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自分ファーストな人たち

作者: 浅賀ソルト

 地元に水泳教室があって、そこの一番上に強化コースというクラスがある。国体強化選手とか五輪代表を目指しましょうという特別枠だ。その下の健康維持とか児童の肥満対策とか、楽しく遊んで泳げるようになりましょうというクラスとは目的がまったく違うガチ勢となる。

 私はそこに進級して日々1000や2000といった距離を泳ぐようになったのだけど、ある日、コーチにキックが弱いので特別指導をしますと言われた。私は12歳でコーチはまだ20代だった。私は子供の頃からかわいかったのと、両親が自分の娘のかわいさに気づいていたので、周囲の反応に慣れていた。

「帰りが遅くなると思うので、両親に相談します」私はそう言った。

「うん。相談してみてください」コーチは爽やかにそう言った。

 水泳選手って自分も含めていつも水に入っているので肌の感じだけはいい。あと毛も剃っているので身体の感じはだいたいいい。12歳だったので生々しい肉欲というより、なんかほんのりエロス的な意味であるが。

 あまりこの話と関係ないけど、見た目が大人っぽいと自分の性の目覚めより周囲が自分に向ける視線が目覚める方が早い。このギャップはそのときより自分が目覚めてから、当時の自分の無邪気さと無防備さに死にたくなる。ちょっとかっこいい男の人の腕を取ってくっついて、どぎまぎする男の人の反応にキャッキャしてたのを思い出すと、「うおーっ」と叫んで500くらい泳ぎたい。

 あ、それとこの話はコーチによるセクハラの話ではない。そっち関係の話を期待してしまった人の誤解は先に解いておく。

 ……なんでエロスの話を無駄に振ってしまったんだろ?

 たぶん、私はこのコーチのことが結局のところ好きだったのだ。ほんのりではあったとしても。水泳に夢中だったといっても。だからセクハラでも恋愛でもない大人の感情をうまく理解できていなかったのだ。

 練習が終わって帰る時間は強化コースはどうしても遅い。いくつかの部屋は電気が消えている。外も暗くなっている。コーチも先に帰っていたりして、人も少ない。

 私は特別指導を言われた日、別の女性コーチで、まだ残っていた長久保さんに話しかけた。

「長瀬コーチにキックが弱いということで特別指導を言われたんですが……」

すみさんに特別指導?」

「はい」住というのは私の名字である。下の名前は多鶴たづる。名前もかわいい。住多鶴はちょっとゴツいので芸名は住たづると決めている。

 ここで相談したのは、内緒で接触されたら、まず他の大人とも相談しなさいと言われているからだ。

「うーん」

「帰りの時間もあるので、とりあえず相談しますと返事をしたんですが……」

「そう。ちょっと待って。ご両親にはまだ相談しなくていいわ。指導そのものについてコーチたちで相談してからまたお話させていただくから」

「……はい。分かりました」

 長久保さんは特別指導について知らなかったのは確実だった。

 同じ強化コースの友達と家に帰った。学校の部活と違ってあまり方向が一緒の子が多くないのだけど。

 家ではすぐに親に特別指導の話をした。

「というわけで、指導そのものもまだないみたい」

「そうか。頑張ってるな」

「うん」

 というやりとりだった。

 しかし両親の反応にも違和感があった。これもちょっとあとで分かるけど、かわいい娘にこういう個別指導の接触をしてくる大人というのはこれまでもたくさんあったらしい。この話はセクハラの話ではないのだけど、どこにどんな欲望があるかは予想できないので、親にとっては大変な話だ。

 このコーチが性的な目的で私に特別指導を申し出たのではという疑惑はすぐに解けた。らしい。私のいないところでの話だけど。

 数日が経過してから、メインのコーチである長瀬さん以外に、長久保さんと平井さんという2人が立ち会うということで水泳教室から特別指導の申し出があった。

 この話は水泳教室の代表というおじさんが我が家に訪問してきて、私も同席の上ですごく重苦しい雰囲気の中で行われた。

 さらにそのおじさんは、「まだ娘さんは若いので、過剰なトレーニングをするのが最善とも限りません。もっとゆっくり育てて金メダルを取った選手も海外ではたくさんいる。小さな子供のうちから詰め込むことがよいこととは私には思えません」と言った。

