第20話 水槽山
姫首相は、数日休んだ。
若さゆえ、すぐに回復する。
姫首相はすぐに公務に復帰しようとするが、念のためもう一日と医師に言われる。
「身体を動かすのはもうよいですが、政治のように神経を使うことは、今日はおやめください」
と言われる。
姫首相は自室で一人寝転ぶ。
することもなく、一カ所に一人でじっとしていると寂しくなる。
アコビトから「姫ちゃんはプライベートでもどこかに出かけた方がいいと思うの」と言われたことを思い出す。
そうですよね、アコの言う通り、せっかく外出の自由な一日なのですし、こうしていても寂しいですし、どこか人のいるところに出かけるのもいいですよね、と思う。
といって、あまり大勢で賑わうところだと、自分の正体がばれたとき、迷惑になってしまう。
どこに行きましょうか、と考えた。
誰と行きましょうか、とも考えた。
アコビトと行こうかと一瞬思ったが、すぐに首を横に振った。絵の邪魔をしたら悪いですよね、と思ったからである。
「山に行ってみましょう」
誰にともなく、そうつぶやく。
姫首相の住む私邸から電車で一時間ほど行ったところに水槽山という山がある。
標高は五百手丈ほどである。手丈とは十字国固有の単位で、成人が両手を横に広げた幅にほぼ等しい。
さほど高い山ではないが、一つ特徴がある。
その名の通り、水槽のような形をした半透明の岩が、山のあちこちにあるのである。大きさは平均して、大人がひとり、ゆうに入れる程度のものである。それが渓流沿いに、あるいは崖のでっぱりの上に、または洞窟の中に、ともかくいたるところに大小さまざまなものが転がっている。火山活動と氷河活動の結果生まれたものとされている。
水槽の中には魚が住んでいる。
よく見るのはドロキンだ。
ドロキンとは子供の手くらいの大きさの淡水魚である。黄金色で輝くような色をしている。泥水の中で暮らすのを好んでいる。泥の中の宝石、という例えで良く用いられる。
別段、体の構造上、澄んだ水の中でも生きていくのに支障はないという。ただし、実際にきれいな水に移すと、正気を失ったかのように暴れ回る。慣れ親しんだ環境を追われると、たとえ新天地での生活に支障はなくとも、どこかおかしくなってしまうという教訓話にしばしば使われる。
秋などはこのドロキンが水槽から水槽へと、跳ねて移動する。紅葉と、秋のほどよい日差しの中、黄金色のドロキンがきらきらしながら水槽を次々と渡っていく様は、観光客を大いに喜ばせる。
山自体、首都の交わり都市からほど近い位置にあることもあり、また初心者でも登れる山であることもあり、秋などは山道に行列ができるほどである。
ただし、今のような、冬の終わりと春の初めとの谷間の季節においては、さほど観光客も多くない。旬の季節でなくとも、半透明の水槽があちらこちらにある様はなかなかに神秘的であるのだが、どうせなら最高の季節に行きたいと思うのが人情なのかもしれない。
その水槽山に行こうと思った。
姫首相は普段登山などしない。しないがゆえに、水槽山の神秘的な光景は、きっと衝撃的な印象を与えるに相違ないと思った。それが、今の政治状況を打破するアイデアにつながるのではないか、単に山を登るにとどまらない何かを与えてくれるのではないか、と考えたのだ。
最悪、リフレッシュになればよいと思った。汗を流して苦労して山に登れば、最低限何かが得られるに違いないと思った。
服装は少し迷った。
登山着というものはよくわからなかったが、水槽山は普段着で登る人も多い。
街にも山にもいそうなスポーツ男子の格好をすれば変装にもなってちょうどいいだろうと思い、そのようにする。スポーツ用の帽子とサングラスも身につけ、長い黒髪は後ろで縛る。
「今から一時間後、水槽山に行くぞ」
姫首相は携帯電話越しに連絡した。
相手はSP、つまり護衛である。首相である彼女には、外出時、最低でも四人のSPがつく。
今のようなプライベートな時間であっても、私邸の庭に設けられた出張所に控えている。
姫首相が黙って出かけたとしても、彼らはなんだかんだでついてくるだろう。
特にピエスというSPは一人だけいる女性SPということもあり、姫首相の隣を並んで歩くに相違ない。
であれば、あらかじめ伝えておいた方が良いだろう、と姫首相は考えたのだ。
一時間後、姫首相は出発した。
車を断り、電車を乗り継ぎ、水槽山の麓に着く。
