けつばん
『けつばん』はこの揺らぎなき現代社会が生み出した唯一奇跡的なバグだ。
あらゆる人間の悪意、間違いが重なり、形を成してしまった。
そしてそれはあろうことか己を省みて、ごく偏った正義へと昇華させたのだ。
純粋な悪でありながら、或る時偶然にも純粋な良心に触れてしまったのだろうか。
己を否定するように、『けつばん』は悪の前に現れては微塵の容赦もなく正義を示す。
つまりは悪を蹂躙するのである。
悪。
『けつばん』を形成するもの。
罪に問われる行為。
もしくは人が悪だと思えば、それは『けつばん』としての、また奴の正義執行の糧となる。
多様なボーダーラインを超えたあらゆる負の感情たちが、奴を『けつばん』たらしめるのだ。
しかし、果たして『けつばん』とは一体なんなのか。
それは誰にも分からない。
なぜなら『けつばん』を見た者はどうしようもない悪なのであり、死という未来から先は有り得ないからだ。
『鈍器で複数回殴られた跡。』
それだけが『けつばん』の存在した、たった一つの証拠となる。
いや、死なのだ。
悪の死を、奴は確信犯的に残していく。
そうして奴は、世間に己の信念を示しているのだと思う。
毛むくじゃらの獣。
全身真っ黒な翼の生えた悪魔。
プラズマ。
ネットでは様々な憶測が飛び交うが、そんなことはどうでもいい。
僕は『けつばん』を許さない。
死すべき悪とは、『けつばん』こそそうであるべきなのだ。
僕は許さない。
なぜ奴は最悪である己を殺さないのか。
なぜ己を殺さず――。
◆
「男性は全身を複数回殴られ――」
東京の大学へ進学した兄は三回生の春、何者かに惨殺された。
家からバイト先の途中にある高架下で、それは徹底的に、まるで竜巻の中に身を投げたかのように滅茶苦茶な状態で発見されたのだという。
兄は真面目な人間だった。
しかし大学へ進学すると、たまに電話を寄こしたかと思えばギャンブルでいくら勝ったとか、何人目の女と寝ただとか、そんな事ばかり話すようになった。
僕は兄が心配になった。
でも信じたかった。
兄はいつでも優しくて、しっかりしていて。
憧れだったから。
◆
「レイ君、頑張ってるかな」
兄と付き合っていたアヤさんは、時々そんなことを言っていた。
彼女は兄とは違って高校卒業後は地元に残り、小さな化粧品の会社に就職した。
職場は僕の家からそう離れていなかったからたまに顔を出していたのだが、いつもそんなふうに兄の心配ばかりするのだった。
「ちゃんとやってるみたいだよ」
僕は兄と電話で話したことを伏せた。
きっといつまでも兄を好きでいるアヤさんのことを、悲しませたくはなかった。
「そっか」
自社製品の暖色のリップで唇を染めた彼女が、柔らかい笑みを零した。
◆
「なぜ、レイ君なの」
アヤさんは車を運転している最中、ふと泣いた。
窓から射す橙色の光が、雫をきらめかせる。
僕は答えなかった。
代わりに外へ目を向けると、流れる風景の奥では夕暮れの太陽が海から少しだけ頭を出しているのが見えた。
悲しみとは違う。
むしろ失望というか、どこか噛み合わないような気持ちに、僕は迷っていた。
人が何かを失った時、海へ来るなんてのは実にナンセンスなことだ。
その何かと向き合い、乗り越えようとするならば、無に近ければ近いほど環境は適していると思うからだ。
悲しみなんて、大小さまざま、色も違えば温度も違う。
自らの最奥で、自らと対話するしかない。
だからアヤさんはここから何かを得ることなどない。
たくさんの命に溢れた海に、兄の死など存在しない。
緩やかなカーブが続く途中、道路の脇に車一台分の小さな空間を見つけ、アヤさんはそこに停車させた。
ちょうど陽が落ち、僕はとうとう耐えきれず彼女へ尋ねた。
「なんで僕を連れて来たの」
「レイ君の弟だから」
アヤさんは暗い海を眺めながら、なぜかまた涙を流した。
もやもやとした心の中に一つ、明確な感情が浮き上がる。
