第43話 ドロキン
翌週、共感会議の場において、姫首相は予定していた通り、工場の機械の問題を提示した。
共感会議の設立当初の目的は、十字国民みんなが共感し合える環境を作ること、である。
今もそれは変わらない。
ただ、そのやり方が変わってきている。
十字国民の共感度、満足度、幸福度が著しい向上を得た今、共感し合える環境を積極的に作る段階ではもうない。会議員達の今の仕事は、環境の維持、そして共感に関わる何か大きな問題が起きた場合の対処であった。
今回の議題は後者、つまり問題の対処である。
会議室で姫首相はサカンと話した内容をあらためて会議員達に向けて説明する。
一通り説明し終えると、最後にこう言った。
「つまるところ問題はこうだ。共感できない人やものをなくし、国民が互いに共感できる環境を作ったら、なぜか工場が止まってしまった。一体どうしてか? 各自、見解を述べて欲しい」
会議員達も、そういうことが起きているということは、噂話なり、様々な筋から聞いていた。
意見を述べ始める。
「工場の技術者というのは、機械にばかり向かいあって、人と触れ合うこと、共感し合うことを忘れてしまったのですわ。その証拠に、あの人達のやっていることを見てごらんなさい。仕事を拒否して、機械の開発も修理も放り出して、できないできないと叫び続ける。理由を聞かれても答えない。全く共感できませんわ。皆さんでしたら共感できて?」
と、マスノがいつもの口調で言った。
「しかし、彼らは共感認定試験に合格しているのですよ。そもそも技術者だから問題を起こすというのなら、もう何年、いや何十年も前に今回のような問題が起きていないとおかしいじゃないですか」
と、ヤメルセンが疑問を呈する。
「それならこう考えるのはどうでしょう」
ジョセイヒが、ふらりとした口調で言った。
皆の視線がジョセイヒに集まる。
魚理論を打ち立てて以来、ジョセイヒは一目置かれている。
今度は何を言うのだろうかと注目が集まる。
ジョセイヒの足下には箱が二つ置いてある。会議が始まった時から置いてあった。
その箱の一つから中身を取り出し、よいしょ、と机の上に置く。
水槽だった。泥水が入っている。
よく見ると、その中を、子供の手のひらくらいの大きさの黄金色の魚が泳いでいる。
「ドロキンです」
とジョセイヒが言う。
ドロキンとは泥水の中に生息することで知られている魚である。
体の構造上、澄んだ水でも問題なく生きられるはずだが、なぜか泥水での暮らしを好む。
色は黄金色で美しい。
姫首相はこの魚を水槽山で見た。
特別珍しい魚ではない。
他の会議員達も名前くらいは聞いたことがある。聞いたことはあるが、この場に持ち出される意味がわからない。
皆、きょとんとする。この女は何の話をしようとしているのだろうか、という顔つきである。
「さて」
と言い、ジョセイヒは水槽を手で示す。
「このドロキンが工場の技術者さん達だと思ってください。泥水が三年前の、すなわちまだ十字国民同士が互いに共感し合えていなかった頃の環境です。
ここで共感認証試験について触れておきましょう。
実はですね、技術職の人間は全体的に共感認証試験の合格率が低かったんです。十字国民は全体の97パーセントが合格したのに対し、技術職の人間は91パーセントしか合格しなかった」
「いずれにせよ大多数が合格しているのでは?」
リストが問いかける。
「重要なのは不合格率なんですよ」
にっこり笑ってジョセイヒは答える。
「国民全体の不合格率は3パーセント。技術職の不合格率は9パーセント。3倍も開きがあります。言い換えれば、技術職の職場には、共感できない人間が他の職場に比べて3倍もいたということです。あ、リストさん、水差し取ってもらえますか?」
突然声をかけられたリストは驚いた顔をするが、すぐに「ああ、どうぞ」と言って飲み水用の水差しを渡す。
ジョセイヒはそれを受けると、透明なコップを机の上に置き、水を入れる。
今度は瓶詰めの容器を取り出す。スプーンで1杯分、泥のようなものをすくい上げ、コップに入れてかきまぜる。
水は色を変えるが、まだどうにか透き通ってはいる。
「このようにきれいな水に泥を1杯入れても、透明さは保っています。ところが」
そう言うと、続けざまに2杯、同じように泥を入れてかき混ぜる。水は向こう側が見えないほど濁る。
「このように3杯も入れると、濁ってしまいます。
これと同じなんですよ。このドロキン、つまり技術者達は、そんな泥まみれの環境の中で、3倍もの共感できない人達に囲まれて長い歳月を過ごしてきたんです。
もちろん、技術者達の大多数は、人から共感されるような真っ当な人間です。共感認証試験に合格するような常識的な人間です。
ですが、ずっとこういう環境にいたことで、悪い意味で適応しまったんです。するとどうなるか?」
ジョセイヒは、もう一つの箱から別の水槽を取り出し、ドロキンの水槽の隣に置く。こちらには透明な水が入っている。
ふぅ、と一息つくと、網を使ってドロキンを泥水の中からすくい上げ、すばやく透明な水の水槽に移す。
ドロキンは、しばらくの間は黄金色の鱗を輝かせながら、すいすい泳いでいた。
けれども、徐々に動きを乱していく。乱れは次第に大きくなる。上にのぼり、下に沈み、水槽の壁にぶつかり、水面から飛び跳ね、めちゃくちゃに動き始める。
「な、なんですの、それは?」
マスノが驚いた声で聞く。