予想通り女性SPのピエスも隣にいた。
いつもは黒のスーツだが、山でそれは目立つと考えたのか、大学生が休日にハイキングに行くような風貌である。やや色素の薄い茶色がかかった髪の上に、帽子がのっている。背中には白いリュックサックを背負っている。
楽しそうな様子はない。任務のために緊張している様子もない。このSPは普段から、あまり表情がない。
まだ冬の匂いが残っている季節だった。うっすらと肌寒い。
観光地だけあって人が目立つが、変装のおかげか、まさかこんなところに要人がいるはずがないという先入観のためか、あるいはそもそもプライベートで山に来ているがゆえ、平素ほど威厳ある国家元首らしい立ち振る舞いを意識していないがためか、姫首相だと気づかれた様子はない。
人の流れに沿って歩くと、ほどなくして大きな看板が見えた。
山の頂上に向けて六本の曲がりくねった線がのびている。それぞれが登山道なのだろう。大勢の人がそれぞれ思い思いの道へと分かれて向かっていく。
(たしか一番険しいのが六号路でしたね)
姫首相は地図を読むのが苦手であったが、どうにかここだと当たりをつけて進むと、果たして六号路とかすれた字で書かれた石柱があった。
六号路は岩や木の根でデコボコしている上に滑りやすく、その割に特筆すべきほど水槽が多いとか、ドロキンがたくさんいるといった見所があるわけでもないため、一番人気がない。
目立つことを避けるがための配慮である。
寂しくはあるが、ピエスがいるから一人ぼっちではない。
そのピエスはさきほどから一言もしゃべらない。
もとよりこの若いSPの口から「かしこまりました、姫首相」以外の言葉を聞いたことがない。
自然の中で何かを得るのが今日の目的であったため、騒がしくなく、かつ寂しくない程度に隣にいてくれるのはありがたかった。
早速登る。
登山などしたことのない姫首相であったが、思ったほど苦心なく登ることができた。
ほどなくして、最初の水槽が見えた。
登山道から脇にそれた先の崖に、洞窟のようなくぼみがある。そのくぼみの中に、水槽があった。
行ってみると、濁った水の中がときどき黄金色に光る。ドロキンだろう。
これがかの神秘的な水槽山のドロキンなのですね、と思った。このような光景を次々と目の当たりにすれば、脳が良い意味で刺激され、現状を打破する政治上のアイデアが湧いてくるに違いないと思った。
湧いてこなかった。
足を繰り返し動かした。汗をかいた。水槽を見た。ドロキンが水面から飛び跳ねる様も見た。
すれ違う人に挨拶をした。口を開くと声や口調で正体がばれかねないので、帽子に軽く手をやる程度である。汗水を流して苦労することこそ尊いという思想を持つ十字国民は、登山道で汗をかいている者同士が出会うと自然とほほえみ合う。姫首相も帽子に手をやって軽くほほえんだ。相手もほほえみ、挨拶をする。
そうして歩を進めた。
山道にでんと鎮座する大きな水槽に驚いた。渓流に半ば沈んでいる水槽のキラキラと神秘的に輝く様に、おお、と声を漏らした。
やがて視界の左右を覆う木々が突然途切れる。ついに山頂に着いたのだ。
が、これといった思案は湧いてこなかった。
山頂にいてもやることがない。
腕を組み、下々の者の暮らしを眺めるような表情で、下界を見下ろす。それだけである。
ピエスも特に何も言わない。この女は、例えこの瞬間に巨大隕石が落下してきたとしても、「かしこまりました、姫首相」とだけ言って、姫首相を抱きかかえて黙々と避難するに相違なく、姫首相もそれはわかっていたが、とはいえ、何も言われないのは、なんだか自分がつまらないことをしているような心持ちにさせた。
さきほどまでピエスのことを「静かでいい」と思っていたのに、勝手なものですね、と姫首相は思い、それがために自己嫌悪に陥って、ますます気分が沈む。
下山する。
行きとは違うコースを選ぶ。
しかし、それでも同じである。
水槽はたくさんあった。また、下りは登りよりも滑りやすいとか、一度転びそうになった時にピエスがいつの間にか転ぶ先に回り込んでいて手をぱしっとつかまれて驚いたこととか、下りのはずなのに時折上り坂になって思わず道を間違えていないか周囲を見渡してしまったとか、そういった出来事もあった。
けれどもそれだけだった。
見覚えのある登山口に着いた。ゴールである。
