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第40話 何をやっているのですか

「アコ……?」


 姫首相は呆然とつぶやく。

 クラッカーが床をコロコロと転がる。


「アコ……アコ……? 何を、何をやっているのですか?」


 アコビトもまた突然入ってきた姫首相に、口を開けてとまどっている。

 アコビトは、床に座っている。

 床には何冊もの本が開かれたまま散らばっている。どの本にも数式がびっしりと書かれている。

 机の上では、パソコンが電源の入ったままファンの音を響かせている。パソコンにはモニタが二台つながれている。一台にはアコビト独自の歪みと溶け込みのある絵が映し出されている。もう一台には大量の数式が表示されている。


「アコ、それ、式、数、あっ、あ……」


 姫首相は支離滅裂な言葉をつぶやく。

 それから、呆然とした声で、アコビトに問いただした。


「アコ……それ数学ですよね? 数学……なんですよね?」

「……うん」


 数学は十字国政府によって共感できない学問であるとされていた。

 学ぼうとする者は高額の納税が課されるし、成人以上であれば共感認定証も発行されない。認定証がなければ就職も困難だし、近所から白い目で見られる。

 それが嫌であれば、数式の書かれた類の本は政府に提出しなければならなかったし、仕事でもプライベートでも、三角関数だの微分積分だの複素数だのを使ってはならないとされていた。そのような共感できないようなことはしてはいけない、とされていた。

 つまるところ、事実上禁止されていたのである。


 その禁止されている数学を今、アコビトが使っている。

 床に散らばった書籍には、どう見ても数式でしかないものが、どの本にもみっちり書かれている。

 本の他にノートがあることにも気づく。手書きで方程式やら図やらグラフやらが書かれている。アコビトの字だ。広げられた状態で、何冊も並んでいる。

 パソコンのモニタにも計算式が映し出されている。


「どうして……?」


 姫首相は何度も、どうして、なんで、と口にする。


 ――アコビトは算数も得意で難しい数学の本も読んでいる。


 ふと、そんな言葉が頭をよぎった。新憲法が制定されたばかりの頃、姫首相はアコビトの通う小学校を訪問したことがある。その時、学校の先生がそう言ったのだ。

 それから、初めて独自の歪みのある絵を見せてくれた時、「いつの間に、こんなすごい絵が描けるようになったのですか?」とたずねる姫首相に対し、アコビトがパソコンをちらりと見たこともあった。

 どうしてだか、ずっと忘れていた。そうして今、思い出してしまった。


「……ごめんね」

 沈黙をためらいがちに破るようにして、アコビトは言った。


「わたしね、ずっと数学をやってたんだ。小学校の頃に、先生から本をもらったりしてね。それで」

 と言ってパソコンを見る。


「わたし、絵を描くことが好きだった。だけど、個性的じゃないって言えばいいのかな。独自の絵を描くことができなかった。でもね、ある時、数式を使って絵を変形させることを思いついたんだ。それがこれ」


 そう言ってモニタを指でさす。

 右のモニタには数式が映っている。左のモニタにはアコビト特有の歪みと溶け込みのある絵が映っている。

 まず普通に絵を描く。次にパソコンにその絵を取り込み、数式による歪みと溶け込みを加えて加工する。最後に、それを模写して完成させる。そうして絵を描いているのだと言う。


 ――最近はパソコンを使えば、数式も視覚化できて楽しいですよねえ。


 姫首相はまた思い出した。

 共感会議員のマスノがヒロジロ大学で数学科の教員や院生にインタビューを行ったことがあった。

 その一人が、方程式を使って映像を作るという技術について語っていたのである。


 アコビトは数式と絵の関係、面白い数式の組み合わせを見つけ、それを使って絵を歪ませ、溶け込ませるやり方を見つけたときの喜びと興奮について語った。

 けれども、姫首相にとってそれは、ヒロジロ大学の共感できないインタビューを連想させるものでしかなかった。


「本当に楽しいんだよ」

 とアコビトは言う。


 姫首相は聞いていなかった。

 ただ小声で、嘘ですよね、何かの間違いですよね、とつぶやいていた。


「姫ちゃん。お願い、聞いて」

 それでもアコビトは言う。

「黙っていたのは本当にごめんなさい。ずっと言い出せなかった。最初は言うタイミングがなかっただけなんだけれども、いつのまにか数学はダメってなってて、それで怖くて言えなかったの。わたしね」


