第28話 ディアトリマ
姫首相は辞任を宣言した。
ネット政策は失敗した、かねてより約束してきた通り辞任する、と閣議の場で言う。
もめた。
閣僚達は姫首相あっての自分たちだと認識している。今の十字国には「この人の言うことなら聞いてもいい」と誰もが思える人物は姫首相しかいない。姫首相がいなくなってしまったら、長期にわたって政治上の混乱が続くだろう。
共共党だって主導権を巡って複数に分裂するに違いない。少数政党が乱立し、連合政権ができては分裂し、できては分裂し、を繰り返すだろう。何もできず、何も決められない。
国内で混乱が続くだけならまだいい。外国の介入を招いてしまうかもしれない。亡命したメジリヒトはまだ健在である。亡命先の国がメジリヒトこそ十字国の正当な元首だと主張して、軍事介入してくる恐れすらある。
とりわけサカン補佐官は辞任に強く反対した。
「姫首相、我々には、いや十字国にはあなたが必要なんです。お考え直しください」
サカンは、首相補佐官として腕を振るうことができる現状を大変気に入っていた。
毎日、気分がよかった。
姫首相の言う「人は自分の満たしたい感情のために生きている」という説に従えば、優越感と自己実現欲を日々満たすことが出来て大いに満足であった。
とはいえ、地位というのは、いつ失われてもおかしくない。
彼の地位を支える要因の一つは「姫首相を誕生させた男」という評価にある。
ここで姫首相を逃しては、ただのマヌケである。せっかくの地位を失ってしまうかもしれない。
(仕事がしたい。腕を振るいたい。国家に尽くしたい。そうして俺はすごいんだと、いい気になりたい。そのためなら恥も外聞も捨てて何でもやる。それの何が悪い?)
サカンはそう思っている。
表向きはそんなことは言わない。
代わりに、国内はまだまだ不安定だと訴える。外国とメジリヒトの危機を訴える。必死に何度も訴える。
「せめて後継者を決めてください。皆が納得する後継者です」
そう言われると姫首相としても弱い。
後継者も決めずに辞任するのは、いかにも無責任に思われた。
アコビトの期待に応えることしか頭になかったがゆえの失敗である。
失敗したと自覚したせいか、平素より威厳も冷徹さも薄れる。
「うむ。そうだな。サカ……」
「まさか私とは言いませんよね?」
姫首相は黙った。
サカンとしては自分が首相になったところで、白けた目で見られるだけなのはよく理解していた。なんでこいつの言うことを聞かなければいけないのだ、と思われてしまうだろう。
誰も言うことを聞かない首相になるよりは、大勢が言うことを聞く補佐官の方がよほどいい。よほど、いい気になれる。
姫首相は理屈の上ではサカンが正しいのではないか、という気がしてきた。
しかし、そのたびにアコビトの顔が頭に浮かんだ。
「いやっ!」と叫び、震え、怖がっていたあの顔が脳裏によみがえった。
(もうアコにあんな顔をさせてはいけません)と思った。
(そのためにはアコの不安を取り除くべく、期待に応えて辞任しなければ)と思った。
そうして、やはり首相職を辞すべきだと主張する。
こうしてもめた。
大いにもめた。
が、この話はこのあたりにしておこう。
結論を言うと、辞任は認める。けれども、ただちに総選挙をする。選挙をして、首相推薦投票でトップを取った議員が首相となる。
そう定めたのである。
首相推薦投票は立候補していない者にも票を入れることができる。
ゆえに、姫首相が続投する可能性もあったが、本人はその可能性は低いと考えていた。このように失敗した自分が受け入れられるはずがないと思っていたからだ。
閣議後の辞任発表の記者会見でも、取り立てて熱のあることを言ったわけではない。ただ、かねてよりの公言通り辞任する、あとは臣民諸君の判断に任せる、と述べただけである。
もっとも姫首相自身は淡々としていたところで、受け取る側はそうではない。
記者会見の場は大騒ぎになった。蜂の巣を突いたように騒然となった。まさか本当に辞任するとは誰も思っていなかったのである。
「やめないでください!」と叫ぶ記者がいた。「嘘でしょう……」と呆然とする記者がいた。「そんなバカな!」と声を張り上げる記者がいた。
が、姫首相はあくまで辞職を押し通した。
