幕間 共感甘味説と共感最強説
文化人類学者のアサ・トゥーマは悩んでいた。
彼の持論は「言語を見れば文化がわかる」というものである。
ある民族がいる。
その民族が使う言語の中から、必ず良い意味に使われている語を洗い出す。同時に、必ず悪い意味に使われている語も洗い出す。
そうして並び立てると、おおよそ、その民族がどのような文化であるかわかるのだと言う。
言語をもとに人間の本質を見いだそうという点で、彼は十字国の共感案提案者であるカン・アンキョウと似ているが、実際のところは言語学者である妻からの影響が大きいだろう。
その妻の協力のもと、トゥーマは何百もの民族とその言語について調べた。
すると、ひとつの事実を発見した。
いくつかの文化において、共感という語が無条件で良いものとされているのだ。
代表的なのが十字国である。
「正直理解に苦しみました」
とトゥーマはある時、インタビューに対し、答えた。
「なぜって、僕の国では共感というのは、毒にも薬にもなるものと扱われていたからです。
怒りと同じ扱いですね。時には怒ることも必要です。でも、怒りすぎると迷惑ですし当人の健康にも悪い。
共感も怒りも、プラスマイナス両面を持つ感情であり、それが当然と心得ていました。
だから共感は必ず薬になるとする思想に、びっくりしてしまったんです。
例えば、僕が取材に行った十字国の人たちは、共感しないものに対してひどく冷淡でした。誰かから何か話を聞いても、えっと、話というのは身の上話でも噂話でも創作話でも何でもいいのですが、ともかく話を聞いた人が『共感しない』と言ったら、それはもう、その話自体を全く受け付けないという意味なんです。
共感は絶対的に正しいことだから、それが欠けていると、話自体にまるで価値がない、と見なしているんですね。
でも、共感って感情の一つに過ぎないですよね?
話を聞いて感情の一つである共感が得られないからダメだというのは、ちょうど料理を食べて味覚の一つである甘味が得られないからダメだ、というのと同じわけですよ。
『この料理は甘くないからダメだ』って言っているのと同義なんです。チョコレートケーキは甘いから良い料理、ピザやビーフステーキは甘くないからダメな料理、と言っているのと同じなんです。
僕は甘いケーキも共感できるお話も大好きです。
でも、ビーフステーキの塩辛さも、共感できない話を聞いた時のあの未知の領域に触れる感覚も、同じくらい大好きなんです」
トゥーマのこの主張は、共感甘味論と呼ばれている。
反論もあった。
トゥーマと同じ文化人類学者のキョーツ・ヨウサイは、共感とは絶対視するにふさわしい特別な感情であると言った。
彼は著書でこう述べている。
「人類はなぜ地上最強の生物なのか?
道具を使えるから? 頭がいいから?
違う。最大の武器は、共感し合えることだ。共感し合うと、相手に親しみを覚える。仲間になることができる。
ここで重要なのは、人間というのは、同じ思想さえ持っていれば、初対面の人同士でも共感できる、ということだ。
思想というのは何でもいい。宗教でも資本主義でも民主主義でもいい。ともかく何らかの考え方である。
同じ思想を信じている人間同士は、そうではない人間同士より、ずっと共感しやすい。
そして、民族というのは、似たような思想を持つ人間同士が集まってできたものである。
例えば私の故郷では、場の空気には逆らってはいけないとか、犬や猫は食べてはいけないが牛や豚は食べてもいいとか、人に親切をされたら金銭でお礼をするのは失礼で、行為や贈り物でお礼をするのが自然だとか、年長者は敬わなければならないから食事会などで最年長者が話し始めたら周りの人間は口を挟まずに黙って聞いていなければならないとか、そういう民族共通の思想が数え切れないほどたくさんある。
だから、同じ民族の人間同士が出会うと、たとえ初めて会う人同士であったとしても、この人は同じ思想を持っているんだな、と無意識のうちに安心感を覚える。他民族に対するより、ずっと多くの共感と親しみを持つことができる。
この共感があるからこそ、何十万人、何百万人という他人同士が、一つの国としてまとまることができるのだ。
その証拠に、共感がない相手に対しては、戦争だの民族紛争だの宗教弾圧だの移民排斥だのといった形で、攻撃してしまうではないか。
共感があるからこそ、巨大な集団を作り上げることができるのだ。
そして巨大な集団は文明を生む。力を生む。数十人の部族社会では、こうはいかない。何十万人、何百万人という数が、力を生むのだ。共感できるから大集団を作ることができ、大集団を作れるから力が生まれる。
ゆえに人類は地上最強なのである。
共感がなければ民族も国家もたちまちのうちにバラバラになってしまう。隣人は信用できなくなり、道ですれ違う人は誰もが敵になる。どんなに優れた技術や文明があったとしても、あっという間に戦争と内乱で滅んでしまうだろう。
我々が共感を絶対的に良いものと見なすのは、それが人類の生存にとって必要不可欠だからである」
ヨウサイの主張は共感最強説と呼ばれて、二人の論争は甘味最強論争と呼称されることになる。
もし姫首相がこの二人の説を聞いていたら何が起きただろうか、というのは歴史の「もしも」である。
二人が互いの説を発表したのは、姫首相が首相に就任する前のことであり、彼女が両者の説を知ることは、物理的には十分可能であったからだ。
だが、実際のところ、二人の論争は文化人類学会というごく狭い範囲で行われていたに過ぎず、注目されるようになったのは十字国の滅亡後のことである。
姫首相が彼らの説を耳にしたという可能性は極めて低い。
もし耳にしていれば、時期にもよるだろうが、ひょっとすると十字国はあんな事にはならなかったかもしれない。
けれども、それはあくまで歴史の「もしも」である。
結果は一つである。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回から第2章が始まります。
また明日投稿します。
2017/11/6 人物名変更