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73.思い出の鎖

 俺と目が合うと、夏菜はすぐに俺から目を逸らして俯きがちに足元に視線を落とした。

 なんて、声をかければいいのだろう。言葉に変えられない気持ちは、出口を求めているのに、胸につっかえて表に出てこない。気まずい沈黙の中で、夏菜からこの均衡を破ってくれるのを待つことしかできなかった。

 昨日あんなことがあったのに、今日、夏菜が学校に来ていたのは、きっとこの時のためだったのだろう。口や態度には出さなくても、夏菜が俺を待っていたことは分かっていた。一連の原因が俺自身にあることも……。

 ――時間が止まったような沈黙の中で、夏菜の頼りない声が流れた。

「どこ、行ってたの?」

 足元を見つめたまま、夏菜は俺を見なかった。そんな夏菜を目の前にして、用意していたはずの言葉は口から出てこなかった。

「なんで、何も言ってくれないの……?」

 昨日の夏菜の泣き顔が脳裏をよぎる。不安がまた、俺の中で膨らんでいく。その不安にだけ捉われて、俺は声を出した。

「夏菜……話――」

「恵美ちゃんの妹なんだよね」

 予期しない夏菜の言葉が、俺の言葉を遮った。

「え……」

「あの子、恵美ちゃんの妹なんだよね。――……なんで、何も言ってくれないの?」

「夏菜……」

「なんで私が自分でそんなこと調べなきゃいけないの? なんで私だけ、こんな不安で惨めな思いしなきゃいけないの? 今日、ずっと待ってたのに……なんで――」

 夏菜の頼りない肩が、小さく揺れた。俯いたまま発せられる言葉にまた、夏菜の泣き顔が思い浮かぶ。触れるだけで壊れてしまいそうなその脆さを前にして、俺は夏菜に触れることができなかった。 

「夏菜……聞いてくれよ。神木沙里のこと、別に夏菜に隠してたわけじゃないんだ。前に、俺、障害のある子を助けたことがあったろ。そのせいで昼休みの後の授業遅れて、神楽先生にこってり絞られてさ。その時のその子が神木沙里で……もちろん、その時は俺もその子が恵美の妹だなんて知らなかったんだ。それに、そんなことあえて夏菜に話すことでもないと思ってて……」

「なんで……そんな風に思うの? 私は、話して欲しかった」

「だ、だって、そんなこと話しても夏菜には面白いことじゃないと思うし、余計な心配もさせたくなかったし……」

「違うよ」

「え?」

「純のそれは思いやりとは違うよ。私に心配させたくなかった? 知られたくなかっただけじゃない」

 そう言って、初めて顔を上げた夏菜の顔は、昨日と同じ悲しみに歪んでいた。

「まだ、恵美ちゃんのこと好きだってこと……私に知られたくなかっただけなんだよ……純は……」

 微笑みながら、夏菜の頬を静かに涙が伝った。諦めたような夏菜の笑顔は、予感より確かに、俺の心を痛めた。

「違う。違うって……。そういう変な心配させたくなかったから俺――」

「だったら、なんで外してくれないの?」

「え……」

「そのビーズのブレスレット。私と付き合いだしてからも、外してくれなかったよね」

「――あ……」

「それでもいいって思ってたよ。私、純のこと好きだし、一緒にいるだけですごく幸せな気持ちになれるし、純だって私と同じ気持ちでいてくれてるの、感じてたし。それでいいって、思ってた。でもさ、やっぱり……駄目みたい。私……」

「夏菜……」

「好きな人が目の前で知らない女の子とキスしてるんだよ。その相手が、恵美ちゃんの妹なんだよ。これって……ただの偶然?」

 夏菜の言葉と涙に、俺の体は金縛りにあったように動けなかった。

「平気でいられるわけ、ないじゃない……」

 一緒にいられることに満足だけして、気付くことができなかった。本当は、夏菜がいつも不安を抱えていた気持ちに。気付かなければいけなかった気持ちに。

「こんなこと言ったら、純が私から離れていっちゃう気がして怖かった……。でも、今は純と一緒にいても同じぐらい、苦しいの。辛いの……。だから、私――」

 そこまで夏菜を追い詰めていたことに、今頃気付いた俺は、やっぱり救いようのない馬鹿だった。全てを否定して、今すぐ夏菜を抱き締めれば、あるいは繋ぎ止めておくことはできたのかもしれない。でも、そうできなかったのは、多分――。

「――もう、純と一緒にはいられないよ……」

 その言葉が、何よりも俺の心に重く響いたからだ。

「ま、待てよ……夏菜。外す。ブレスレット外すから――」

 慌てて左手首のブレスレットを外そうとする俺の手に、夏菜は何も言わずに自分の手を重ねた。少しだけ冷たい夏菜の手の感触に、俺は自分のしていることの無意味さに気付いた。

「駄目だよ、純」

「待ってくれよ。俺……だって、夏菜のこと――」

「思い出にさ……」

 かすれた夏菜の声が、静かな夜の空気に溶けた。

「私たち……思い出に負けたんだよ」

 

 


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