9.教育的指導
「長谷川君? 昼休みにここで先生に言ったこともう一度言ってみてくれる? なんだか、先生度忘れしちゃったみたいなの」
キレイな笑顔を俺に向け、穏やかな声で言葉を発するは、マドンナこと我が担任数学教師、神楽先生。いやあ、それにしてもさすがは、神楽先生。もう二度と遅刻しませんという誓いをたった三十分足らずで破った不届きな生徒を前にして、この落ち着きぶりはどうだろう。そうそう、人にはそれぞれのっぴきならない事情があるもので、まずは生徒を信頼してそののっぴきならない事情を問いただすのがあるべき教師の姿ですよ。うん。で、なんで俺今職員室の床に正座させられてんスか?
「あの、神楽先生。とりあえず、俺の話を聞」
「今のお前に発言権はねえ」
キレイな笑顔のまま、黒い台詞を吐く神楽先生。ちょっと、ほら。周りの先生方があんたの迫力に引いてますから。
「で、長谷川君? 昼休みに先生になんて言ったっけ?」
「……今後絶対遅刻しません。今までのことも全力で謝ります。だから、夏菜の遅刻分を俺に回してください。お願いします」
「そうそう。そんなこと言ってたね? 土下座までして、正直先生あれはウザイったらなかったなー」
そう言って、やはりキレイな笑顔のまま、俺の足を椅子に座ったままで、ゲシゲシと蹴る神楽先生。いや、痛え! 痛え! あんたの拷問(五時間目の授業遅刻した罰に、以降の授業、休憩時間ぶっ通しで床に正座させられてました)のせいで今俺の足痺れまくってますから!
「先生、長谷川君のこと信じてたんだよ? ねえ、信頼してた可愛い教え子に裏切られた先生の心の痛みが分かる?」
いや、痛えのは俺の足だから! 足蹴らないで、足! ってか、信頼してんならまず遅刻の理由聞け、ごらあ!
「ん? なに、その目。何か言いたいことでもあるの? 遠慮しなくてもいいんだよ?」
しかし、俺の足を蹴る神楽先生の蹴りの威力がヒートアップし、俺は「あぅ、あぅ」とまともに言葉を発せぬまま、とうとう正座を崩し、床に転がり込んだ。が、神楽先生は陸に打ち上げられた魚のごとくまともに動けない俺に情けもかけず、俺の足をなおもゲシゲシと蹴り続ける始末。……この人絶対Sだ。つうか、これって体罰じゃね?
と、そこで職員室の扉が開き、一人の教員が職員室の中に入ってきた。その眼鏡をかけた柔和な顔をした若い男性教師は、職員室の片隅で繰り広げられている光景を目の当たりにし、一瞬絶句した後、恐る恐るこちらに近付いてきた。
「あ、あの、神楽先生? 一体なにを……?」
「あ、どうも、白川先生。お気になさらないでください。ただの教育的指導ですから」
しかし、あぅ、あぅと鳴き声を上げる俺を見て、白川先生は「あれ? その子、確か長谷川君ですよね?」と声を出した。
「あら、白川先生。あなたの受け持ちは一年生でしたよね。この馬鹿のことをご存知ですの?」と白川先生に笑顔を向けた後、神楽先生は「お前はまたなにやらかしたんだ? あ?」と俺をにらみつけながら、ドゲシ、ドゲシと今度は俺の足を上から踏みつけ出した。
「……! ……!」
声も出せず反り返る俺。そして、白川先生は笑顔で「いやあ、実は昼休みにウチの生徒の一人がいなくなりましてね。実はその生徒というのは、ちょっと障害のある子でして。長谷川君は、わざわざその子をウチのクラスまで送り届けてくれたんですよ。いや、ほんとに助かりました」と言い放った。
「……え?」
途端に、引きつった声を出して固まる神楽先生。そして、ようやく地獄から開放された俺は、カサカサとゴキブリのごとく地面を這い、神楽先生から逃げ出した。
「で、どうしたんです? 長谷川君、何をしたんですか?」
「え? あ、いえ、大したことじゃないんですのよ。ほほほほほ……」
あー……。とりあえずぶん殴っていいですか、クソヤロウ。
「……あ」
「あ……純」
ようやく誤解も解け、職員室から出ると廊下でばったり夏菜と出くわした。いや、出くわしたというか、どうやら夏菜は職員室の前で俺が出てくるのを待っていたらしい。いや、まあ、昼休みのアレからまともに言葉も交わしてなかったしな。話はせずとも、お互い気まずい空気は感じていたわけですよ。しかし、まあ、僕ちゃんには気まずい空気の中「よう、夏菜!」と切り出す度胸がなかったわけで。正座地獄でそんな余裕もなかったわけで。今立っているだけでも非常に辛いわけで。
「ぃ、いよう、夏菜……」
「……だいじょぶ?」
ガクガクと足を震わせ、しまいには廊下に座り込む俺を見て、夏菜は目を丸くした後に、心配そうな顔をして俺に声をかけてきた。
「いや、マジでひでえ目に遭ったぜ。こちとら人助けしてきただけだってのに、なぜあんな拷問を受けなきゃなんねえんだ。訴えてやるぞ、コンチクショウ」
俺の言葉に、夏菜は「純は素行が悪いから」と言って苦笑した。ちなみに、六時間目の授業の際に全力で自分の無実を訴えてますから、クラスメイトの皆さんは、俺の無実を知ってます。はい、誰一人神楽先生には意見できませんでしたとさ。
「いや、いや、そこは素直になれない可愛い生徒の善行を導き出してあげようよ。教師として」
「そんな押し付けがましい教師の理想像を神楽先生に求めてもねえ……」
「だな……」
今、男子生徒の声援を「うるせえ」の一言で切り捨てる神楽先生が頭に浮かびました。
で、話題がなくあえなく黙り込む俺たち。いや、いや、恐れていたことが現実に。チョー気まじい……。ってか、夏菜と二人っきりでいて、こんな風に気まずい空気が流れるなんてこと、考えてみれば今まで一度もなかったな……。
「――ごめんな」
とにかく、今俺にできることは謝ることだけだった。
「え……」
「弁当。せっかく、おばさんが作ってくれたのにさ。おばさんに謝っといて」
「あ……うん」
「もう明日から俺の分は作ってくれなくていいって、おばさんに言っといてくれな」
そばで夏菜の視線を感じる。でも、夏菜がどんな顔をして俺を見てるのかは、夏菜の方を見てないので分からなかった。そのまま夏菜の顔を見ずに、俺は腰を上げた。
「部活あんだろ? 早く行かねえと遅刻すんぞ。じゃな」
「あ……純。今日、話したいことがあるから、帰ったら――」
ひらひらと手を振って、俺は振り返らずにその場を後にした。