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神官

 教会の鐘が鳴る。


 いつの間にか空は暮れかかっていた。時間を忘れて祈りを捧げるなんて、聖職者として恥ずかしいが久しぶりのことだ。

 風の便りに勇者たちが魔王の城に到着したと聞いた。彼らに少しでも神のご加護があるように、私には祈ることしかできない。


 勇者とはいえ、まだほんの少年でしかない彼に初めて会ったとき彼は死んでいた。

 仲間たちが担いできた棺桶の蓋を開け、私は噂に聞く勇者がこれほどまでに幼く、またか弱いものなのかと知って愕然としたものだ。

 しかも酷いことに、私は手負いの彼の仲間たちからなけなしの金を強制的にぶんどって甦りの術を執り行ったのだ。


 私は悩んだ。世界を救おうとしている勇者を蘇生するのに金をとってよいものかどうか。

 しかしそんな私の悩みを見透かすように、前日に教会本部から送られてきた「祈祷の金額は絶対」という通知が頭を掠めた。私は泣く泣く彼らの財布をこじ開けたのだ。


 今、一人じっくりと彼らへ祈りを捧げているのも、あの時の懺悔に近い行為なのかもしれない。

 そもそも、私たち聖職者のみが行える祈祷による奇跡は聖職者の私自身にとっても謎だ。

 なぜ奇跡が起きるのか、その仕組みを知らずにそれを執り行っているというのは無責任なことである。

 神の力を解き明かすことは我ら人の子にはできないことなのだろうが、それにしてもそれが本当に「神」の力なのかすら本当のところわかっていないというのは、実に居心地が悪い。

 もちろん人を助ける力である以上、私はそれが神によるものだと信じている。信じていなければ奇跡を起こすことはできないのだから、今日も毒に侵された村人を回復させた私の信仰は確かと言ってよいだろう。


 ……それでも、ふとしたときにいろいろと考えてしまう。神の力で生き返った人は、果たして本当に死ぬ前と同じ人物なのだろうか? 死んだ後の記憶はあるのか? 死後の世界というのはいったいどんなものなのか? 死を迎えた人間をもう一度呼び戻すことは、自然に反するのではないか? そもそも「死」とは一体なんなのだ?


 さまざまな疑問がない混ぜになって、幾度か私の信仰を危機に貶めたことがある。そのたびごとに私は経典を読み、唱え、自らが発現させられる奇跡を拠り所に信仰を取り戻――いや、正直に言うとただ思考を止めたのだ。神を疑い、信じられなくなる前に、それ以上考えることをやめただけだ。


 それでも押さえ切れない欲求に、何度か蘇生した人に質問をしたことはある。


「あなたは本当に同じあなたなのか?」


 すると、彼らはその人の家族のことや個人でしか知りえないことを語り、確かに生前と同じ人物であると確信させてくれた。私は大いに安堵した。


 しかし、それと同時に彼らは疑問の余地も残した。

 というのも、彼らの死んでいた間の記憶がそれぞれにばらばらで一致しないのだ。

 ある者は「記憶などない。夢を見ない睡眠のようなもの」と言い、ある者は「お花畑を天女と共にふわりふわりと飛んでいた」と言い、またある者は「上も下もない空間にポツンと座っていた」と言い、ある者は「昔亡くなった祖父がこっちだよーと川の向こうから手招きした」とか。


 我らが経典では死後の世界について語られている個所がある。曰く、善人には光に満たされたすばらしい天国が待っており、悪人は永遠の苦しみを負わされる地獄に引き込まれるのだと。

 臨死体験をした者それぞれが違うイメージを語る死後の世界は、果たしてこの経典に適っていると言えるのだろうか。先に死んだ身内が川向こうで呼んだりするところが、欠けるもののないすばらしい天国だとも恐ろしい地獄の責め苦のひとつだとも思えないのだが……果たして本当に教会の教えのような死後の世界というのはあるのか。