 父は母と目配せしてから言った。「先生はこの練習に反対なんですか?」

「いえ、これがコーチ陣から出た答えです。この練習は娘さんの強化には欠かせないでしょう」

「しかし、今の話だと、練習はやってもいいしやらなくてもいいという話にしか聞こえませんが?」

「それで合ってます。正しく理解されていると思いますよ」

「やってもやらなくてもいいという練習が世の中にありますか? それは、やっていいのかやらなくていいのか、コーチの皆さんにも分かっていない、というように聞こえますが。いや、失礼。責めているわけではないんです。お話を聞いていると、ではお願いしますともお断りしますとも言いにくい。掴み所がないものですから」

「やった方がいいものです」おじさんは力をこめて言った。「ただ、やったからといって金メダルが取れるわけでもないし、やらなかったからといって金メダルが取れないわけでもない。そういうものです」

 私の両親はかなり冷静だった。普通は娘の金メダルの話をちらつかせたら正常な判断はできない。できるわけがない。幸いだったのは、私がとっても優秀で、スーパーアイドルになれるし、東大にも入れる——言ってなかったけど私は頭もいい——と、この手の賭けをもちかけてくる人がこれが最初ではなかったことだ。

「なるほど。分かりました。娘とも相談して決めたいと思いますので、この場での返事は保留とさせてください」

「かしこまりました。よろしくお願いいたします」

 おじさんは帰っていった。

「2人でちょっと話し合うから多鶴はお風呂に入ってなさい」

「うーん。私もその話に参加しちゃ駄目?」

 父は笑った。「3人で話合うのはそのあとでね。多鶴の前でお父さんとお母さんが喧嘩しちゃうかもしれないから」

 母も笑った。

 というわけで両親の話し合いは私がシャワーを浴びている間に行われ、それから3人での会議が始まった。

 難しい話にはならなかった。結論は当然、やれる限り練習頑張る。大会で一位を獲って獲って獲りまくる、という話になった。

 父と母は、なんとなくだけどコーチにしても訪問してきた代表の人にしても、なんか好きではない感じだった。嫌いというか警戒しているというか、別の教室の方がいいと思っている感じ。だけど、私にその悪口を言ってくるようなことはしなかった。水泳教室についての結論は置いておいて、結局、私のやる気次第という感じだった。

 とりあえず水泳は好きだしね。やる気とか言われるとやる気なくなるけど。まあいあっちょうやりますか。

 父はよろしくお願いしますと教室に伝えた。電話で話すところを私も見ていたけど、私や母に対する感じと違って、ちょっと情けない感じだった。私は不満だった。うちの優秀な娘をちゃんと育てろよという感じじゃなくて、教室の力でどうか形になるようご指導よろしくお願いしますという感じ。

 そうじゃないじゃん。

 もっとがつんと言わないと教室のコーチたちが勘違いして調子に乗るじゃん。

 こんなんで大丈夫かなと思いながら私は強化コースの特別指導を受けることになった。

 もちろん、いまは分かってるけどね。親が偉そうに言ったら教室のコーチもいい気分にならないし、そういう八つ当たりが生徒である私に向くこともある。こういうときは社交辞令で、うちの娘をよろしくお願いします、オリンピック選手にしてください、と下手に出るのが普通なので、本当にペコペコしているわけではない。この社交辞令に勘違いした教室のコーチたちが、うちに逆らったら子供がどうなってもしらんぞ、オリンピック選手にはなれないぞと高圧的に出るのも、友達から聞いたあるある話だ。私は幸運な方だった。私への悪意はなかった。

