第48話 最後の決断
一週間が過ぎた。
姫首相は今、首相官邸のバルコニーに立っている。
眼下には群衆が集まっている。
テレビカメラもまた彼女の顔をとらえている。通信ネットワークはまだ生きており、彼女の姿を全国に中継している。
姫首相は、十字国民に向けて演説をしようとしている。
この間の暴動について、国民に説明をしなければいけない。何より、十字国全土を覆う物資不足について、今後の見通しを語り、国民を安心させなければならない。
何か大きな事件が起きたり、重要な政治的決断を伝えたりする際は、姫首相自らが語る慣習になっている。語る場は様々である。記者会見の場であったり、国会の演台であったり、首相官邸のバルコニーであったりする。
今回は、国民に直に語りかけるべきだと感じている。それゆえ、彼女は現在、およそ八年ぶりに首相官邸の演台にて、万を超す人々を見下ろしながら演説をしようとしているのだ。
「臣民諸君」
姫首相がそう言って切り出すと、群衆のざわめきがぴたりとやんだ。
みな黙って、自分達の元首の言葉に耳を傾ける。
「先日の暴動はまことに痛ましいものであった。無論、暴力行為自体は忌むべきものである。しかし、彼らに暴動を起こさせてしまったのは、ひとえに十字国の現状に原因がある。物資不足をはじめとした諸問題で人々が苦しんでいることに要因がある。
いや、もっとはっきり言おう。これは政府の問題である。つまるところわたしの問題であり、責任であるのだ。そこで」
姫首相はここで言葉を句切った。
ことさらに間を取ろうとか、もったいぶったとかいうわけではない。
彼女はこう続けるつもりだったのだ。
「そこで共感政策を暫定的に全て撤回することにする」と。
この場でいつものように堂々たる態度で宣言して、既成事実を作ってしまおうと思っていたのである。
ところが、どうしたことだろう。
言葉が出てこないのだ。
口を開ける。はじめは喉から、やがて腹から声を出そうとする。
「あ……あ……」
震えるような、うめくような声が、喉の奥から鳴るばかりである。
苦しそうな、辛そうな顔で群衆を見る。
けれども、言葉は出てこない。
聴衆の内から少しずつ、けれども確実にざわめきが起こり始める。
こんな経験は初めてだった。
いつもは演説となると、自然と言葉があふれてきた。
今までは一体どうしてきたのだろうかと、姫首相は焦る頭で必死に思い出す。
そうして理解する。
必死で考えたからだろう。
これまでと何が違うのかに気づく。
今までは、演説の前に期待に応えていたのだ。
第一に、アコビトからの格好良く決断してほしいという期待に応えていた。期待に応えるために、頭を悩ませ、考え、そうしてどうにか自分なりに決断を下していた。
それから、人々の期待にも応えていた。閣議や委員会や共感会議のメンバーや、あるいは群衆からの、ああしてほしい、こうしてほしいという期待に応え、決断していた。
その決断したことを演説していたのである。
今回はそれがない。
姫首相は今回、アコビトへの相談も、事前の会議もしていない。
ただ一人であれこれ考えていただけである。
そうやってあれこれ考え、そして自分一人で共感政策の撤回を決断したつもりだった。
けれども、こうして演台に立つと、メッキが剥がれていく。
本当は、腹の底から決意などしておらず、ただ何となくそうしようと思っただけだったのだ。
姫首相は一人では重大な決断などできない。誰かの期待に応えるという形でなければ決断などできない。
子供のころから、ずっとそうしてきた。
一人で何でも決めてしまいそうな威厳ある国家元首像は、演じているものに過ぎない。姫首相はただの一度も独断で重大事を決意したことはない。
急に一人で大事なことを決めろと言われてもできない。
だから、こうして聴衆を前にすると、本当にこれでいいのだろうか、と不安になってしまう。心が定まらない。何も言えなくなってしまう。
その事実を理解してしまったのである。
そうして、気づく。
そんな自分に足りないものを、ずっと補ってくれたのが誰であったのかに気づく。
閣僚ではない。共感会議員達でもない。
誰よりも大切だったはずのアコビトである。
水槽山に登った時のことを思い出す。
あの時、姫首相は、政治上のアイデアを求めて一日かけて山に登ったあげく、結局一人では何も決めることができず、アコビトに電話して相談して、ようやく決断することができた。
その時にこう思ったのだ。
――ああ、やっぱりわたしにはアコビトが必要なんですね。
ネット案を全国展開すべきかどうか決められなかった時も、アコビトの「楽しそうならみんなやると思うの」という言葉で、自らの決断を得ることができた。
首相辞任宣言をし、今後どうするか悩んでいた時も、アコビトに相談することで「共感し合えるような環境作りをしよう」と決断を下すことができた。
どれも一人で決めたことではない。
アコビトの期待に応えて決断したことだ。大切な人の期待に応えて決断したことだ。
だから姫首相は、その決断を、誰から何と言われようと、最後まで貫き通すことができたのだ。
決断の結果、上手く行ったか失敗したかは、一番大事なことではない、と姫首相は思っている。
いや、無論重要ではあるが、より重要なのはとにかく決断することだ。決断し、試しにやってみて、ダメだったらすぐに撤退して、また次の決断をすればいいのだ。
それを教えてくれたのはアコビトだった。絵と同じでとにかくやってみないとわからない、と教えてくれたのはアコビトだった。
(なのに、なのに……!)