 アコビトは一度言葉を句切ると、気持ちを落ち着かせるように胸に手を当て、勇気を絞り出すようにしてこう言った。


「わたし、数学をやるのは非難されることじゃないと思う。だって、こんなに数学って楽しいんだよ。それに役にだって立っている。こうやって絵を描く道具になっているんだし、それで色々な人が、心を動かされたって言ってくれているんだよ。だから……」


「でも、アコ」

 姫首相はアコビトの言葉を遮った。呆然としたまま、無意識に言葉をつむいでいるかのように、声に生気がない。そんな声でこう言った。

「それ、共感できないんですよ?」


「姫ちゃん?」

「数学は、共感できないんです。楽しいとか面白いとか言われても、誰も共感しないんです」


 誰も、誰も、と姫首相の唇が力なく音を発する。


「……ねえ、姫ちゃん」

 アコビトはそれでも姫首相を真っ直ぐに見て言う。

「初めて会った時にした会話、覚えてる?」


 姫首相は何も言わない。


「あの時、姫ちゃんはこう言ったんだよ。『君が正直何をそんなに喜んでいるのかまるで理解できないが、しかし喜ばれると嬉しいものだな。ありがとう』って。わたしのやることには共感できないけど、でも嬉しい気持ちになれるって言ったの、覚えてる? だからね」


 アコビトは、そこでいったん言葉を句切る。

 大きく息を吸う。

 吐息に言葉をのせるようにして言う。


「そこまで共感にこだわらなくてもいいと思うの」

「アコ?」


 姫首相は、呆然とした状態からさめたかのように、はっとする。信じられないことを聞いたかのように、黒い目を大きく見開く。


「もう共感には……」


「ダメです!」

 姫首相は叫んだ。

「だって、だってみんな期待してくれているんですよ! 共感で満たされた世の中を作ることを。誰もが共感し合える環境を作ることを。いえ……それよりなにより、アコだって期待してくれたじゃないですか!」


「え?」


「共感案を採用した時、アコは『姫ちゃんならできると思うの』って言ってくれましたよね?

 わたし、あの時、本当に、本当に嬉しかったんですよ? 二人で悩んで考えて、そうして、国民みんなの満たしたい感情を満たすような国家方針を採用しようって決めた。二人で話して、そうして決めたんです。

 そうしたら、びっくりするくらいぴったりな案が見つかったから、だからきっとこれなんだって思った。これこそがアコと話して決めた国家方針案なんだって。きっとアコも喜んでくれる。そう思ってアコに見せたら、わたしならできると期待してくれた。涙が出るくらいに嬉しかった。本当に、本当に心から嬉しかったのに……」


「……ごめんね」

 アコビトは心底申し訳なさそうに言った。

「わたし、言い出せなかった。勇気がなかったから。せっかくの関係を壊したくなかったから。本当は共感案は、何か違うって思っていたの。上手く言えないけれども、何だか怖くて不安で」


 そう言ってアコビトは、本当にごめんなさい、と深々と頭を下げる。

 心臓の鼓動が何度か鳴る。

 頭を上げ、姫首相の目を見る。口を開く。


「だから、もう一回やり直すね。わたし……わたし、共感案は間違っていると思う。共感政策も間違っていると思う。共感出来なくったっていいものはある。役に立つものもある。現に数学は、大勢の人が、心を動かされたと言ってくれる絵を生み出している。だから、だから言うね。わたしは……」


