくれ」
「《グラス》の?」
《グラス》は、サイオメッグ社が運営しているミラー・ワールドである《ルッキングラス》の略称だ。現実世界と対になる仮想現実であるミラー・ワールドは、現実にあるモノが正確にスキャンされ、そっくりそのままのデジタル・ツインとなっている。
なぜ今《グラス》への接続が必要なのかわからなかったが、私は言われるがままに病室内での自分の位置情報の共有を許可した。するとソジーは、今突然そこに私が現れたかのように、こちらに気づき、笑顔で手を振ってきた。
「先生、何か変な感じだね。お互い知らない間に数ヶ月経ってるんだもの」
その様子を見て、私は彼女が無事ではなかったと悟った。
「ソジー、もしかして目が……」
「あ、うん。完全に見えないわけじゃないんだけど、ほとんど見えないから今は《グラス》のほうで見てる」
言葉を失った。言葉が見つからないというのは初めての体験だった。
研究協力者であるソジーとのつきあいは数年来で、彼女が高校生だったころからだ。彼女の叔父であるフレゴリーと親しい同僚であるというのもあり、私がソジーの保護者役をしたことも少なくない。気がつけば私にとっても、彼女は姪のような存在になっていた。だからこそ、光を失った彼女に何と声をかければいいのか、わからなくなっていた。
しかし、そんな私とは裏腹に、ソジーはからからと笑った。
「いや、そんな顔しないで安心していいよ。《オルター》の学習が進めば、そのうち元に戻るらしいから」
「……本当か?」
思わず私は、この場で私の次に《オルター》に詳しいフレゴリーに問う。私の不安に、あぁ、と彼は答える。
「それは確実だ。検査の結果では眼球に損傷はなかったし、視覚野や視神経、視覚に関係する場所にも異常はなかった。今はまだ《オルター》が視覚処理の学習途中と考えていいだろう。それにソジーの目は特殊だしな、それが影響しているのかも知れん」
確かにソジーは常人とは異なる目を持っている。それが私の研究協力者である理由でもあった。
ソジーは共感覚者だ。
人の容姿や気分といった類いの雰囲気が色として見えるタイプで、見える量を減らすために、普段は度なしの緑色のカラーレンズの眼鏡をかけて、わざと目に入ってくる情報量を減らしているほどだ。
言われてみれば、今は眼鏡をかけていない。
ソジーの共感覚は他人の感情の機微にまで範囲が及ぶ。そのため、視覚だけではなく聴覚による声音や嗅覚によるフェロモンの知覚なども含めた、統合的な感覚だと考えていたが、スイッチとなっていたのは視覚だったようだ。それも《グラス》を通して得た視界で共感覚がないならば、眼球から光刺激を受容し、視神経を経由する必要があるらしい。
「どっちかと言えば、あたしは見えない今のほうが楽なんだけど……あ、もしかして、先生は見えないあたしはもういらない?」
冗談めかすソジーの様子に、私は緊張の糸が切れて、呆れ混じりにうなだれた。
「まったく、そんなことを考えるわけないだろう。研究よりも命のほうが大事に決まっている」
「ま、でもいずれ戻っちゃうらしいから、先生にはしっかりと研究を続けてもらわないとね」
「現金な子だな」
「だって、そういう条件で研究に協力してるんだもの」
元々、BCIデバイスと脳の関係を研究していた私に「親戚に共感覚者がいるから研究協力者にどうだ?」とフレゴリーが紹介したのがソジーだ。ただし、研究に協力するには条件があると持ちかけてきたのは彼女自身だ。
その条件は「あたしの共感覚を消して」というものだった。
ソジーは共感覚のせいで余計なものが見えすぎて、今までに苦しんできたのだという。見るだけで他人の心の機微に気づける彼女の能力は、生まれついたものであり、当たり前すぎて、それが特殊だと彼女は知らなかった。幼く、多感な子供たちの中で、無意識にそんな能力を使えば、周囲から疎まれ、孤立するのは想像に難くない。
あとから聞いた話によると、ソジーの両親がフレゴリーから《オルター》の話を聞き、娘の助けにならないかと彼を頼ったのが発端だったらしい。
まぁ、今では研究というよりは、大切な家族のようなソジーのために、《オルター》の研究開発を進めている自覚が私にもある。公私混同ではあるが、成果を上げている分には会社も文句を言ってこないだろう。
おっとそうだ、とフレゴリーが会話を中断した。
「会話が弾んでいるところ悪いが、これから二人にはやってもらわないといけないことが山積みだからな」
すでにこの後の話をフレゴリーから聞かされていたのだろうか、ソジーはげんなりとした顔をしていた。面倒ごとの気配しかしない。それを気にする様子もなく、フレゴリーはタスクを指折り数えていく。
「まずリハビリは当然として、身体に異常がないか各種検査も受けてもらわないとな。それからメンタルケアのための継続的なカウンセリングも被験者としての義務だからな。あぁ、そうだ。研究をしたがっている医師たちへの適宜協力も頼むぞ。あとは《オルター》のプレスリリースを出すための経過観察の協力――それと、これが最も重要だが、テストを受けてもらう必要がある」
「テスト? 何のだ」
私の疑問に、フレゴリーは当たり前のように言った。
「チューリング・テストだ」