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第1話 鼻毛が気になって進めない

 目の前に不審者がいた。

その不審者を不審者たらしめている要素はいくつかあった。

自分のことを女神と名乗っていることや、背中に羽根があること、頭上に謎の輪があることなどが挙げられる。

 しかし、それらの不審な要素を差し置いて、僕の注意は別の箇所に釘付けになっていた。不審者の鼻から上唇までかかろうかというところまで、一条の鼻毛がすっと伸びていたのである。

 不審者が何事かを語りかけてくる。そのたびに、伸びた鼻毛が頷くように揺れている。その鼻毛の動きは、まるで僕に何かを伝えようとしているように見える。

 実際のところ、僕に何かを伝えようとしているのは鼻毛ではなく、その所有者である不審者のほうなのだろう。常識に照らして考えれば至極当然なことなのだが、鼻毛は僕の注意を鷲掴みにして離さなかった。

 なぜこれほど不審者の鼻毛が気になるのか、僕は落ち着いて考えてみることにした。

 まず気になることといえばもちろん、鼻毛が不審者の鼻から出てしまっていることだ。普段収まっているはずのものが出ているのだから、気になって当然だ。さらに、特筆すべきはその長さ。出ている部分だけで2cm程度あるように見える。全長は3cmに届いていてもおかしくない。

 不審者の呼吸に合わせて揺れ動く一本の鼻毛を見ていると、僕はセンチメンタルな情感に誘われた。この鼻毛は孤高の鼻毛だ。数多ある鼻毛の中で他の追随を許さず、たった一本だけ飛び抜けている。そのことが強烈な印象となって僕の注意を引きつけた。

 しかしその刹那、天地が逆転するかのような衝撃を受けた。不審者の反対の鼻の穴から、もう一本鼻毛が飛び出したではないか。新たな鼻毛は自然にカールして、まるで一本目の鼻毛に寄り添うかのようだ。今、両の鼻の穴から伸びた鼻毛は鼻息にその身を揺らし、時折戯れるように触れ合っていた。

 鼻毛が二本出ているこの状況は、一本だけのときよりもさらに鮮烈に僕の心を揺さぶった。不審者の頭上にある輪も、背中の羽根も、今や鼻毛をさらに印象づけるための演出のように思われた。

 もはや鼻毛に全ての注意を奪われている。僕はこの状況を打破する方法を思案し、そして、思いついた。鼻毛が出ていることを指摘し、鼻に収めてもらうのである。

 至ってシンプルなこの考えには、一つ問題があった。僕とこの不審者は初対面なのである。初対面の相手に対して、いきなり鼻毛が出ていることを指摘するのは憚られた。

 しかし、もはやそんな悠長なことを言っている場合ではない。突然目の前に女神を名乗る不審者が現れたという状況にも関わらず、圧倒的な鼻毛の存在が何よりも優先されてしまっているのである。このままでは鼻毛が気になっていかなる事態も進展することができない。

 僕が「すみませんが、鼻毛が出てしまっていますよ」と切り出そうとしたそのときである。突如として僕の頭に声が響いてきた。

「鼻毛を抜け」

 僕は右手にチョキの形を作りアッパーをするように前方へ突き出していた。人差し指と中指が、飛び出していた不審者の鼻毛を収納させる。

 不審者の驚愕の表情を見て、僕は自らの恐ろしい行動に気がついた。

 慌てて手を引っ込めたが、そのときにさらなる悲劇が起こった。糸が切れるような軽い音とともに、僕から見て左側の鼻毛が抜け、僕の中指に付着してきたのである。

 出会って数秒と経たぬような人の鼻の穴にいきなり指を突っ込み、鼻毛を引き抜いてしまったのだ。

 不審者の長い鼻毛が片方だけになったことで、僕を支配していた鼻毛への意識は半減し、心に僅かばかりの余裕が生じた。その隙間に入り込んできたのは、自らの蛮行に対する後悔と謝罪の念である。本当に申し訳ないことをしてしまった。

「ごめんなさい」

 僕は謝罪の言葉を発するも、その言葉が不審者に届くことはなかった。

 不審者は忽然と姿を消していた。それどころか、眼前の景色全てが未知のものに様変わりしている。

 引き抜いてしまった不審者の鼻毛だけが、僕の右手で風を受けて揺らめいていた。

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