プロローグ2:お嬢様は朝が弱い
とかくソフィ・ユースティティアは朝が弱かった。
夜が明けて、起きる時刻になっても身体が動かない事などしょっちゅうだったし、彼女自身も動く気がないというのもある。ベッドの中でごろりと丸まって夢の世界へと旅立っていれば幸せだったし、誰にも邪魔されずに過ごせる素敵な空間ができあがる。
今日もそうやってむにゃむにゃと惰眠を貪っていれば、こんこんと小さいノックの音が聞こえてきた。
ああ、今日も一日が始まるのか。
控えめに開かれた扉から、するりと随分と背の高い男が、音もたてずに入ってくる。
彼はソフィを一瞥し、少しばかり溜息をつく。柔らかい絨毯を踏みしめ、彼女のベッドを素通りすると、厚手のカーテンを思い切り開いたのだ。
「さあ、お嬢様。朝ですよ!」
霧が晴れ、窓からは珍しく綺麗な日光が差し込む。庭先では植物たちが日光浴をしているが、ソフィにとってはたまったものではない。咄嗟にシーツの中へもぐりこみ籠城するが、男に通じる訳もなく瞬く間にシーツを剥がされてしまう。
「アーロン!」
「おはようございます。お嬢様
今日もかわいらしくて、このアーロンは幸せですよ」
「嫌味? 嫌味なの?この駄犬は」
にこりと微笑むアーロンという男に対し朝から機嫌が悪くなるソフィは、寝起きの目で彼を睨み付け蹴り飛ばす。だがそれは男の太腿に軽く当たっただけだった。
アーロンはそんな彼女を嗜めてから、思い出したかのように口を開く。
「お嬢様、お着替えください
下でギルバート様がお待ちでございます」
「ギルが?」
客人の名前を聞いた彼女は寝起きから一気に覚醒すると、ベッドから立ち上がりクローゼットへと向かう。そのままくるりと振り返り、未だににこにこと笑うアーロンへ声を掛けた。
「アーロン、お茶を用意なさい。
きっと碌でもない用だと思うから、濃い目のをたっぷりとね
それと、申し訳ないのだけれど朝食なんて食べている暇もなくなるだろうから、軽く摘まめるものをちょうだい」
「承知いたしました。お嬢様」
彼女の用事を聞いたアーロンは心得たと一礼すると、先ほどと同じように音もなく部屋を出る。
それを確認してからソフィは着ていたパジャマを脱ぎ捨てる。
「まったく、本当に碌な用事じゃないといいけど」
◇
ソフィが着替えて下の応接間へと現れた時には、ギルバートはいつもより難しい顔をしてソファに腰かけていた。
「ごきげんよう」
「ああ、すまない。朝から」
ギルバート・ティンバーレイク。
細身のアーロンと違い、がっちりとした体型のこの男はこの霧の街の安全を守るヤードで、この街においては珍しいくらいに男女について差別をせずに平等に評価をする。そのためか、ソフィはこの男の事を気にいっていた。
「さて、ギル。貴方は【何時間】寝ていないの?」
「は?」
「私の見立てではざっと丸一日、下手をしたらそれ以上かしら?
そろそろ休んだ方がいいと思うわ」
「何故それを」
「まず、貴方の目の下。酷い隈よ。
次に衣服の乱れ。普段はきっちり着こなしている服も、皴だらけだから。随分と長い時間その服と共にしているのね」
唐突に言われた言葉にギルバートは固まるが、それがでまかせではなく真実だったからだ。
こちらに尋ねる用事が急きょ入らなければ、丸々一日を費やした仕事の後で自分の安アパートで休むつもりだったのだ。だが残念ながら衣服を整える前に彼女の元へと赴く事となってしまった。
「簡単な観察だけれども、やっぱりヤードの仕事って大変なのね」
そんな彼の前に着席し、先ほどアーロンが淹れた紅茶を飲む。少々苦みがある程に濃い目に淹れられたそれは、彼女の目を醒まさせるにはもってこいの代物だ。
目の前の客人も差し出された紅茶を飲む。
そうして、数時間にも感じる重い沈黙が流れたところで、ギルバートが重々しく口を開いた。
「実は、ほんの3、4時間程前に殺人が起こった」
「あら」
どうせ盗難や貴族間の問題についてかと思っていたが、今回は勝手が違ったようだ。溜息をついたギルバートが、自分の切りそろえられた短い髪をがりがりと掻きむしり、まるで罪の告白のように言葉を紡ぐ。
「殺されたのはアラベラ・エドウズという女性。年齢は38歳。
娼婦をやっていて、殺される前日も酒場で客引きをしているところを目撃されている」
「それで、殺害された場所は?」
「それが、なんだがな――」
彼はまた暫く黙りこくった後、紅茶を飲み干して口を開いた。
「ロンドン橋の近所なんだわ。これが」
「それは……貧民街とかではなくて?」
「ああ、残念ながらな。しかも堂々と荷物のように置いてあったそうだ」
それを明朝新聞配達をしていた少年が見つけたらしい。そうギルバートが締めてから、彼はスコーンに手を付ける。寝ていない事も手伝ってか随分とくたびれている。おまけに、先ほどまでずっと捜査に回っていたのだろう。
「まったくもって、碌なもんじゃねえよ
死体は肉屋で処理されたかのような有様だしな……」
「ギルバード様」
「すまねえ」
おそらく【見る】羽目にはなるのだろうが、食べている時に話す内容ではない。少女の後ろに控えていたアーロンが嗜めれば、片手を挙げて男は謝罪する。普段はこういった事を話題に出さないのだが、どうやら精神的にも参っているようだ。
「私には現状が把握できていないので、何とも言えないのですが
貴方は私に【何を】強力してほしいのですか?」
数回目の溜息をつく男をよそに、ソフィは用意された2杯目の紅茶を飲み、スコーンを食べ終えた後で、まっすぐ射貫くように男を見た。
「ロンドンの平和を。ミス、ユースティティア」
「よろしくてよ。その依頼引き受けましょう」
そうして、ソフィ・ユースティティアの数度目の事件は幕を開けたのである。