一巡目 ア行 行燈、刺青、右顧左眄、遠交近攻、横死
朝から、一人の少年が庭で木刀の素振りをしていた。
「297、298、299、300!」
上半身を裸に、汗にまみれて一息つく少年。
日課の練習を終えた後、木刀を井戸に立てかけ、桶の水を頭から被った。
噴き出す汗が、熱された肌が、水によって流される。
体に刻まれた花の刺青は、肌に生えて流れない。
「……さて、やるか」
十六歳の少年、ア行の当主、青は高ぶる気持ちを抑えていた。
中央の城への出征から帰った青は、動き出す事にした。
すでに動いている者もいるだろう、まだ内部のごたつきは晴れていないが、これ以上は待てない。
自室に戻り、畳張りの静かな部屋、火を消した行燈が隅にある。
青は一人正座し目を瞑る。
「愛」
「はっ」
背後に忍び装束で、顔を隠した少女が天井から畳に下りて来た。
「どうだ?」
「どこの地方も不穏ですね、これは数年内に動きがありそうです」
「だろうな」
ワヲンはそれぞれ、財力と、民衆を抑えるための武力を細かく報告するよう言っていた。
しかし馬鹿正直にそれを行う者などいなかった。
それでも不信な隣人から隠れて行うのは、どこもなかなかに難しかったのだが。
「ならばもはや立ち止まっていてもいかんな。俺たちも動く時が来たか」
着ている和服の隙間から、青色の花の刺青が見える。
青は中心人物を戦争で失い、さらに当主を継いだ者まで処刑され、気力を失ったア行の立て直しのために、とにかく求心力を欲した。
当時、十三歳だった青は左半身に刺青を彫り込んだ。
左肩から背中と腹、左腕に、左足までに至る。
これもまた当主として、舐められない為の手段だった。
「ワヲン、カ行、苔、立て直しのため屈辱を飲み込み、それらに右顧左眄する振りをし続けたが、俺のア行の一族はその三つにしか嫌悪はない。これからは遠交近攻。いつか敵になるかもしれない相手と友人になろうではないか」
「青様」
「すでに以前の出征で他六人と話をつけている。いずれ差しで話す日も……なんだ?」
顔は頭巾に隠れて見えないが、しかし青が幼少のころから、愛は守護として働き付き合いの長い相手であり、主従関係ではあるが、気安い関係でもあった。ゆえに青はなんとなく雰囲気は察せた。
「何か言いたい事があるのか、愛」
問われ、忍びは意を決して言う。
「青様、死なないでくださいよ」
「あ?」
「横死とかやめてくださいよ。あなたが死ねば、愛は……」
そこから黙り、部屋に沈黙が訪れた。遠くで鳥の鳴き声がする。
青は咳払いした。
「死なない為にも、密な情報収集を頼む。よろしくな、愛」
「はっ!」
愛は姿を消し、一人の少年だけが部屋に残った。
部屋を出て、青は廊下に出る。
(全く、どいつもこいつも)
先ほどの愛の様子に、青は辟易した。
(俺はもう十六だぞ? 大人だというのに、誰もかれも過保護になる。当主を大事にするのは当然だろうが、もう少し俺を信じてもいいだろうが、とくに年上の女は……)
青が考えながら歩いていると、向かいから着物の女性が姿を見せた。
「あ」
「あら、おはようございます。青くん」
微笑をたたえたサ行の女性当主。苔が挨拶した。
(チッ、朝から見たくない顔を見たぜ)
気分の悪さを口にはしないが、表情は隠そうともしない。
そんな表情に気づいたうえで、苔はにっこり顔をやめなかった。
「あら? ア行の当主は挨拶も出来ないのかしら? それとも耳が悪いの、病院行く?」
「……おはようございます、苔さん。あと、くん付けはやめてくれま」
「はい、よくできました」
青の言葉を遮るように言う苔。一瞬、怒鳴りそうになるがなんとか耐える。
(なんで兄の仇と挨拶なんざ、しなきゃなんねえんだよ! クソが、これもワヲンの狙い! 絶対殺す、この手で二人ともだ!)
腹の怒りを飲み込み、青は息を吐いた。
苔は微笑のまま、表情を変えず世間話をするように言った。
「そういえば青くん」
「あ? なんですか?」
「さっき青くんの部屋から話し声が聞こえたのだけど、誰かいたのかしら?」
その言葉に、唾を飲み込みかける青だが、すぐにとどまる。
(嘘だ。俺だって気配は多少わかるし、愛がそんなへまをするわけがない。ハッタリだ!)
「さあ? 部屋には俺しかいなかったし、何も口にしませんでしたよ? あなたこそ病院に行って耳を見てもらうべきでは?」
「そう?」
「では自分はこれで」
立ち去る青。その後姿をじっと見る苔。
(クソが、年上の女の事を考えているから、こんなことになる!)
視線を背中で感じながら、努めて冷静に青は去って行った。
行燈:行灯とも。提灯と違い床に置かれた照明道具。木の枠に火を入れ、紙で囲んでいる。
刺青:入れ墨、文身とも。皮膚に傷をつけ、顔料で模様をつける彫り物。
右顧左眄:周囲を気にして躊躇う。
遠交近攻:遠い国と外交し、近くの国は攻める。中国の范雎が唱えた戦略。
横死:思いがけない災難で死ぬ。