こうして姫首相の辞任と議会の解散が決まった。
ただちに総選挙の手続きが開始される。
姫首相自身は選挙に臨むわけではない。選挙運動もしない。
よって時間ができる。
選挙が終わるまでの間、現内閣は存続し続けるし、首相職を辞するのも選挙後ではあるが、どの閣僚も今は選挙対策に忙しい。姫首相は、ぽつんと一人、皆が忙しいさまを眺めるだけである。非常事態でも起きない限り、首相としての仕事は少ない。
その日も仕事は午前中で切り上げてしまい、することがなかった。
アコとお話ししましょうか、と思った。
思ってすぐやめる。
アコビトは、外国の絵画コンクールに応募した絵が、つい先日、審査員奨励賞を受賞していた。正式な賞ではないが、審査員から、今は未熟でも将来性に期待という形で「今後も是非絵を続けてください」と奨励される賞である。
姫首相が預かっている若干十一歳の少女が、外国のそれなりに歴史と権威のある絵画コンクールで、何やら賞と名のつくものをもらったということで、十字国内では話題になっている。
絵画関係者が声をかけに来ている。取材の申し込みもある。何かと騒がしい。
群がる人々は、使用人達が上手くさばいている。
今わたしが会いに行っても、かえって騒がせてしまうだけですよね、と思った。
アコビトに会わないとなると、それでは何をしましょうか、となる。
することのない姫首相は、公園でベンチに座る。家庭に居場所のないお父さんのようである。
どこか気が抜けている。
みゃあ、と音がした。
猫の鳴き声のようである。
見ると白い猫が茂みの前にいる。
「やあ、猫君。こっちへ来たまえ」
猫は無言で茂みの奥へ行ってしまった。
追いかけたが、もうどこにも姿はない。
いなくなると惜しくなる。猫が見たくなる。ついでに色々と動物を見たくなる。
アコビトから以前、「姫ちゃんはプライベートでもどこかに出かけた方がいいと思うの」と言われたことを、また思い出す。前に思い出したのは水槽山に行った時だったか。
姫首相の内に、(そうですね、アコの言う通り、動物園にでも行ってみましょうか)という気分が湧いてくる。せっかく時間ができたんですから、と思う。出かけないのはもったいない気がする。
ベンチに戻って少し考えようとする。
そうして腰かけたとたん、今度は、あくびが出始めた。
猫を追いかけ、身体を動かしたことで、何かスイッチが入ったのかもしれない。
強烈な眠気に襲われる。意識するとますます眠くなる。
出かけたくなったり、眠気が出たりで忙しい。
「ピエス」
眠気に耐えながら、女性SPの名を呼ぶ。どこかに控えていたのだろう。すっと姿を現す。
「動物園に連れて行け。わたしは眠い。今からこのベンチで寝る。寝ている間にわたしの体を適当な動物園に運べ」
姫首相は言った。
首相を辞すればSP達との付き合いも終わる。最後に何か少し変わったことがしたくなった。
「かしこまりました、姫首相」
ピエスは表情を変えず一礼する。この若いSPはこれしか言わない。
「そうして、猫みたいに逃げたりせず、なるべくじっくり観察できる動物の前にわたしを連れて行け。爬虫類と両生類と虫は却下だ。連れて行ったら、そこで起こせ。いいな。
ああ、無論、お前たちSPの判断で、周囲を騒がせてしまう、迷惑をかける、危険である、緊急事態が起きた、などそれどころでない事態と見なした場合、即刻中止してもらって構わない」
「かしこまりました、姫首相」
ピエスは再び一礼する。ためらいなく承諾する。
あまりにもためらいがないので、姫首相はだんだん自分がひどくわがままを言っているような気がしてきた。
眠気のせいで変なテンションになっていたのかもしれない。
公務と何の関係もないことを命じたことに、申し訳ない気持ちが湧いてくる。前言を撤回したくなる。
したくなるが、首相としての立場上、やっぱり今のはなしだ、とは言いづらい。もってまわった言い回しをする。
「即刻中止というのはお前たちの体調管理の都合も含まれている。君たちも連日忙しいだろう。今日はそろそろ休みたいと思わないかね。もしその希望があれば、動物園など行かず、わたしを私邸に送り返してもらっていい。これは建前で言っているのじゃないぞ。本当に言って……」
