第41話 共感の正体
この頃、十字国において、一本の論文が発表された。
アチ・テイゼンという人類学者の名で掲載された論文のタイトルは「共感の正体」というものだった。
テイゼンは言う。
共感とは群れを維持するための感情技術である。
石器時代、進化の果てに、種として分岐した三つのヒト属がいたとしよう。
ヒト属Aは、共感のハードルがとても高く、簡単に誰かに共感したりなんてしない。
ヒト属Bは、共感のハードルが中くらいで、自分にある程度似た相手であれば共感する。
ヒト属Cは、共感のハードルがとても低く、だいたい誰とでも共感する。
そのように、それぞれ異なる形で進化したとしよう。
このうち、生存競争に勝つのはどのヒト属だろうか?
ヒト属Aは簡単には共感しないので、群れを作るのが難しい。
他人と共感できないということは、他人に親しみを覚えにくい、ということだからだ。
群れというのは、家族や親戚同士であったり、あるいはたまたま出くわした者同士が合流して一緒に生活している内にいつのまにか一個の群れになってしまったり、といった形で形成される。
ヒト属Aもそうやって群れを作る。
しかし、彼らは容易には共感しない。
それゆえ、ちょっとしたことで、すぐいざこざが起きてしまう。群れが分裂してしまう。数人の家族単位に分かれてしまったり、個人レベルまで分裂してしまったりする。小規模な群れは弱い。弱くては、野生で生きていくのは難しい。
ヒト属Aが生き残るのは困難である。
ヒト属Cは容易に共感する。
見知らぬ者同士でも何がしかの共感を覚え、すぐに親しくなる。共感した者同士が集まり、群れが巨大化する。
するとどうなるか?
食糧難を引き起こすのである。
石器時代において、食糧を獲得するには、野生の動植物を狩猟採集するしかない。
動植物の数は限られている。頑張って狩りをしたところで近隣に住む獲物の総数が増えるわけではない。むしろやりすぎると獲物が枯渇してしまう。
なのに群れはどんどん巨大化する。一人当たりの食糧が減少してしまうのだ。
彼らは、群れの仲間を見捨てたりなどしない。共感し合っているからだ。みんなで乏しい食糧を分け合う。
しかし、いくら共感し合ったところで、栄養不足が解消されるわけではない。彼らは常に飢えに苦しむことになる。ついには絶滅してもおかしくない。
ヒト属Cが生き残ることも困難である。
ヒト属Bは、ほどほどに共感する。
ある程度自分と似た相手であれば共感するが、そうでなければ共感しない。
そこそこの共感しかしないので、群れはある程度以上大きくならない。
なぜか?
群れが小さいうちは、お互いがお互い、頻繁に顔を合わし、生活の中であれこれ関わり合う。苦楽を共にする。共感も芽生えやすくなる。共感し合えば、簡単にはバラバラにならない。
群れが大きくなると、あまり関わらない者、よくわからない者が出てくる。共感も芽生えない。共感し合えない者とは、一緒にいたくない。群れはやがて分裂する。
それゆえ、群れは、ほどほどの規模でとどまるのだ。
のちに人類は宗教や文化や民族や国民国家という概念を発明することで、それを信じる者同士をひとつの巨大な群れとしてまとめ上げる仕組みを作り出すのだが、石器時代にそんなものはない。群れの規模はほどほどのままである。
この群れが、他の群れと出くわしたらどうなるだろうか?
攻撃するのである。戦争だ。
なぜなら、他の群れというのは、要するに共感できない連中だからである。不愉快な連中だからである。必然、攻撃する。
これにより、その地域の食糧資源を一つの群れで独占することができる。
ヒト属Cのように皆が飢えるより、限られた者だけでも満腹になった方が種属として生き残る確率は上がる。
こうしてヒト属Bは生き残り、進化を続け、やがて現代の人類となった。
これが共感の正体である。
共感できる相手と親しくさせる一方で、共感できない相手に対しては何をしてもいいと思わせてしまう。宗教戦争も民族紛争も人種差別も、そして今十字国で起きている「共感できない人への弾圧」も全部、共感できないものへの排除に他ならない。
しかし、言うまでもなく、これらはすべて野生のなごりでしかない。
人類は文明を手に入れたのだ。高度に進化したのだ。
もはや、共感できないものを攻撃するといった、野生時代の野蛮な風習はやめようではないか。
以上が論文の骨子である。
反発は大きかった。
共感に対してなんてことを言うのだ、という声が湧き起こった。
共感は十字国の国是にして中心たるものなのに、それに対して侮蔑するような発言は不穏当である、という怒りの声が巻き上がった。
論文を書いたテイゼンの末路は悲惨なものだった。
職を追われ、住居を追い出され、彼と関わることを恐れた家族や友人達からも見放され、保護を求めて役所を訪れた時も冷たくあしらわれ、寒空の下で衰弱死してしまったのである。
しばらくのあいだは、わずかな同情と圧倒的な自業自得論が死後の彼を覆ったが、カレンダーの月がめくれる頃には十字国民はこの人類学者のことを忘れてしまい、元の生活に戻ってしまった。
姫首相は一連の騒動に対して何も言わなかった。
アコビトがいなくなったことに呆然自失としていたのである。
姫首相はうわごとのように「アコ、アコ……」と繰り返し、それでも公務をこなしていた。
外面は変わらず威厳と自信に満ち満ちていたが、どこか空虚であった。
少なくとも表向きは元の姫首相と言える状態に戻るまでに半年はかかった。
アコビトは美術学校入学の誘いを受け、外国に移住していた。
数学のことを姫首相に知られ、混乱したまま家を出ていったあの日、海外の美術関係者に保護されたのである。
手紙も届いた。
ただただ謝罪の言葉が書かれていた。最後に、もし許してくれるなら、その時には会ってくれると嬉しい、と書かれていた。
返事は書かなかった。会いに行きたいです、とつぶやいたが、その直後には、会わせる顔がありません、と言ってうつむいた。
共感政策はやめなかった。
アコビトが何を反対しているのか、わからなかったからである。
そもそも、アコビトとの別れは悲しい思い出であり、別れ際の彼女の言葉など思い出すのもつらく、深く考えたくはなかったのである。
とりわけ「期待していない」という言葉は、悪い意味で強い衝撃を与えた。これまで数々の期待を受けてきた姫首相にとって、期待していないと言われたのは初めての経験であり、しかもそれが他ならぬアコビトからの言葉であるがゆえに、思い出すだけで頭がおかしくなってしまいそうになるのである。
過去を振り返ることを拒絶した姫首相は、今を頑張ることでその欠落を補おうとした。
自分がもっと頑張ればアコビトが帰ってきてくれるのではないか、とそんなことを思っていたのである。
頑張るとは、すなわち共感政策の推進である。
姫首相の日記には、こう記されていた。
「もっともっと十字国民が互いに共感し合うようになれば、アコもきっとわかってくれます」
第3章完
第4章に続く
いつも「共感」を読んでいただき、ありがとうございます。
また書きます。