第16話 共感憲法の誕生
アコビトが共感案に対して抱いていた感情を「不安」とするなら、よりはっきりとした「警戒」を示していた者もいた。
ボス・ギッカジョーという名の十字国出身の実業家の男である。
当時、四十三歳だった。コンピュータ業界で大いに成功していた。
十三年前、メジリヒト政権が成立した時、ギッカジョーは即座に企業活動の拠点を国外に移した。自身も海外へと移り住む。メジリヒトに薄気味悪いものを感じており、このまま国内にいたのでは危ないと思ったからである。
商売の基盤があり、利権があり、また慣れ親しんだ国を捨てることに対し、従業員一同、声を大にして反対したが、ギッカジョーは国外移転を強行した。
三年の歳月が流れた。メジリヒトが独裁体制を確立し、国民は激しく弾圧されるようになった。
ギッカジョーは、どうだ俺が正しかっただろう、と言う。従業員はみな、大いに恐れ入った。
十年後、今度は姫首相が革命に成功する。
ギッカジョーは十字国への帰還を検討した。
そんなおり、共感演説が行われた。モニタ上で姫首相が「わたしはあなたに共感している!」と訴えている。従業員達は社長室を訪れ、十字国へ戻りましょう、と主張した。表情には感動の色がありありと浮かび上がっていた。
ギッカジョーは首を横に振った。
従業員達は、なぜですか、とたずねた。
「こいつはやべえ」
ギッカジョーは言った。
「とにかくやべえ。だから待て。まだ早い」
どうまずいのかと従業員達がたずねても、ギッカジョーはただやばいと繰り返すばかりだった。
相手は社長である。メジリヒトの独裁を予見した前例もある。
従業員達はそれ以上何も言えなかった。
とはいえ、このような見方は少数派であり、大多数の国民は好意的であった。
とある野菜農業を営む一家は、自分たちの作る野菜がおいしいと自信を持っており、そのため購入者からおいしいという声が届くと、そうでしょうそうでしょう、と心が通じ合ったような気持ちになるのだった。
これはきっと共感というものなのだろう、と一家は考え、共感を推進していくこれからの時代は、きっといい世の中になるに相違ないと期待していた。
経理の仕事に長くついている、とある会社員は、自分の仕事上の苦労や努力について、誰かにわかってほしいと思っていた。決して華やかなイメージの業務ではないけれども、簡単なわけでも、どうでもいいわけでもないこの仕事に関わっている自分の気持ちを、もっと知ってほしいと思っていた。
「わたしはあなたに共感している」と言ってくれた姫首相なら、こんな自分の気持ちもわかってくれるに相違ない、どうにかしてくれるに違いない、と期待していた。
廃棄された道路標識を集めて磨いて飾るという、風変わりな趣味を持つとある少女の両親は、娘が親戚や近所の人たちからまるで共感されないので、肩身の狭さを感じていた。
素人には理解できない数式やグラフを休日も嬉々として書き散らす数学者の妻もまた、同様の肩身の狭さを感じていた。
姫首相ならば、こういったこともなんとかしてくれるだろう、とこれらの人々は期待していた。
よりシンプルに考える者もいた。
なるほど言われてみれば共感はいいことだ、もっと共感がほしい、よし姫首相を支持しよう、という考えである。
政策に関係なく姫首相だから支持するという者もいた。
政治家はクリーンであることが良いことなのだから、この上なくクリーンな姫首相は最上の政治家であり、最上の政治をやってくれるだろうと思っていた者もいたし、あのメジリヒトを自身の血を流しながら命がけで倒してくれた姫首相なのだから、命がけで国民のためになる政治をやってくれるに違いないと思っていた者もいた。
いずれにせよ、多くの国民は好意的であり、ギッカジョーのように露骨に警戒心を示す者は稀だったのである。
◇
演説から一週間が過ぎた。
議員投票が行われた。
居並ぶ数々の案の中で、共感案は圧倒的多数を得て採用された。
二週間後には国民投票が行われた。
共感案の可否を問う投票であったが、こちらも下馬評通り、大多数の賛成票で投票箱が埋め尽くされた。
ただちに憲法委員会が発足し、新憲法の執筆が開始される。
ベースは立憲君主制時代の憲法である。
ただし、その第一章は「共感」と冠され、