こんなものでしょうか、という気分であった。人生初の登山である。もう少し何かあってもいいような気がした。
一方で、観光地に行ったくらいで何かがあるわけでもないですよね、という思いもあった。
土産物屋が見える。
何かアコに買ってあげましょう、と思った。アコビトが喜びそうなものはなにかを思い出そうとする。
その時である。
――姫ちゃん。わからなくなったら、やってみるといいの。
姫首相の脳裏に、アコビトの言葉が浮かんだ。
――絵を描く時も、まず手を動かしてみるの。そうすれば、なんかいろいろ、わかるの。
「やってみる……」
姫首相はピエスの存在も忘れて、声に出してつぶやいていた。
(やってみるとはこの場合どういうことでしょうか。わたしは今、共感政策をどのように実現したらいいか悩んでいます。やってみるというのは……)
考えながら歩き回る。
登山前に見かけた、登山ルートを示す看板が目の前にあった。
看板には山の麓が描かれている。山頂が描かれている。麓から幾筋もの登山道がのびている。道は様々だが目指す先は同じ山頂である。
そうして、たくさんの観光客が様々な登山道を選んで登っていく。
頭の中に何かが浮かび上がりそうな気配がする。
浮かび上がったものをつかみ取るのに、誰かの手助けがほしい。
携帯電話を取り出す。
アコビトに電話をかける。
「姫ちゃん?」
受話器口から出て来たふんわりした声に、ほっとため息をつく。
ああ、どうしてこんな簡単なことができなかったのでしょう、と思う。
ピエスに聞こえないよう、口と通話口を手で押さえる。
小声で事情を話す。
共感委員会の活動は非公開である。守秘義務の制度が整ってきたこともあり、共感政策の話だとは言えない。
近々ある政策をやろうとしているのだが、みんなバラバラな実現案を出すため、まとまらなくて困っている、と言う。まるっきりの嘘ではないとは言え、ごまかすような言い回しに心苦しさを覚えながらも話し終えると、アコビトから返ってきた答えは単純明瞭だった。
「うんとね、全部やるのはできないの?」
「全部……」
聞くとアコビトの主張はこうだ。これまで提案された共感政策全てを実行してみたらいい。シンプルかつ明快である。
何を無茶なことを、と一瞬思う。そんな予算も時間もないから困っているのでしょう、と。
けれども次の瞬間、閃いた。
「そうです、そうですよ、アコ! ナイスです。全部やってみればいいのです!」
思わず声が大きくなりそうなのをどうにか抑えながらも、しゃべるのは止まらない。
「全部やるんです!
ただし、ひとつひとつは、規模や地域や期間を限定して、ごく小規模に実施するのです。それなら一通り実施できます。
それで上手くいった案を、後から大規模に実施すればいいんです。
天才なら、すばらしいひらめきでズバリ一点突破を目指すのでしょうが、我々は組織です。人の数にものを言わせて、出て来た案を全て小規模な形でやってみて、上手くいったやつを正式採用すればいいんです。
これです、これ。決めました。決めましたよ!」
大人数でいろんなルートから山を登れば、一人くらいは頂上に辿り着くだろう、という発想である。
辿り着くルートが見つかったら、そのルートに大々的に人を送り込んで開拓・整備すればいい、という発想である。
思いついてみるとひどく単純で、けれどもまさに今必要としているアイデアに思えた。
姫首相は何度もアコビトを讃え、アコビトが恥ずかしさと嬉しさの混じったような声で受話器越しに「もうわかったから!」と言うまで褒め通し、(ああ、やっぱりわたしにはアコビトが必要なんですね)と思うのだった。
休みが明けると、共感委員会の席上で、姫首相はこれまで出て来たアイデア全てを小規模な形でテストすることを宣言した。
「まずは全部やってみて、その結果を見てこれからどうするかを決める。何か意見は?」と姫首相が問う。
ある者は良いアイデアだと言い、ある者はともかくも自分の案が採用されたのでメンツを守れたと満足し、ある者はそう上手く行くだろうかと懸念を示しながらも首相が決断したのだから従うのが筋だろうと表だっては何も言わなかった。
委員会は総じて姫首相に賛意を示した。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
次回投稿日は明日となります。