「澄んだ水に入れると、なぜかこうなってしまうんですよ。生物学的にきれいな水の中でも生きていくのに支障はないとされています。なのにどうしてか、こうもおかしくなってしまう。まさに現状を象徴していると思いませんか?」
会議員の一人が、なんとなくジョセイヒの言いたいことを理解しながらも、どういうことですか、とたずねる。
ジョセイヒはこう答えた。
「これが、今の工場の技術者さん達だ、ということです。
彼らは、普通の十字国民よりも、3倍も泥の濃い環境で過ごしてきた。それだけ多くの共感できない人たちに囲まれて過ごしてきた。しかも3倍というのは、あくまで全体の平均です。おそらく今回問題が起きた工場は、5倍、10倍という数字だったのでしょう。
普通の5倍、10倍ですよ。すさまじく濃い。
そんな中、我々はここ数年かけて、共感できないものを除去し、十字国全体をこの水のようにきれいにしてしまった。5倍、10倍という濃い泥水が、急に澄んでしまったのです。一般十字国民とは比べ物にならないほど、すさまじいまでの環境の変化が彼らを襲ったのです。
それにより、濃い泥水に適応していた技術者さん達は、驚き、馴染めず、次第におかしくなってしまった。
そうして、今まさに、このドロキンのように訳のわからない行動を取っているということです。
これは、何も適当に言っているわけではありません。皆さんは、共感診療について覚えていますか?」
突然出て来た単語に、会議員達は首をひねる。何人かは、そう言えば聞いたことがある、なんだったっけ、と言いながら思い出そうとする。
ほどなくして、リストがぽんと手を叩いて、思い出しました、と言った。
「ネット案や共感大会案など、色々な共感政策を政府が試していた頃にやっていたものでしたな。もう六年くらい前でしたか。当時はまだ共感会議はなく、共感委員会がその役割を担っていたのでしたな」
「そうです。
その共感診察ですが、このように言って受診を呼びかけていました。
『他人に共感できない人、あまり人から共感されないと思っている人は、どうぞお気軽にお越しください。資格を持つ専門家が親身になって対処し、必要に応じて治療を致します。
相談者様の秘密は守ります。ご本人様の共感能力に問題がなくとも、周囲に誰からも共感されないような人がいることで、その近くにいる人も精神に悪影響を受けてしまうという事例もあります。
そういったケースも含めて、最新技術でもって万全の治療を施します』
周囲に誰からも共感されないような人がいることで、周りの人間も精神に悪影響を受ける。まさに今回の事例そのものですよね?
だから、いくら技術者達を問い詰めても、問いただしても、無駄なのです。彼らはおかしくなってしまっているからです。彼らもまた被害者なのですよ」
一同はしんとする。しばらくの間、誰も何も言わない。
やがて、ぽつりぽつりと賛同の声が上がり始める。確かにジョセイヒさんの言う通りだ、それなら説明がつく、納得だ、よくぞそんな昔の話から適切な事例を引っ張ってきてくれたものだ、さすがだ。そういった声である。ドロキン理論と名付けよう、という声もある。
「するとジョセイヒはこう言いたいのか? 共感診察を復活させ、技術者達を受診させるべきだ、と」
姫首相の言葉に、ジョセイヒは嬉しそうに、「その通りです」とうなずくと、にこにこと笑いながら小さな小瓶を取り出した。
「こちらをご覧ください」と言う。
小瓶は指でつまめるくらいに小さい。その小さな瓶を開け、ぽとりと一滴、ドロキンのいる水槽に垂らす。
するとどうだろう。ドロキンの動きが徐々におさまっていく。暴れなくなっていく。会議員達が見守る中、おおよそ数分後には、泥水の中にいたかのように、平然と静かに泳いでいた。
おお、という声が上がる中、ジョセイヒは一同を見回して言った。
「このように適切な治療を行えば、ドロキンも正気を取り戻します。技術者達も、治療さえすれば、正気を取り戻すはずです」
「正気に戻れば、おかしな行動も取らなくなり、工場の機械も元通りになり、商品も店の棚に並ぶようになると?」
「その通りです」
ジョセイヒはにっこり笑って肯定する。
「ふむ」
姫首相はきれいな形のあごに手を当て、考える仕草を見せる。
それから一同を見回し、こうたずねる。
「諸君らの意見を聞こう。今のジョセイヒの提案についてどう思う?」
「ジョセイヒさんに質問なのですが」
ヤメルセンが手を挙げる。
「技術者達の治療費は誰が負担するのでしょうか? 国が負担するとなるとそれ相応の理由が必要になりますが」
「もちろん国です」
と、ジョセイヒはにっこり笑って答える。
「技術者というのは、水道管だったり自動車だったり冷蔵庫だったりと、国民にとって必要な物を作ってくれる大事な人達です。
彼らは国の共感政策の副作用の結果、犠牲になった。
もちろん共感政策は必要があったからやったことですし、大多数の国民は幸福になっていますが、だからと言って、その副作用に一切知らんぷりというのは、いささか無責任ではないでしょうか」
ジョセイヒは会議員達をぐるりと見回す。
反対の声はない。
元より会議員達はジョセイヒと近しい思想、ものの考え方を持っている。今回のようにきちんと説明さえしてくれれば、基本的に反対する理由などない。
姫首相は次々と賛意を示す会議員達を見る。賛成です、さすがはジョセイヒさんです、という言葉を聞く。姫首相も同じ気持ちになる。重々しくうなずく。
「いいだろう。ジョセイヒ案を採用しよう」
そう言って決断を下したのである。
いつも「共感」を読んでいただき、ありがとうございます。
また書きます。