一巡目 カ行 介意、気ぜわしい、口さがない、桀紂、狡兎死して走狗烹らる
朝から庭で、稽古着を着た女が、薙刀を振るっていた。
薙刀は重りをつけており、大の男でも振り回すのが難しい物であった。
それを女は一心不乱に振り回す。
「苔様、もうそろそろ」
「ええ、わかったわ、菊」
菊と呼ばれた老婆が女の為に手ぬぐいを持ってきた。
「湯あみの準備も出来ていますので」
「いつも、ありがとうなあ。菊」
苔はいつもの微笑を向けた。
カ行の一族は時間をかけて、耐える事を信条としていた。
その事もあり、カ行の城は最後までワ行の攻撃に抵抗していた。
他の八国が敗北したと聞いても、その八国の兵士が攻めてきても堅城たるカ行は落ちなかった。
道を絶たれても、食を絶たれても、水を絶たれても、なお諦めなどしなかった。
カ行の一族がここまで戦えたのも、耐え抜いて来たのも、ここに至るまでの犠牲者への弔いの為。
我らが死んだ家族に、兄弟たちに、どうして顔向けできようか。それがカ行の信条。
苔の夫は五年前に、ア行の者によって殺された。
戦争中には生みたくないと子供は作らなかったのが、苔の後悔だった。
四年前に、苔が可愛がっていた弟がア行の者によって殺された。
当時、十二歳の弟は大きくなったら姉様を助けると、苔にいつも元気に言っていた。
三年前に、苔が死ぬまで戦うと一緒に誓ったはずの両親がワ行に降参し、その首を晒された。
苔がかつて両親に命尽きるまで戦うと告げた時、寂しそうな表情をしていた。
両親が処刑されても苔は涙など出なかった。
ア行の者達と共に暮らすよう命じられ、腸が煮えくり返るような思いだった、しかし例え一人になっても苔はそれが言葉として出なかった。
ア行の当主は、苔のかつての弟と同じ年齢だった。苔は殺してやりたかったが、行動に移る事は無かった。
苔はこの三年間。ア行の頭領の青を、言葉でいじり倒した。
憎悪を隠す為だと、殺意を隠す為だと、苔は自身でそう考えていた。
女は最近、本当にそうかと悩み始めた。
介意など無いと、自分は昔から変わらないと、苔はいつもの微笑を浮かべた。
苔は朝、湯あみを終えて着物に着替えた後、気づいたら廊下を何かを探すように歩いていた。
目当てに会えたので、苔はいつも通りからかった。
青本人は隠し通せたつもりだろうが、苔からしたら丸わかりだった。
(おそらく、お付きの忍びと話してたのでしょうね。出征先で他の土地の人と話していたから、外交でもするつもりでしょう?)
苔からすれば、青は当主失格だった。気ぜわしい、その性格。すぐに口さがない、その愚かさ。
苔自身は自分が当主としてどうなのか、少し悩んだが、それは自身で決める事ではないと考えを捨てた。
狡兎死して走狗烹らる、それが常識。しかし、決してカ行の一族は、苔は見捨てるつもりはない。走狗に見捨てられる事はあっても、逆はあってはならない。
仲間達と共に耐える、それが苔の信条。
一人、自室に戻り、菊が入れたお茶を飲み、静かな部屋の中、苔は考える。
ワヲン王は苔から見れば暴君であった。桀紂は言い過ぎであるが、それでも自身の欲望の為にこの三年間、他の土地から奪い続けていた。
徴収は年々増している。いずれ全ての民が爆発する日が来るのを待つのが得策だと苔自身は考えていたが、他の頭領達はそう考えていない。
苔は考える。待つべきか、動くべきか。
(……だめだ)
苔は微笑しか、表情を浮かべられない。
(耐えるのが、いつか好機が来る日を待つのが良いと考えてしまう。でも違う、私は私がどう考えているのか、わからない)
苔はここ二年間、殺意も憎悪も心に浮かばなかった。
苔は動かない。そうではない、動きたくないのを信条を言い訳にしていた。
(動くべき、動かないとカ行が、私が王にはなれない)
実際、苔は裏で色々と動いていた。そうしないと本当に何もしなくなってしまうから。
(……青くん)
苔は敵を思い浮かべる。弟と同じ年齢、性格も見た目も正反対。本来なら憎悪と殺意が浮かぶべき相手だが、何の感情も浮かばない。
ゆえに苔は、その少年を言葉でいじっていた。自身を理解したいがために。
(私は彼が憎いのかしら、それとも別の感情があるのかしら?)
苔は一口、お茶を飲む。濃い味が好きな苔の為に、長時間、菊が煮込んだお茶だった。
(殺したらわかるかしら?)
「……本当、嫌やわあ」
お茶をちゃぶ台に置き、苔は微笑を浮かべた。
介意:気にかける事。
気ぜわしい:落ち着かない、せっかち。
口さがない:口うるさく、言いふらす事。
桀紂:中国の夏と殷の国のそれぞれ暴君の王だった桀王と紂王。暴君の例え。
狡兎死して走狗烹らる:兎がいなければ犬も食われる。優秀な兵士でも、国が滅びれば見捨てられる。