そのアコビトに対して、姫首相は何をしてきたか。
(アコは……アコは、共感政策を、何だか怖くて不安だと言っていました。漠然とした不安を抱いていたんです。
でも、わたしはそんなことにはまるで気づかなかった。代わりにアコの好意につけ込んで、よりにもよって、そう、よりにもよって、その共感政策を推進するための、決断の手助けをさせてしまったんです。
いえ、手助けなんておこがましい。アコに引っ張り上げてもらったんです。
アコはずっと笑っていてくれた。励ましてくれた。威厳も何もないこんなわたしを、いつも応援してくれた。導いてくれた。
それなのに……それなのに、わたしは、そんなアコを、大切なアコを突き飛ばしてしまった。ひっぱたいてしまった。追い出してしまった……)
手が震えてくる。
身体が震えてくる。
頬の筋肉が、口の筋肉が波打って、自分がどんな顔をしているのかもわからない。
(あの時、わたしは謝るべきだったんです。本当はすぐ謝るべきだったんです。ごめんなさいと言って、それでこれからどうするかを二人で決めれば良かったんです)
遠い昔に、どこかで言った言葉が、脳裏によみがえる。
――アコが一緒なら、アコが期待してくれるなら、十字国民全員を敵に回しても、わたしは突き進みます。ええ、突き進みますとも。そう決断しました!
(アコ、わたしはあなたがはっきり期待さえしてくれれば、今でも十字国民全てを敵にしようと、あなたの味方をするつもりなんですよ? 本当です……本当なんですよ……?)
そこまで思ったところで、どうしてか涙が出て来た。
姫首相は今、首相官邸のバルコニーに立っている。視界には群衆の姿が映っている。大勢の人がいる。
けれども、アコビトはもうここにはいない。そう思うと、苦しそうな、悲しそうな、そんな顔になり、より一層涙が出てくるのであった。
何かを言わなければいけない、と思った。
何かを語らなければいけない、と思った。
口を開く。
その時だった。
群衆の一人がこんなことを叫んだ。
「わたしはあなたに共感しています!」
よく響く女性の声だった。姫首相の耳にはっきりと届いた。
え? と思い、改めて群衆に目をやる。
「そ、そうです、姫首相。我々はあなたに共感しています!」
また別の、今度は男性の声だった。
「共感しています!」
第三の声が響き渡る。
後は連鎖的だった。
「俺も共感しています!」
「みんなあなたに共感しています!」
「姫首相! 共感してます!」
「共感しています! 姫首相に共感しています!」
共感しています、共感しています、と群衆が声を上げる。
時にバラバラに響き合い、時にはまるで申し合わせたかのように一斉に響き合い、首相官邸のバルコニーに立つ一人の人物に向けて送られた。
八年前、姫首相はここに立っていた。
そうして共感演説と呼ばれる演説をした。
はじめはいつものように威厳たっぷりと、十字国の国家方針は「国民みんなが共感し合える国」であるべきだと語っていた。
けれども次第に感情が乗り移ってくる。熱がこもってくる。
そうして最後に涙ながらにこう言ったのである。
「わたしはあなたに共感している! だから……だから、共感しているあなたには、どうか満たされてほしいのだよ……」と。
日頃感情を見せぬ姫首相が、ここぞとばかりに情熱を見せたことに十字国民は熱狂した。大いに歓声を上げた。
今、姫首相はこうしてまた同じ場所に立っている。
群衆を見て、悲しそうな、苦しそうな顔をして言葉を詰まらせている。涙を流している。
その様子を見て、姫首相は十字国民が苦しんでいる現状に心を痛めていらっしゃるのだ、と思った者がいたのかもしれない。十字国民の苦しみに共感なさっているのだ、と考えた人がいたのかもしれない。
そうして、そんな「温かい心」を見せた姫首相に、八年前の共感演説で涙を流した姿を重ね、「わたしはあなたに共感している!」というあの時の言葉を、姫首相にお返ししようとしたのかもしれない。
実際のところ、最初の一言を発した者が、どういう心積もりであったのかはわからない。
ただ、はじめの数人が「共感しています!」と声を張り上げたことで、姫首相の涙は十字国民を思ってのものであり、言葉を詰まらせたのは国民の苦難に共感したからだと、そういうことになってしまったのだ。
共感しています! 共感しています!
群衆の叫び声が響き渡る。
八年前の感動がよみがえったかのように声を上げ続ける。
姫首相は、この大勢の群衆から自分が何を期待されているか、はっきりと理解していた。
こうもはっきりと明言されているのである。
群衆は共感を望んでいる。この苦しい中、いや苦しい時だからこそ、共感し合うことを望んでいる。期待している。姫首相に、一層の共感の推進を期待している。
万を超える大勢の人々からの期待、期待、期待。そして期待である。
姫首相は次第にそちらに吸い込まれていく。
行ってはいけない気がする。
けれども抵抗できない。止まらない。
隣を見る。
かつてサカンをはじめとしたデモ隊一同から首相就任を期待された時、姫首相はそれでも隣にいるアコビト一人が反対してくれれば、それをはねのけるつもりでいた。
隣には誰もいなかった。
一緒に悩み、考え、決断する姿を格好いいと喜んでくれる女の子はもういない。
ただバルコニーの床が広がっているばかりだった。
共感しています! 共感しています!
期待の声が鳴り響く。
姫首相はもはや自分が何をしたいのか、何をしているのかわからなかった。
ただ、期待に応えなければ、という思いだけはあった。
一歩踏み出す。
口を開く。
最初の一言を張り上げるようにして発した。
「臣民諸君、わたしも諸君等に共感している! 今こそ、この苦難の時こそ、互いの共感し合うべきである!」
十字国の命運はこれで決まった。
いつも「共感」を読んでいただき、ありがとうございます。
また書きます。