第1話 転生
女神は泣いていた。
同じく涙で滲んだ目をした男神に寄り添い、立っているのがやっとの様子であった。
辺りには薄い霧が立ち込め、生まれたばかりの大地を湿らせ、大地と海の境を有耶無耶にしていた。
悲しみに染まる瞳には葦の小舟が沖に流され薄い霧の中を段々と小さくなって行く様が映し出されていた。
女神は泣いていた。
土岐 武は白い杖で自分自身を導きながら歩いていた。脳内地図に刷り込まれた最寄り駅までの道のりである。駅構内にあるスーパーで買い物をするための外出であった。
土岐が失明してから5年の月日が経っていた。
駅前の交差点横断歩道前で信号待ちをしていると、
「おじさん、この白い杖はなぁーに?魔法の杖?」
4、5歳の女の子が土岐に話しかけてきた。
「ミコちゃん、失礼ですよ!どうもすみません。」
女の子の手を繋いでいた母親が申し訳なさそうな声色で言った。
「いいんですよ!
おじさんね、目が見えないからこの杖でおじさんの進む先を確かめながら歩いているんだよ。
杖が白いのは他の大人の人に、おじさんは目が見えないんだよって知ってもらうために白くなっているんだよ。
でもね、残念だけど、魔法は使えないんだよ。」
土岐は微笑みながら、女の子の声がした方を向いて答えた。
その時、歩行者用信号機が青になり電子音の鳥の鳴き声も聞こえて来た。
「わかったー!おじさん、ありがとう!」
「どうもー、失礼します。」
母娘は微笑みながら、見えていないであろう土岐に手を振り、横断歩道を渡り始めた。 土岐も少し遅れて渡り始めた。
2車線道路の横断歩道の半ばにかかった時、土岐は異様な気配を右方向に感じた。
5年ぶりに感じる身の危険を知らせる気配である。
土岐は視覚以外の全感覚を研ぎ澄ませ、状況把握に努めた。
(右方向から脅威、車か?しかし、車用の信号は赤のはず、逆走車か?あの母娘は?危ない位置に進みつつある?)
「守りたい!」
一瞬の間に土岐は状況把握と判断をした。 白い杖を放り出し、前方に感じる母娘の気配に向かって走り、伸ばした両手で探るように母娘の襟首を掴んで脅威の気配の範囲外へと放り投げた。
その一連の動きには躊躇がなく、よく訓練された精強な兵士の動きであった。
しかし、脅威の気配は実体化し、土岐に襲いかかった。
辺りに衝撃音と悲鳴が鳴り響き喧騒となった。
老人が運転する輸入車らしい大きめのSUVが反対車線を猛スピードで逆走し土岐を跳ね飛ばし、信号待ちで停車中の車の列に突っ込んで停まっていた。
土岐は全身に強い衝撃を受け上方へ跳ね飛ばされた後アスファルトの道に叩きつけられてピクリともせず倒れていた。土岐の頭部から大量の血が流れ出て辺りを赤く染めていた。
「大丈夫か!」
近くにいた中年男性が土岐に駆け寄った。
先程の母娘も土岐に放り投げられた所に転んでいたが、ヨロヨロと立ち上がり土岐に近づいた。
「おじさん、たくさん血が出てるよ。」
「た、助かりました。アッ、あ、ありがとうございます………。誰か誰か救急車を………。」
人集りができ騒然としていた。
土岐はまるで死体の様に動けなかったが、意識はあった。
(あの母娘の声がしたな、無事だったか!守ることができた………。)
土岐の頭の中で昔の記憶が次々と蘇ってきた。
何不自由なく裕福な家庭で育った幼年期のこと。
突然の両親の死。
親戚に寄ってたかってむしり取られた両親の莫大な財産………。幼い俺に力があれば守れたのに!
施設での妹との生活。
自分の力不足で幼い妹を守りきれず原因不明の病気にかかり、未だに意識不明の入院状態にさせてしまったこと………。俺に力があれば、財力があれば、守れたのに!
力を求めて知識と身体能力を鍛えた中学生時代。
施設を出るために入校した陸上自衛隊の少年工科学校。
卒業後、部隊に配属されレンジャーを希望し、レンジャー課程に入れたこと。
空挺団を経て、中央即応集団特殊作戦群のエースと呼ばれるようにまでになったこと。
任務中に部下を守りきれず殉職させてしまい自分は失明したこと………。俺の力及ばず部下には申し訳ない!力があれば、力があれば、守れたのに!
一般的な生活が出来るまで面倒をみてくれた陸上自衛隊のこと。
淡々と過ごした視覚障がい者としての生活のこと。
守れなかった人達、守る力を求め続けた半生、土岐の意識は守るということに固執しているようであった。
(40年生きて来てやっと最後に守りたいと思う人を守れたな。)
土岐は意識の中で笑い、それが最後の意識であった。土岐は本当の死体となった。
青い空と赤い大地が混ざる様にじゃれあっていた。
[来たね。1000年ぶりだね。]
[うん、来たね。遊んでくれるかなぁ?]
