72.喪失の予感
神木沙里の住むマンションから出た頃には、すっかり陽は落ちていた。帰りの電車の中で、二日続けてバイトをサボった俺に、杏奈さんは随分腹を立てていることだろう。などと取り留めのないことを考えているうちに、家から最寄の駅に着いていた。
改札を抜けると、蟻の群れのように人が流れ出した。その中で意味もなく立ち止まって、意味もなく通り過ぎていく人たちを眺める。
雑踏の中にいても、神木沙里が俺に残したものを紛らわせることはできなかった。
よそよそしく通り過ぎていく風景の中に、俺は足を踏み出した。
帰りの道中、ポケットに入れていた携帯電話のバイブに気付いた。ポケットから取り出して確認すると、新着メールが一件。夏菜からだった。
『今どこにいるの?』
無題の、そっけないメールの本文がディスプレイに浮かぶ。今日一日、目も合わせてくれなかった夏菜からの突然のメールに戸惑いながらも、このタイミングは偶然ではないような気がした。
ちゃんと神木沙里と向き合ってから、夏菜にすべてを話すと決めていた。でも、それはただの自己満足でしかなかったことに、気付いた。
神木沙里に俺自身の望む答えを求めていたように、今、夏菜にさえ、俺は自分自身の望む答えを求めている。
今、神木沙里のことを夏菜に話そうと思っているのは、神木沙里の呪いを一人で受け止める勇気がないだけだ。居た堪れないこの気持ちを少しでも楽にしたくて、誰かに理解して欲しくて……何より、夏菜に傍にいて欲しかった。
(――言ったよね? 忘れないって……)
(お姉ちゃんのこと、好きなんだよね。――今でも)
(お姉ちゃんもあなたのことが好きだった。今でも、きっと)
拭いきれない神木沙里の言葉が、俺の不安を募らせていく。胸によぎる喪失の予感に、もう、気付かない振りはできなかった。
でも――。
俺はメールを返信せずに、携帯電話をポケットにしまった。家の門扉に背中を預けてそこに佇んでいる夏菜を、少し離れたところから眺める。不安がまた、俺の中で大きくなっていく。
――でも、手を伸ばさずにいられなかったのは、何より、夏菜を失ってしまうのが怖かったからだ。
「……夏菜」
俺の声に、夏菜は静かに顔を上げた。