 私の周りで起こった問題はそれとはちょっと違う話だった。

 強化コースに加えて特別指導をして一週間もしないうちに——3000とか5000とか泳ぐようになっていた——フォームについて長久保さんから指導されるようになった。ビデオを見ながらの丁寧なコーチで分かりやすい。手の動きについての本格的な指導だった。コーチとは別の話だった。両立ができない話ではないけど、フォームの見直しとキックの見直しは、なんだかどうかと思ったので、コーチに、長久保さんからフォームについての指導がありましたがキックとはどう両立させたらいいですか?と聞いた。

「フォームは綺麗だ。基本はよくできてる。最初から私が指導していたからね。長久保さんは何を言っているんだろう」

 あ、やばい。と私は思ったけど、「分かりました」とだけ返事をしてその日は帰った。

 次の練習は1日空けた翌々日だった。

「この前のフォームの話だけど、よくできているので変える必要はないということになった。すまないね。混乱させてしまって」

「いえ、分かりました。よろしくお願いします」

 ちらっと長久保さんを見ると、あまり納得はしていない様子だった。むしろ自分は納得していないということを顔で訴えていた。

 泳ぎ終えると平井さんが声をかけてきた。「着替えが終わったら外で食事について説明があるから残ってくれないか?」

「分かりました」

 着替えてから声をかけると、本をもらった。

「詳しい内容はここに書いてあるけど、強くなるためには基本的な食事が必要になるからね。もしかしたら住さんは好きなものがあまり食べられなくなるかもしれない」

「食べちゃいけないものってあるんですか?」

「まあ、お菓子はあまりね」

 あからさまに顔に出た。

「ははは。食べちゃ駄目ってことはないよ。これだけ動いてれば太ることはないさ。むしろ痩せないようにたくさん食べて大丈夫」

「本当ですか?」

「もちろん」

「ああ、よかった」

「何の話をしているんだ?」

 コーチの声だった。びくっとした。ちょっと怒っている。

 私は貰った本をバッグの中に入れた。

「何を隠した?」

「長瀬さん、食事の冊子ですよ」平井さんは笑顔だった。

 うんうんと私も頷いた。焼き餅を焼くコーチもかわいい。

「コーチは俺だぞ」

「コーチは長瀬さんですよ」

「……」コーチは何かすごい顔で平井さんを睨んだ。普段のコーチからは見たことのない顔だ。

 私はちょっとぞくぞくした。平井さんの後ろに隠れるようにした。

 平井さんは言った。「どうしたんですか? 栄養指導は私の担当じゃないですか」

「ん、ああ、いや……」コーチは反省したように静かになった。「ちょっと楽しそうに話してたのが気になってな」

「あははは。かわいいこと言わないでくださいよ」平井さんはそう言ってそこは収まった。

 長久保さんが話しかけてきた。「住さん」

「はい?」

 長久保さんも納得してない顔で、「再来週の記録会には出て欲しいのだけど。服部さんからの提案です」と言った。

 服部というのが水泳教室の代表で、私の家に説明に来たおじさんというのはあとで知った。

 コーチが長久保さんに言った。「どういうことだ?」

「分かりませんが……」長久保さんは私をちらりと見て、むしろ聞かせてやれという意地悪そうな感じで言った。「服部さんがそこで住さんを自慢したいらしいんです。実力を見せてやれ、と。本当にそう言ったわけではないですが」

「新井君が出るんだな」コーチは私の顔を見た。「で、多鶴ちゃんをぶつけたい、と」

 長久保さんは黙って頷いた。

「いいですよ。誰だか分かりませんが、私の実力を見せてやりますよ」私は言った。

 コーチと平井さんは笑った。長久保さんも冗談そのものには笑っていたけど、複雑な表情だった。コーチと目を合わせると何か通じていた。何が通じているのかは分からなかったけど、この2人が付き合っているということではなさそうだった。

「いや、出なくていい」コーチは言った。「服部さんには私から伝えておく」

「いいんですか?」長久保さんは言った。

「いいんだ」

「分かりました」

「というわけで多鶴ちゃん、記録会は無しだ。実力を見せる機会がなくなってすまないね」

「まあいいですよ。そのかわり何か埋め合わせしてください」

「そこの自販機でプロテインをおごってあげよう」

「えー」私はかわいい声で言った。


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