それはアヤさんの身勝手さのせいかもしれない。
「アヤさんは今でも兄ちゃんが好きなんだろ」
「……ええ」
潤んだ瞳が、この先なにがあっても僕を悪にするつもりでいた。
◆
『けつばん』は、人が生み出した悪魔だ。
あらゆる行いを、その責任を擦り付けられ、全ての負の感情を転嫁させる。
面白おかしく信者の振りをする者もいれば、まことに『けつばん』に救いを求める異常者もいる。
すべては『けつばん』のせいだとすることで安らぎを得ることが出来る人間が、この世にはいるのだ。
逆に悪を殺すことの悪も、『けつばん』に負わせようとする者もいる。
それを正義と、崇める者さえいるかもしれない。
まさにバグのように、奇跡のように、形を持たない悪魔は人々の中で育っていく。
自らの内に救いを見出せなかった人々は……。
◆
「兄ちゃんは『けつばん』に殺されたんだ。兄ちゃんは、こうなるべき人間だったんだ」
僕が言うと、アヤさんは弾かれたように振り向いた。
眉間に皺を寄せて、絞り出すように涙を落とす。
「……今、何を言ったの?」
「兄ちゃんは触れてはならない悪に触れた。だから『けつばん』に殺された」
「それは、だれの……?」
アヤさんはわけもわからず、ただそんなことを口にした。
「たくさんの悪に」
震えている。
怯えた彼女のために、僕はその華奢な肩を掴んだ。
「僕はレイの弟だ」
そうよ、と小さくかすれた声が、照りのある唇から聞こえた。
「それが、何?」
「アヤさんが僕を連れて来たんだ」
恐怖はアヤさんの表情を歪め、笑顔のようにした。
僕はそれをもっと壊して、新たな悦びに変えてやりたくなった。
◆
僕は車を降りて少し歩き、夜の、物寂しい風を受けた。
ここは崖になっているのだろうか。
暗闇では、自分がどのくらいの高さに立っているのかも分からない。
僕は目の前に広がっている筈の海と向き合った。
――『けつばん』を待っていた。
奴が僕という悪を殺しにやって来るのを。
鳴る風音に紛れ、やがて背後から土を踏む音がした。
僕は振り返る。
そこに立つ影。
杭を打ち込むのに使うような大きなハンマーを肩に担ぎ、片足に体重を乗せて気だるげに僕を見ている。
暗くてはっきりとは分からないが、それでも奴の視線を確かに感じる。
それに、ここには僕以外の誰もいない。
『けつばん』は、僕に会いに来た。
一台の車が通りがかり、一瞬だけ僕らを照らして走り去って行く。
その少しの間、ヘッドライトが『けつばん』の姿を暴き出した。
『けつばん』は、僕だった。
僕の前には僕がいて、憎らしくにやりと笑っていたのだ。
「お前のせいだぞ」
僕らは同時に口を開いた。
お前のせいだ。
お前を許さない。
奴もまた、同じことを思っただろう。
「お前が兄ちゃんを殺したから……」
今度は僕だけがそう言った。
代わりに奴は肩に担いだハンマーを互いの間に放り投げ、両手を広げて空を仰いだ。
「『けつばん』はお前だ」
僕は走り、ハンマーを拾い上げると、それを腰の高さに振りかぶった。
そして奴の胴めがけて――。
「『けつばん』は……お前だ」
狙いを外したか、それでも奴は大きくよろめいたあと膝を付き、荒い呼吸を繰り返す。
「『けつばん』はお前だ」
僕は立ち上がれずにいる奴の頭上に、ハンマーを掲げた。
『けつばん』はお前だ。
お前が兄を殺し、僕を悪にした。
全ての悪の根源、今からそれを打ち砕く。
僕は、正義となる。
奴がふっと笑う。
「そこで良い。そのまま、まっすぐ。力いっぱい……」
僕はお前を許さない。
だから、言われなくてもそうするさ。
◆
風が止み、水の音が微かに聞こえてきた。
崖から暗闇を覗き込み、その先で岩肌にぶつかり続ける波を想像する。
ふと、額にぬるりとした暖かさが伝うのを感じた。
『けつばん』はまだ生きている。
僕はさらに、崖から身を乗り出した。
奴を殺さなくてはならない。
読んで頂きありがとうございました。