そこには高く大きな山があった。尾根は優しい曲線を描いて麓に届き、火口のある山頂付近にはまばらに雪を残していた。陽のまばゆい光を浴び美しく荘厳な山の姿を観せていた。
その麓の集落に新たな命の産声が響き渡った。
「うむ、生まれたか。」
そう呟いた鬼族の長であるシュテンは見つめていた川面から青空へと視線を移し、腰を下ろすのに手頃な河原の石から立ち上がり産声が響く方へ歩いて行った。
シュテンの家屋の敷地内には神を祀る本殿があった。本殿の裏にある産屋に近づくにつれてシュテンは心のざわめきが大きくなるのを感じていた。
赤子の産声で意識は覚醒した。
(ここは、どこだ?
赤ちゃんが泣いているけど、俺は………そう、土岐 武、相変わらず真っ暗だなぁ。
車に跳ね飛ばされて………、そうだ!死んだはず!なんダァ?どうなっている?
ハァ?泣いているの俺だ!)
土岐は何か布に包まれて誰かに優しく抱き上げられている自分を認識した。
「ハァ、ハァ、赤ちゃんは?」
「お、奥方様………、お元気な若様ですが………。」
「婆や、ハァ、ハァ、どうしたのです?」
「奥方様、若様には角がございません。そればかりでなく、両目ともに眼球がございません!」
「そんな、そんな、うっ、あぁぁー。」
母親は泣き叫んだ。
(言葉はわかるぞ!日本語かぁ?)
(若様?ツノ?角かぁ?眼球がない?)
「母子ともに無事か?」
産屋に入るなりシュテンは大きな声で尋ねた。
「あ、あなた!申し訳ありません。」
寝床にグッタリと横たわっているシュテンの妻が涙ながらに叫んだ。
(誰か来たな。何が申し訳ないんだ?)
「シュチ、何が申し訳ないのだ?元気な産声ではないか。そなたは、無事か?」
それ以上言葉が出ない母親シュチに代わり、赤子を白い布に包み込んで抱いている産婆が答えた。
「シュテン様、奥方様は無事でございます。しかし、若様が………。」
「元気な産声ではないか………。」
そう言いながらシュテンは赤子の顔を除き込んだ。
「角がない!」
「角だけではありません。両目ともに眼球がございません。」
「角が無く、眼球も無い?………。」
シュテンは可愛い顔をして泣いている赤子を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。
しばらくしてシュテンは頭の中で鬼族の掟の一つが渦を巻いて広がっているのを感じていた。
その掟とは、
五体満足に生まれて来なかった赤子は、ヒルコ様とアハシマ様の御加護にすがるため、葦の小舟に乗せて川に流す。
その子が生きて帰って来れば良し、そうでなければ諦める。
というものであった。
「ヒルコ様とアハシマ様の御加護にすがるしか無いな………。」
シュテンはやっとの思いでその言葉をひねり出した。
「うっ、うわぁぁぁー!」
母親の悲しい叫びが産屋ばかりでなく鬼族の里に響き渡った。
土岐の頭の中は混乱していた。
(情報の整理をしなければ!俺は赤ちゃん?角が無く、眼球も無い赤ちゃんなのか?なんで赤ちゃん?生まれ変わりか?)
土岐は自分の身体の感覚を確かめた。
(手、足、首、腹、胸………あるなぁ!)
(頭は………手が思うように動かないなぁ。身体の全ての関節がグラグラとして覚束ない感じだ!)
土岐は一つの推論に至った。
(俺は角があるのが当たり前の種族に生まれ変わったのだ。しかも、角が無く眼球も無いというハンデ有りで!40歳の盲目のオヤジがやはり盲目の赤ちゃんに!
………。
………。
………。
まぁ、いっか!)
土岐は自分の性格が明るくポジティブなものになっているのを感じていた。心が軽やかに感じられた。
(なんか、性格も変わったのかなぁ?)
(いつもならイジイジと考えたり、兵士らしく分析し計画し実行し評価して………、そんな素振りを表面には出さないようにしていたのに………。つまりムッツリの根暗だったけなぁ。
言葉もわかるしなぁ……、成るように成るだろう、眠くなってきたなぁ………。)
いつのまにか産声は消えて赤子はスヤスヤと眠りについていた。ただ、母親の悲痛な泣き声は、
しばらく鬼の里に響いていた。
女鬼シュチは泣いていた。
同じく涙で滲んだ目をした鬼族の長シュテンに寄り添い、立っているのがやっとの様子であった。
辺りは日出前の薄明りに包まれていた。
悲しみに染まる瞳には葦の小舟が大きな川に流され薄明りの中を段々と小さくなって行く様が映し出されていた。
女鬼シュチは泣いていた。