 私の心に夏の夕立前のように暗雲がもくもくと立ち込め始める。

 慌てて私は、経典に書かれている文言を思い出し、教義による救いを求める。教えによると、教えによると……と、それを拠り所にしていてはいつまでもこの疑問のループから逃れることはできない。経典を読み込んだって、最後に行き着くのはいつも「疑うな、神を信じろ」ということだけだ。


 ゴクリ、と無意識に私の喉が鳴る。


 そうだ――そう、今日は思い切って少しだけ教義から離れて考えてみることにしよう――神は我々をいろんなことを考えられる自由な存在として創ったのだから、自由な発想をすることもお許しになるはずだ。私は決して禁忌を犯しているのではない。

 経典に書かれた死後の世界がもし……もし嘘であったのなら、いったい死んだ後には何が待っているのだろうか。


 生まれ変わり? 肉体と共に心も消滅した完全な無の世界? 魂が自由に飛び回る? 生体エネルギーが別のエネルギーに変換される?

 他宗教や学者たちもそれぞれ死後の世界について勝手なことを言っている。それでもさまざまな立場からあの手この手で説明をしようとするのは、それだけ人が死を恐れ、死の先にある世界を知りたいと思っているからなのだろう。

 徴兵や租税を逃れることはできても、生まれた以上、死から逃れることはできない。

 しかし、死後の世界を知っている者は死んだ者しかいないのだ。


 蘇生した者が語っても、それはあくまで生きている状態での発言なのだから、夢と同じで妄想なのかそうでないのかすら証明できない。すると、死後の世界は「現在進行形で死んでいる者にのみわかる」ということになる。


 ならば、経典に死後の世界を記述した人はなぜそれを書くことができたのか。

 死んでいたのか?――まさか。死んだ状態のまま文字を書くことなどできまい。それができたのならそれは死体ではない。ゾンビだ。経典を書いた聖人がゾンビだなんて、なんだか気持ち悪いから認めたくない。第一、脳も死んでいる状態で文章を構成し、書き出すことは不可能である。それに書いている最中に紙に手の腐肉が擦れて汚れたりペンが滑ったりして書きにくかろう。


 死んだまま書いたのでないのなら、なぜ死なずに死後が知りえたのか?

 人間を超越した力によって知ったのか? ――いや、そんな人知を超えた力を肯定としてしまうと、どんな主張も否定できなくなってしまう。せっかく神の存在自体も前提としない自由な考えに挑戦しているのだから、そんな野暮な枠は取り払って考えよう。


 生きている、超人ではない存在……我々と変わらない生身の人間が書いたのならば、では――なぜ知りえるはずのないことを知っていたのか? いや、知らなかったのか。なのに書いた?


 ――嘘を書いたのか?


 ……もしそうだとしたら、なぜ嘘を書く必要があったのだろうか。

 いやいや、その前に経典とはいったい何なのだ?

 経典は教義の礎が収められた古い本だ。原本は厳重に教会本部で保管され、複写と専門家による解説によって内容は私たちに広く浸透している。つまり、厳密に私たちは経典そのものを読んだとは言えない。

 目にしているのは複写であるうえに、意味の測り兼ねる部分に関しては、解説に頼っている。その解説は、解説を記した人物の思考回路をぐるりと通って出てきた意訳であるのに、果たしてそれを信じていいのだろうか。


 「おこと教室」を「おとこ教室」、「ウコン」を「ウンコ」と間違えるように、何か勘違いや解釈違い、書き間違いを起こしていないとも限らないではないか。原本、複写、解説、どの段階においても、もしかしたらまったく反対の意味に捉えてしまっていたり、誰かが都合よく解釈したり書き換えたり編集した個所がないとは言い切れないだろう。


 第一、経典を書いた人っていうのは誰なんだ。神自身が記したのではなく、神の声を聞き取った聖人が書いたということだが、疑り出せばそんな怪しい人物の書いたものを信じていいのかはなはだ心もとなくなる。

 昔、近所に「わしはなんでも知っているぞ。城の構造だって、アイドルの私生活だって、なんでも透視できるのだ」と言い張るわりに夜道で土手から川に転げ落ちて膝の皿を割った占いばあさんや「俺は実は王様の隠し子なのだ」と吹聴し近隣の子供を家来にして駆けずり回っている無職の青年がいたが、聖人が彼らのような痛々し……気の毒な人間だった可能性だってあるわけだ。