「国民全員が最大限、共感し合えるような社会を作ることを恒久的に強く目指すこと」
「そのために必要な法律を制定すること」
「共感し合える社会が実現するまで恒久的に法律の制定と改正を続けること」
などが明記してあり、新しい国家の指針がどこにあるかを明確に示していた。
第一章の他にも、例えば基本的人権の条文には人権の要素として「十分に共感が満たされること」と書かれ、また法の下の平等の条文には「何人も等しく共感を得る権利がある」と書かれるなど、そこかしこに新国家方針の影響が見られた。
共感関係以外でも、いくつか変化が見られた。
代表的なのが国政選挙に関わる条文である。暫定政権が決めた「被選挙権は十六歳以上」と「国政選挙時には首相推薦投票も併せて行う」という二つのルールが、そのまま新憲法に盛り込まれた。
つまるところ、正式採用されたのである。
同時に首相権限も期間限定で拡充された。
首相単独による、法案提出権、法案と予算の拒否権、各省庁の局長以上の任免権、憲法改正の国民投票要求権、などなど従来の首相が持たない権限が付与された。
これらは十年後には内閣全体の権限、つまり閣僚全員が賛成しないと行使できない権限に制限されるのだが、それまでの間は首相単独で振るうことができた。新政府創設期の混乱を抑えるためには首相に強い力が必要だから、という名目である。
(みなさんはわたしをメジリヒトにしたいのでしょうか?)
姫首相は憲法条文については、大まかな方針を示し、また意見が割れた時に裁決の決断を下し、最終的なチェックをするという役割を負っていたが、条文の細かいところまでは口は出さなかった。
それゆえ、思ったよりも拡充されている首相権限に驚いてしまうのだが、それだけ多くの期待を背負っているという事実は理解しており、期待されている以上はそれに応えたくなるがゆえに、断ることはできなかった。
新憲法の草案ができると、幾度かの議論を経て修正が入る。修正が済めば、再び議員投票と国民投票である。
それらを無事通過し、新憲法が発布されたのは、国家方針案が可決されてから半年後のことであった。
正式な施行はさらに半年後であるが、新憲法は既に実質的な憲法として効力を持ち始めていた。
一例として、選挙法が新憲法に基づいて改正された。
これにより、革命後初めて、正式な憲法に基づく正式な選挙が実施されることとなったのである。
この選挙で姫首相は二度目の首相当選を果たした。
立候補はしていない。
そろそろ国民の熱気も落ち着く頃合いだと思っていたのだが、どうやらその日はとうぶん来そうにないと姫首相はあきらめるのだった。
前回の選挙ではバラバラだった政党もまとまりつつあった。
とりわけ多数の議席を獲得したのが共感共栄党と共感推進党であり、二つの党を合わせるとどうにか過半数の議席を得ることができた。
両党は政治思想が近いことから、半年後には合併して共感共栄推進党、通称共共党となり、姫首相内閣下において、多くの閣僚を輩出することになる。
無論、新国家体制の最大の目玉は選挙ではない。
共感政策である。
「国民みんなが共感し合える国」を実現するために姫首相が何をやるのか、どんな政策がとられるのか、期待と注目が集まっていた。
二度目の首相当選を果たしたことから、姫首相は覚悟が決まっていた。
もとより共感案を採用したのは自分である。
「であれば、最後まで面倒を見るのが筋ですよね。いえ、もちろん途中で国民から愛想を尽かされるかもしれませんが、それまでは全力で国民みんなの共感が満たされるように、がんばって期待に応えるべきですよね」
「うん、期待してる」
アコビトは言った。
心の内では、共感政策に対する得も知れぬ不安はきっと気のせいなんだと、自分に言い聞かせていた。姫ちゃんがこんなにも熱心にやっていることなのだから、きっと正しいことに違いない、訳のわからないことを言って邪魔しちゃいけない、と思うようにして、心配な気持ちを押し込めていた。
姫首相は十七歳になっていた。アコビトは九歳である。
革命から一年が過ぎていた。
第1章完
第2章に続く
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
第1章はこれで完結です。
幕間話を1話挟んだ後、第2章が始まります。
次回は明日投稿します。