かしこまりました、姫首相、という言葉は聞こえなかった。前述した台詞もどこまで口にすることができたか。
強烈な眠気の波の前に、姫首相は意識を失ってしまった。
目覚めると巨大な鳥がいた。
檻の向こうから、強烈な眼光をじっと向けてくる。
体高は姫首相よりも頭二つほど高い。ダチョウに似ているが、ダチョウよりも何倍も首が太い。
頭部はさらに巨大である。必然、顔も巨大だ。大きなクチバシは、人間の頭程度なら軽々丸のみしてしまいそうである。
ダチョウと同じく巨体ゆえに飛べそうにはない。飛ばずとも大抵の陸上動物は蹴散らせそうである。
姫首相は今、ベンチに腰かけていた。公園のベンチではない。どこかの動物園にいるようだ。
ベンチは檻のすぐ前にある。座って動物を観察できるようにという配慮だろうか。それともSPらが用意したのだろうか。
静かである。平日の昼間だからか、よほどへんぴなところにあるのか、あたりは閑散としている。ピエスが隣に座っていなければ、寂しがりやの性分が顔を出し、おかしな気分になってしまっていたかもしれない。
「なんだ、あれは?」
姫首相はピエスにたずねた。内心は巨大な鳥に驚いているが、威厳ある国家元首として、外見上は動じていない。
「かしこまりました、姫首相」
ピエスはそう言うと、檻の前の看板を指した。
ディアトリマ、と書いてある。大型の鳥類で、獲物に気づかれないよう、じっとして動かない習性があると言う。
なるほど、言われてみると、檻の向こうの鳥は先ほどからぴくりとも動かない。
「なるほどディアトリマか」
姫首相はうなずく。
「では、わたしの顔についているこれはなんだ?」
姫首相はたずねる。
顔が何やら覆面のようなもので覆われている。首相がいるぞ、と周囲を騒がせないための配慮だろうか。
どういう覆面かわからない。目の部分が空いている。口の辺りがやや重い。
「かしこまりました、姫首相」
ピエスは言い、そっと姫首相の顔を覆っているものを外し、本人に見せる。
子供向けのお土産だろう。ディアトリマのお面だった。クチバシが本物のように大きく突きだしている。すぐお面をつけ直す。
姫首相は、ピエスに何か言おうとした。
お面越しに口開きかけ、やめる。連れて行けと命じたのは自分である。あれこれ言うのはみっともない気がした。
かけそこなった言葉を向ける先を探す。
ディアトリマがいた。じっとこちらを見ている。獲物と思っているのだろうか。眼光は鋭い。
「なあ、ディアトリマ」
姫首相は目の前の怪鳥に話しかける。
ここまで連れてきてもらった以上、何か有意義なことをしなければ、という気がしていた。この場において、首相としてできる有意義なことは政治の話である。
隣にピエスがいることも、今は気にならない。
「わたしは共感政策を推し進めていた。そして、失敗してしまった」
一国の指導者が鳥のお面をかぶって、鳥を相手に政治の話をするというのは、もしかすると歴史上初かもしれない。
そんなことを思いながら、静かな声で話し続ける。
「なぜ失敗したのだろう。共感は無条件で良いことのはずだ。その共感を集めている人間であれば無条件で素晴らしい人物のはずだ。それなのになぜ、共感貴族などというものを生んでしまったのだろうか?」
ディアトリマは何も言わず、にらみつける。
そうやってにらまれると自分の中にある後ろめたいことがあぶり出される気がする。
「やはり金、だろうか」
姫首相はつぶやく。
「共感は素晴らしいのに、共感貴族を生んでしまったということは、何か悪いものが、共感ポイントの高い人物を狂わせてしまったということだ。何が狂わせたかといえば、これはもう、金、しかなかろう。金が全てを狂わせた。
しかし、だ。共感マナー論は間違っていないはずだ。共感はマナーだ。マナーを守った人間にはそれなりに報いるべきだ。
だが、金は、みんなから共感されているような人物でさえ狂わす。
金はダメだ。金以外の何かで報いねばならない。名誉、使命、役割、そういった何かだ。
だが、何をもって報いればいい? いったい何をもって?」
話はそれ以上発展しなかった。
ディアトリマは最後まで動かなかった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
次話投稿日は明日となります。