 信じ込んでいる人間には一種の神々しさが表れる。突飛なことを言い出す先駆者であれば、その空気に人が飲まれてしまうこともあるかもしれない。


 注目されたかったから出鱈目を書いた可能性はないだろうか? 確かに「生前の行いで行き先が振り分けられる」という死後の世界の存在は、経典が書かれた当時なら、非常にセンセーショナルで人々の関心を引き付けたであろう。

 しかし、ただ周囲を驚かせるためだけの法螺話だったのなら、なぜこれほどまでに信じられ、語り継がれ、驚くほど多くの人に信仰されてきたのか。

 死後の世界を描き、天国や地獄の描写で人々を畏怖させたのにはいったいどのような意味があったのか。何か意味があり、重要なメッセージがこめられていたからこそ、長く読まれ、伝わったのではないだろうか。


 私はふと顔を上げた。

 教会の窓から差し込む西日が暖かいオレンジ色で私を包んでいる。

 急速に、私の中にある情景が結ばれた。

 それはある老女の蘇生を村落の者たちが総出で依頼しに来た時のものだ。

 老女はその集落でも有名な慈悲深い人物で、家族ばかりでなく、彼女を知るすべての人がその死を悼んでいた。

 そんな善人であっても、「死」は平等にやってくる。

 たいていの場合は早すぎる死に対し我々が奇跡を起こして、多少寿命を延ばすことができるのだが、いかんせん老いに蝕まれた体は神の力も及ぶことはない。年に何度か老人の遺体が持ち込まれ、術を施しても奇跡が起こらないということがあるが、この時もまさにそうであった。そういうときのやるせなさと言ったらない。自分の信心が揺らいでしまったのだろうかと動揺するうえ、なによりご家族の期待を裏切ってしまったという申し訳なさで顔も上げられない。だが、聖職者の私が狼狽え、嘆くことなど許されない。

 その時は、私は老女を囲む彼らにこう言った。


「蘇生ができなかったということは、この方は無事に天国に行かれたということですね」


 極力平静を装った、ただの決まり文句だった。

 しかし――老女の遺体を囲んだ者たちはとたんに悲しいながらもひどく安堵した、ほっとした表情を見せたのだ。


 天国があるかどうか。それは生きている者には決して確認も証明もできない事柄である。

 だが、この「死後に生前の行いを公正に平等に判定され善悪の割り振りをされる」という教えによって、人は「死」という人生最大の未知のものから解放されるのだ。見知らぬ道を歩まされるのではなく、約束の場所へ向かうのだという思いは死を迎える者、見送る者に安らぎと救いを与える力がある。


 死後の世界を不安に思わない強い心を持った人には、このおとぎ話はまったくいらぬお世話であろう。だが、世の中はそれほど強い人間が多いわけではない。

 それに、善悪の審判がいつかあるのだという教えは、うまくいかないことや理不尽の多い現世の不公平感も薄める役割を果たしている。その時に備えて、人は慎ましく、真面目たらんと自己規制を働かせるのだから。

 それがたとえ神様に見てもらうための、天国への切符のための親切であっても、優しさは優しさを呼び、人の生き様をより愛情に溢れたものにする規範となっているのではないか。

 もしこれが死後の世界の記述の本当の意味ならば、なんと巧妙な教えだろう!


 信仰というものは誰もが自分が正しいと思い、言い訳も持っている。長年の中で、その言い訳が窮屈な理屈やしきたりを生み出し、形骸化し、本意が見えないほど不自由になっているのは残念だが、見返りを求めずに愛情を与え続ける限りにおいては、経典にも教会にも私にも、役割はまだ残されているのかもしれない。


 残照がついに窓から撤退をはじめ、教会の内部が色を失い闇を濃くしていく中で、不意に扉が大きく開かれた。


 どうしました? おや、蘇生かね。何だか見覚えのある……おお勇者よ、またですか。


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