 アコビトは決意したように、心に力を入れる。唇を開いた。


「わたしは、共感政策には期待していない。そんなのやってほしいなんて期待していないの」


 姫首相は二度まばたきをした。

 呆然と開いた口から、ひゅっ、ひゅっ、と息が漏れる。

 次第に身体が震え出す。

 いやです、いやです、と何度もつぶやく。

 両腕で自らの身体を抱きすくめ、なんでですか、いやです、どうして、と唇を震わせる。


「姫ちゃん……」

 アコビトはそっと姫首相に近付く。優しく両腕を伸ばす。ぎゅっと抱きしめる。

「大丈夫だよ。わたしは姫ちゃんの味方。ずっと味方。特別警察から助けてくれた時も、姫ちゃんが寂しがりやな本当の姿を見せてくれた時も、心の底から嬉しかった。二人でゴロゴロしていた時も、一緒にお話ししていた時も、本当に楽しかった。だからね、わたしにとって姫ちゃんは」


「いやっ!」


 姫首相は、アコビトを拒絶するかのように突き飛ばした。

 初めて出会った時、特別警察の警官がそうしたように、どんと突き飛ばした。

 アコビトは床に倒れ込む。ケガはない。ただ呆然としている。


「……姫、ちゃん?」

「なんでですか! どうして共感できないことをするんですか! どうして期待してくれないんですか! アコが、アコが一番なのに、一番期待して欲しいのに、共感し合える国を作ろうって、わたし、ずっとやってきて、それなのに、どうして共感なんていらないだなんて! どうして、どうして……」

「姫ちゃん、わたしね」

「いや!」


 乾いた音がした。姫首相が、アコビトの頬を平手で叩いたのだ。直後、はっとしたように叩いた自分の手を見る。


「あっ、あ、あ……」


 姫首相はだっと駆けだし、部屋から出て行った。


 アコビトは「あ……」と言った。

 すぐに追いかけなきゃ、と思った。足を動かそうとした。震えて動かなかった。

 呼び止めなきゃ、と思った。声を張り上げようとした。喉の奥がかすれたように鳴るばかりだった。


 なぜだかわからなかった。

 けれどもアコビトは動けなかった。


 早く姫ちゃんのところに行かなきゃ、と思う。

 気持ちばかりが焦る。


 そうして、焦って、頭の中が混乱したことが原因かもしれない。あるいは、つい先ほど姫首相と五年前のことについて話をしたことが、きっかけであったのかもしれない。

 遠い昔の会話が記憶の奥底からよみがえった。


 ――つまりですね、一緒に悩みを打ち明け合ったり、どうしようかって考え合ったり、それからですね……

 ――姫ちゃんがズバッと決断するの!


 それは、姫首相が自分の素の姿を初めてアコビトに見せた時に交わした会話だった。

 あの時、二人は、これからは共に悩み事を打ち明け合い、相談し合い、どうするか決断する。そんな関係を築き上げようと約束したのだった。

 そうして、アコビトが賛成の意を示すと、姫首相は嬉しそうにアコビトのことをぎゅっと抱きしめたのだった。

 遠い昔の大切な約束だった。

 忘れてはいけない大事な約束だった。


「あ……」


 声が出た。けれどもそれは嗚咽(おえつ)だった。


「あ……う……」


 気がつくと、アコビトの目から、涙がポロポロとこぼれてきた。


「なん、で……」


 ひくっ、ひくっ、としゃっくりあげる。


「な、んで……わた、し……」


 ふわふわした髪を揺らしながら、ただただ涙をこぼし続ける。


「ご、めん、ね……、ごめん、ね……」


 それは何に対する謝罪だったか。


「ごめん、ね、ひめ、ちゃん……」


 少女は、ごめんなさい、と言い続ける。


「しかく……ない、よ、ね……」


 しんと静まりかえった部屋の中、アコビトの泣きじゃくる声だけが響き渡る。


「いっしょ、に、いる……しかく、ない、よ、ね……」


 床には、鳴らされることのなかったクラッカーが、ただ静かに転がっていた。


 姫首相が戻ってきたのは、彼女が官邸で一晩過ごして、ようやく混乱から立ち直った後のことだった。

 アコビトの姿は消えていた。

いつも「共感」を読んでいただき、ありがとうございます。

また書きます。

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