第12話 憲法がない
「憲法がない」
議員の一人が言った。
そういえばそうだ、と皆気づく。
今の憲法典はメジリヒト時代に作られたものである。
無論使えない。
メジリヒト以前の、立憲君主制時代の憲法に戻すというのもためらわれる。
何しろその憲法下でメジリヒト政権を生んでしまったのである。
西の果ての島国では、国体という単語が、同時に憲法も意味すると聞く。
憲法とはまさに国体である。国のありようを示し、国家がそのありようから外れて暴走しないよう拘束する法である。
その拘束に失敗したから独裁者を誕生させてしまった。
何も変えなければ、また同じ悲劇を繰り返してしまうかもしれない。
何かを変えなければならない。
では、早速、新憲法を書くか?
それも悪手である。
というのも、憲法を作るには何ヶ月もかかる。
それだけ時間をかけて書いて、国民から反対されたら、数ヶ月が丸々無駄になる。
そこでまず方針を示す。
こういう方向で憲法を作りますよ、という指針を示すのだ。
憲法の方針とは、すなわち国家理念である。「どういう国にしたいと思っているのか」を示した国家の方針である。この先何十年何百年にも及ぶ国家の長期的な進路である。
わかりやすくするため、キャッチフレーズもつける。
「とにかくみんなで競争して金持ちを目指す国」や「ゆりかごから墓場まで手厚く保護する福祉国」といったものである。
国民や諸外国にわかりやすく示すため、方針案の最も肝要な点を二十文字以内の言葉に込めるのだ。
つまり、国家方針をキャッチフレーズ付きで明確に示し、国民の合意を取り付けた上で、それに基づいた憲法を作るべきではないか。
議員達は、議論の末、このような結論を得た。
実のところ、このやり方は百五十年前に憲法を作った時の手法そのものであった。
先例があれば、決断のできない議員達でも意見をまとめることができる。
ところが、そこから先が何も決まらない。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎても何も決まらない。
意見は大いに出る。
大臣経験者だの、元官僚だの、学者だの、元軍人だのが、もっともらしい国家方針案を提案する。
わかりやすいキャッチフレーズも添えられている。
が、決まらない。
皆が皆、自分の意見を主張するばかりで、バラバラである。
多数決をやったところで、票は広く浅くバラけるばかりで、誰も納得しないだろう。
姫首相自身が独断で選ぶか、せめて二つか三つに絞らなければならない。
他に決められる人間はいない。
しかし、どの案もそれらしい良いことが書いてあるように見える。
どうにも選びきれない。
姫首相は途方に暮れた。
◇
そんな日が続いた、ある晩のことである。
姫首相は自室でアコビトと二人きりでいた。
じゅうたんの敷いてある床に、姫首相は座っている。その姫首相に寄りかかるように、また包み込まれるようにして、アコビトも座り、スケッチブックに絵を描いている。
その絵が描き終わり、双方、感想を言い合い、一段落ついた頃のことである。
「ねえ、アコ、どうしましょう?」
姫首相は、そう悩みを漏らした。
国家方針を一体どうするべきか、その答えが見つからないのである。
当時の十字国は、国家制度がまだ整っていなかった。この時分は、まだ守秘義務というものが大らかだった。ゆえに姫首相は大手を振ってアコビトに政治の話ができたのだった。
「どれももっともな案で決め手がないのです」
困惑と焦りの混じった声で姫首相は言った。
例えば、軍人出身の議員が提出した国家方針案がある。
国防に必要な軍事方策がまとめられている。要点が簡潔にキャッチフレーズとして示されてもいる。国民の安全を守ることが第一だと言われれば、なるほどその通りである。
あるいは、経済学者の肩書きを持つ議員の案がある。
景気刺激策の方法が丁寧に書かれている。肝要な点が短くキャッチフレーズとして提示されてもいる。景気が悪いと他の全てが良くても国民は不幸になる、と言われれば、なるほどその通りである。
どれも、もっともなのである。
姫首相はひとつに絞りきることができなかった。
この姫首相の質問に対し、アコビトは「んー」と首をひねる。
それからこう言った。
「姫ちゃん。わからなくなったら、やってみるといいの」
後ろから抱きかかえる姫首相を振り返るように、いつものふんわりした口調で言う。
「絵を描く時も、まず手を動かしてみるの。そうすれば、なんかいろいろ、わかるの」
国家方針案を決めるのに「まずやってみる」というのがどういうことなのか、言っている本人にもわかっていない。
問いかけられた以上、何か答えなきゃ、と口を開いたら、そういう言葉が出て来たというだけである。
「やってみる……」
一方、姫首相はアコビトの言葉を繰り返していた。
何かしらヒントになりそうな響きを感じていたからだ。
そうして言葉を繰り返していると、ふと自分が今、私邸の自室にいることに気がついた。
無論、自室にいるのは当たり前である。
そういった当たり前すぎて意識していなかったことを、あえて意識してみる。
部屋は四角い空間で区切られている。
考えてみると、国も同じである。領土というもので区切られている。
領土には国民がいる。この部屋にも今、人間が二人いる。
「アコ」
姫首相は言った。
「国ごっこをやりましょう」
姫首相は、背中から抱きかかえているアコビトをそっと引き離すと、床に二人して座って向かい合った。
「この部屋を国と見なすのです。人口二人の小さな小さな国です。たった今、独立したと考えるのです」
「んーと。ここが国?」
「そう、国です。となるとですね、この国の国家方針はどうなるのでしょう?」
姫首相は自らの問いかけに、ちょこんと指をあごに当てて(どうなるのでしょうか?)と考える。
領土は部屋一つ。国家資産はいくつかの家具と寝具と衣類と本。
さて、小さなこの国が目指すべきところは何か?
