母
お手紙ありがとうございます。
その節は息子が大変お世話になったそうで、本当に感謝しております。
故郷の近辺を巡っておりましたときは「宿代がもったいない」という呆れた理由で友人を引き連れて戻ってきていた息子ですが、今では随分と遠方にまで旅をしているようでなかなか顔を見る機会もなく、いただいたお手紙でやっと近況を知った次第で母心に安堵いたしました。
それにしても、まさかほとんど大陸の端にあたるそちらまで出向いていたなんて驚きです。しかも船に乗って現れたとのこと。息子は乗り物酔いの激しい性質ですから、何かご迷惑をかけてはいないか心配しましたが、どうやらご迷惑どころか何某か良いことをしたとのことで、胸を撫で下ろしております。
これも賢者さんや魔法使いさんといった同行のお友達の助けがあっての賜物だと思いますが、人に感謝されることを我が息子が行っていたのだ、というのはなんとも感無量です。
父親を早くに亡くし、女手ひとつで育ててきた息子ですから、正直育て方に迷った時期もありました。
他の子供さんより小さければ「私の母乳に問題があるのかしら?」
泣き止まなければ「何か大病を患っているのでは?」
成長し、少しでも乱暴な物言いがあると「やはり父親がいないからかしら?」
周りと比較しては何度も悩み、泣き暮れてしまう日もありました。
息子が泣いている理由がわからず、私も共に泣いてしまったあの夕暮れ……あの日から考えると、今手元にはいないとは言え、体丈夫に外を駆け巡り、人様のお役に少しでも立っているのなら、こんなに嬉しいことはありません。
あの子を人様に恥ずかしくない立派な息子に育てることができたのだ、と改めて感じさせていただきました。
子供を送り出す、というのは辛いものです。
いつかは乳離れしないといけないものだし、私自身も子離れをしなければ息子の足かせになってしまう。そう思い極力旅立ちの時は不安を表に見せず、笑顔を心がけました。それでも、息子のいなくなった家の妙な広さや静かさを感じると、今どこにいるのかしらとか、何かに困っていないかしらとか、つい息子のことが頭に浮かんでしまいます。
きっと娘だったとしても「いつかは嫁ぐものだし」と、忍の一文字を胸に刻んで送り出すのが親なのでしょうが、手塩にかけた子供が世界へ羽ばたいていく後姿というのは、眩しくも悲しいものです。胸の掻痒感をひた隠しにし、こちらから連絡をするのは憚られるし鬱陶しがられるからと、ただただ子供からの連絡を待つ日々。連絡があったり顔を見せても無愛想だったり憎まれ口をたたいたり……もちろんそれでいいのです。元気でありさえすれば、生きてさえいれば(何度か教会で蘇生をしたことがあるようですが)母親としては満足なのです。
それでもやはり、待つ、というのは忍耐力がいります。
子供をいかに信頼するか。
待つというのは、それを試されているのだろうなと思います。
手元にいる時は「子供は純粋なのだから」と無闇に口を出して大人の枠に嵌めないことと、「教える者がいなくては正しい方向には行かない」と導きたい思いの相反する2つが頭の中で行ったり来たりして常々迷いました。どちらも大切ではありますが、後者は安易な道。なるべく自分で気づきが訪れるようにと忍耐して口出しを控えておりましたが、今、息子と遠く離れた状況になると、がむしゃらに何かをしてやりたい気持ちが大きくなっています。過去にまで遡って、こうなるのであればあれをしてやればよかった、これを教えておけばよかったなどと埒もないことを思ったり。完全な親馬鹿ですね。
「今、この瞬間子供が幸せであったらいい」しかし「今のままで、将来は本当に大丈夫かしら?」という心の葛藤はどの親御さんにも必ず経験のある永遠の命題だと思います。
そちらさまも、子育てに悩んで私に手紙をくださったようですが、勇者の母とはいえ私も決して完璧な母などではないのですよ。
もしかしたら失望なさるかもしれませんが、私も息子も、たまたま勇者でありその母であっただけで、何か特別な教育論や子育て方法を持っているわけではないのです。
実物をご覧いただいてわかるとおり、息子も聖人君子のわけではなく、幼い時には何度も嘘をついたり反抗したりということがありました。それに対して、私も必要以上に叱りつけてしまったり手をあげることも。
しかし、私が一つだけ心がけていることがあるとすれば「息子を信じること」です。
文字にしてみると、なんだかありきたりですね。とても空々しくて、当たり前な言葉なので少し赤面してしまいました。息子が留守でよかったです。
信じる、と言っても「妄信」ではありません。子供のすべてを肯定するというのではなく、その人格を認めることが私の言う「信じる」ということです。
成長の過程で子供は間違った考えを正しいと思いこんだり、極端に変わった言動をすることがあります。うちの息子の場合は、フリチンになってオッパイと叫びながら駆けずり回るということがありました。度胆を抜かれました。
そういう時に全否定するのではなく「私だったらそうは思わずにこう思う」と伝え、考える時間を与えることが「認め」て「信じる」ことなのだと心得ています。まあその時はただただ首根っこを摑まえてかつてないほど叱りつけてしまいましたけれど。
子供の成長を待つのはじれったいものです。
心は目に見えませんから、果たして本当にこちらの意図がわかってもらえたのか。言葉足らずではなかったか。今何を感じ考えているのか。不安になるのが当然です。
それでも自分のすぐそばに、自分を信じてくれる、素晴らしい大人がいてくれたなら子供は自分で自分を正す方法を手に入れるのだと思います。だから大人側も、人に後ろ指を指されない人間でいなければならないと背筋を伸ばせるのです。
私は教育評論家でも権威でもなんでもありませんが、子育てとは「自分の思う通りの子供になる」ことを信じたり作り上げるのではありません。もしあなたが、手紙にお書きになったように自分の理想を子供に託したいと考えているのならば、それはあなたの目指す「理想の母親」とはほど遠いものだと断言できます。
子供に何度も裏切られても信じる者がそばにいれば、やがてはその子供は「信じる」ということを学んでいくと思うのです。しかし、身近な大人が何度も裏切ってしまえば、彼らは信じることができなくなってしまうでしょう。
厳しい物言いになってしまいますが、子供を勇者に育てることが本当に幸せなことだとは私は思いません。帰ってくると信じてはいますが、もっとも大事な者を戦いの最前線に向かわせる心持ちは他の母親には味あわせたくないものです。
理想を語るなと自分で言いながらつい考えてしまうのですが、ごく平凡な家庭……それこそが私の理想の親子像なのです。