71.呪い
理性を宿した神木沙里の言葉が、静かにリビングの中に流れる。そこに、いつか見た、自我を失くした人形のような神木沙里の面影はなかった。敵意とも、憎悪とも違う。ただ、神木沙里の瞳に宿った冷たい理性は、悲しいぐらい、俺の求めた答えとは違う場所に向かっていた。
「どういう、意味だよ」
それでも、聞かずにはいられなかった。
「あいつのこと呪ってるって……どういう、意味だよ」
言葉が喉の奥で詰まった。神木沙里の口にしたことを、同じように言葉にするだけで胸の奥がじくじくと痛んだ。それなのに、神木沙里は何事もなかったように俺を見ている。そんな俺を無表情で見返している。そこに、虚偽や演技なんて、どこにもなかった。
「意味なんてない」
そう言って、神木沙里は俺から目を逸らした。
「ただ、私はお姉ちゃんを呪ってる」
「……そんなの、答えになってねえよ」
俺の言葉には答えずに、神木沙里はベランダの窓を開けた。雨の季節の湿った風は、神木沙里の髪を撫でて、俺の横を通り過ぎる。窓の外の街並みは、じわじわと暗闇の膜に覆われていく。ぽつぽつと明かりの灯る街並みを見下ろしながら、神木沙里の背中はそこから動かなかった。
「ずっと、疎ましかった」
「え……」
「私の世界はずっとお姉ちゃんを中心に回ってた。母親の関心はいつもお姉ちゃんに向いてた。お姉ちゃんが病気になってからは、母親の目に、私は映らなくなった。だから、ずっと願ってた。――お姉ちゃんなんて、いなくなればいい」
そう言って、神木沙里は俺を振り返った。
「そうしたら、本当にお姉ちゃんはいなくなった」
無表情な中で、その瞳だけはかすかに揺らいだ気がした。それでも、すぐに垣間見えたものをしまって、神木沙里は言葉を続ける。
「本気でそんなこと望んでたわけじゃない。それなのに、その時、私は心の底で笑ってた。可笑しくて、堪らなかった。私の本心は、お姉ちゃんに暴かれた」
言葉とともに、神木沙里が俺の元に歩み寄って来る。
「否定したくても、出来なかった。そんな自分が許せなかった。何より、そんなお姉ちゃんが許せなかった」
後退る俺を、神木沙里はかまうことなく後ろのソファに押し倒してきた。ソファの上に仰向けに倒れた俺の上に、馬乗りになって、神木沙里は俺を見つめる。
「だから、私はお姉ちゃんを呪ったの」
言葉の分だけ、神木沙里の心が解けていく。
「大好きなお姉ちゃんを失くして、心が壊れた可哀想な妹。そんな私を見て、母親は嫌でもお姉ちゃんを思い出す。いつまでも、いつまでも、罪の意識に苛まれる。自分だけ幸せになろうなんて、私が絶対許さないから……」
「え……」
猟奇的な言葉とは裏腹なその無感情な声色は、何事もなかったように虚空に消えていった。それが、神木沙里の本心だと言うのなら、あの日の恵美の気持ちは一体誰が救えるのだろう。神木沙里の瞳は、静かに俺の心を侵食していく。
「私はお姉ちゃんが死んで生まれた結果。だから、お姉ちゃんに深く関わった人間は、みんな私を見てお姉ちゃんを思い出す。嫌でも、悲しい記憶を呼び覚ます。そして、お姉ちゃんの記憶は、関わった人間すべてを不幸に堕とす。――それが、私の呪い。私のお姉ちゃんへの復讐……」
「そんな――」
「――言ったよね? 忘れないって……」
口元を歪めて、神木沙里は俺を見下ろしながら笑った。
初めて見たその微笑みに、いつか見た恵美の笑顔が重なる。
(お姉ちゃんのこと忘れるなんて、私が絶対許さない)
あの雨の日に、神木沙里が俺に向けた言葉は、喪失の先に用意された答えだった。その答えにせめてもの救いを求めた俺の願いは、今向けられた神木沙里の微笑みに飲み込まれた。こんな時にさえ、神木沙里に恵美の幻影を重ねている自分が、どうしようもなく許せなかった。
「お姉ちゃんのこと、好きなんだよね。――今でも」
「違う……」
「お姉ちゃんもあなたのことが好きだった。今でも、きっと」
耳元で囁かれたその言葉に、俺は身動きが取れなくなった。夢と現実。記憶と思い出。俺の中のすべてをかき回しながら、神木沙里は顔を上げた。
「もし、お姉ちゃんが生きてたら、有り得たかもしれない現実。私がお姉ちゃんの代わりになってあげるから……だから、いいんだよ」
俺の上にまたがったまま、神木沙里はおもむろに身に着けていたブラウスを脱ぎ捨てた。部屋に落ちた影の中で、神木沙里の露出した肌は病的に白かった。
俺に触れる神木沙里の重みと体温が。言葉が。息遣いが。俺の心にまとわりついて、犯していく。今、ここにいるのが恵美じゃないことは分かっていた。それなのに、神木沙里の出した答えはどうしようもなく、俺の目を眩ませた。
神木沙里のしていることは、人の良心につけ込んだレイプだった。それが、恵美が死んだ結果だというのなら、そこに正しいも間違いもない。過ちだとも、否定できない。
それでも、恵美を呪うことでしか紛らわせなかったものは、神木沙里にとってかけがえのないものだったのだと思いたかった。
(いつか、あの子が爆発しちゃうんじゃないかって……私、それが心配なんだ。だから――さ)
一緒だった。俺も神木沙里も、本当は恵美の死に、折り合いなんてつけられていない。
「私がお姉ちゃんを感じさせてあげるから……」
でも――。
「……止めろよ」
俺の声に、神木沙里は俺に被せていた体を起こした。
無表情な瞳が冷たく俺を見下ろしている。その瞳を直視することはできなかった。
「誰も恵美の代わりになんてなれねえ。お前がそんなことしてる限り、恵美だって――」
俺の言葉を遮るように、神木沙里は俺から離れた。
「――あいつ、本気でお前のこと心配してたんだ……」
床に落ちたブラウスを拾って、神木沙里は俺に背を向けたまま、それを身に着けた。もう、神木沙里の瞳に、俺が映ることはなかった。
無言でリビングを出て行く神木沙里に、俺は声をかけることができなかった。