「食べ物がないですね」
姫首相は言った。
「おなかすいちゃう?」
アコビトが首をかしげてたずねる。
「すいちゃいますねえ。どこかから食べ物を持ってこないと。となると、国家方針は、食べ物を集めること、なのですかね……?」
姫首相は自問自答する。何か違和感を覚える。
「食べ物を集めるのが政治?」
アコビトが、そう口にする。そしてこう続ける。
「ん、あれ? 政治ってなに?」
「政治とは……」
姫首相は口ごもる
「政治とはですね」
「うんうん、なになに?」
姫首相は考え込む。
政治とは何か?
食べ物を集めることか? 言い換えれば民を飢えさせないことか?
古代の王が「政とは、これすなわち、民を飢えさせぬことなり」と言えば、それらしく聞こえる。
しかし、近代国家においては違和感がある。世界中で起きた王室打倒ブームも、十字国でつい数ヶ月前に起きた姫革命も、民衆の多くは別に衣食住に不自由はしていなかった。腹一杯なのに革命は起きたのだ。
しかし、今、この二人きりの小さな国で何よりも成すべきことは食糧の手配である。
それは間違いない。
そこで姫首相は、自分がどんな思考経路で食糧手配をすべきと考えたか、振り返ってみた。
(えっと、まず部屋全体を見渡して、今どういう状況かを確認したのですよね。
そうしたら、食べ物がないことがわかりました。
このままじゃ、わたしもアコも飢えちゃいます。国民みんなが飢えちゃいます。国が滅んじゃいます。
これはとてもまずいことですよね。人間と同じように、国の一番の目的は生きのびることなのですから。
だから、手段として、食べ物を集めることを提案したのですよね)
「……ようするに政治ってこういうことなのではないでしょうか?」
姫首相の身体が思わずぶるりと震えた。
何かとても大事なことがわかった気がしたからだ。
忘れないうちに言葉にしなきゃ、と思う。
「決めました。政治とは何かをお答えします」
姫首相はアコビトに向き直ると言った。
「決めました」という言葉に、自分の中で、政治とはこれこれこういうものだと決めたのだ、という意思がこもっている。
アコビトの目が「なんだろ、なんだろ」ときらきらする。
「まず、国全体を見渡して、現状を把握します。
次に、国の目的が満たされているかを確認します。
目的は複数あり、優先度別に分かれています。優先度の高い目的から順に、満たされているかチェックします。満たされていない目的を見つけたら、手段を講じます。
以上です」
一気に言う。
アコビトは、きょとんとした顔で首をかしげる。
「よくわからないですよね」
姫首相は笑った。
「じゃあ、実際にやってみましょう。まず、国全体を見渡して、現状を把握します。さあ、アコ、わたしたちの小さな国を見てください」
「んと」
アコビトは部屋を見渡す。
「部屋があるの。それから、机とかベッドとかクローゼットとかがあるの」
ひとつひとつ小さな手で指さしながら言う。
「はい、そうですね。
では、次に、国の目的が満たされているかを、優先度順に確認します。最優先目標は、とにかく国民が生きのびることです。
アコ、もしわたしとあなたがずっと何ヶ月もこの部屋にいたとして、生きることはできますか?」
「んー」
アコビトは首をかしげて考え込むが、すぐにこう答える。
「できないの。食べ物がないの」
「はい。ということは、生きのびるという目的が達成できません。じゃあ、どうすればいいでしょうか?」
「どうにかして、食べ物を集めるの」
「そうです。後は専門家に依頼して食べ物を集めさせます。これが政治です」
「んっと……これだけ?」
「そう、これだけです。現状を確認する。やりたいことができているかをチェックする。できていなかったら専門家にやらせる。以上です」
「おおっ!」
アコビトは、やっとわかったという顔をする。
すごいすごい、と拍手する。
「えへへ、ありがとうございます」
姫首相は、そう言って、長いつややかな黒髪を指でいじくる。
照れた時、彼女はよくそうする。
そうして笑う。
姫首相もアコビトも、自分達が奇妙なことをしている、ということに気づいていなかった。
十六歳と八歳の子供が、国家の行く末を決める相談と決断をしようとしている、というある種の異常な図式に気がついていなかった。
このまま話を進めていくと、いよいよ重大な決断に踏み込むということにも、気づいていなかった。
もっともこの奇妙さが、奇妙だからという理由で是正されるべきものであるかは、まだ誰にもわからない。姫首相が、ただちに八歳の子供と政治の相談するのをやめ、代わりに、しかるべき専門家達と、しかるべき議場で、しかるべき手続きを踏んで、会議を行うべきであるかどうか。そうすることが、十字国にとって、より良い未来をもたらすかどうかは、誰にもわからない。
姫首相は、さらに思考を進めた。
(そうなると)
姫首相は考えた。
(生きるという最優先目標が達成されたとしたら、その次に成すべき目標は何なのでしょうか?)
お読みいただき、ありがとうございます。
また明日投稿します。