69.口実
放課後の図書室に、神木沙里の姿はなかった。以前、神楽先生からの「教育的指導」という名の体罰から俺を救い出してくれた柔和な笑顔の持ち主を思い出し、俺はその足で職員室に向かった。確か白川先生は神木沙里のクラスの担任だったはずだ。案の定、銀縁眼鏡のよく似合う優男、もとい、白川先生は物腰穏やかに神木沙里は今日学校を欠席していることを俺に教えてくれた。
しかし、神木沙里の家の住所を聞くと、途端に白川先生の顔から笑顔は消えた。どうしたの、急に? と相変わらず声は穏やかだったが、その顔にはかすかな不信が図らずも浮かんでいた。
しばらく質問に答えあぐねた結果「え、えーと……べ、別にストーカーとかじゃないですから、ご心配なく」などと自ら墓穴を掘る俺に、白川先生は眉根を寄せた。どうやら、キョドる俺の態度は、まんまストーカーだったようだ。おまけに、近くで俺たちの会話を聞いていた神楽先生が「白川先生。その年頃の男子はみんな盛りのついた猿ですので、お気をつけください」などと、口出ししてきて状況は悪化。
「いや、フォローしろ、お前」と思わずポロっと漏れた俺の本音に、神楽先生は笑顔で「今何か言った長谷川君?」と俺の足をヒールでグリグリと踏みつける始末。結局、何とか「友人のお見舞いに」という苦しい言い訳を突き通し、神楽先生の悪魔の笑顔の下繰り出されるヒール攻撃から逃れ、職員室から命からがら脱出成功。
それにしても、あのクール&ワイルドのバカめ。こっちの気も知らねえで……。いつか絶対仕返ししてやる。ヒールにこっそり画鋲仕込んでやる。
まあ、とにかく。散々ヒールに踏みつけられた足を引きずりつつ、俺は学校を後にした。
白川先生から受け取った、住所と簡素な地図の書かれた紙を頼りに、道路沿いに建ったいくつかの背の高いマンションの中から、神木沙里の住むマンションを見つけ出し、俺は一息ついた。
駅からほど近い場所に建ったマンションは、想像していたよりずっと立派なものだった。広いエントランスに、入居者の身の安全を守るための行き届いたセキュリティ。俺のような不審者は、オートロックの自動ドアから自動的にお引取りを願われるわけだ。
自動ドアの横に設置された、テレビモニターのついたインターホン。入居者はここでパスワードを入力して中に入るのだろう。来訪者はインターホンで入居者を呼び出し、自動ドアを開けてもらう仕組みか。しかし、おそらく呼び出したとしても神木沙里は出てくれないだろうという予感は、実行してみて現実となった。
エントランスの一角には防犯カメラが設置されており、いつまでもうろうろしていると、本気で不審者になってしまいかねない。仕方なく、俺はエントランスから出て、古典的な方法に打って出ることにした。
マンションから出て、防犯カメラの死角からじっとその瞬間を辛抱強く伺う。途中何度も自分のしている行為に虚しさを覚えつつも、およそ三十分後に訪れたその瞬間に、張り詰めていた俺の神経は、ここぞとばかりに反応を示した。
エントランスの奥の通路から、入居者と思しき女性の姿を視界に捉えた瞬間、俺はとっさにマンションの中に入り、ケータイ電話を片手に演技開始。女性が自動ドアを開けると同時に、素知らぬ顔でケータイ電話をいじりながら、自動ドアの内側に潜入成功。
近代科学も、人間様の柔軟な思考にはついてはこれないというわけだ。使い古された手段に打って出た自分がなにか恥ずかしいが、背に腹はかえられない。
高級ホテルのような外観を呈したマンションは、中身まで手を抜かず高級感で溢れていた。琥珀色の石材で作られた廊下は、ワックスでピカピカに磨かれ、光沢を帯びていた。壁も床と同じ琥珀で固められ、そこに漂っている空気は外とは違い、どこか柔らかくて優しい気がした。
エントランスの郵便受けで確認した「神木」の苗字の下には905と部屋番号が表記されていた。使い慣れないエレベータで9階までたどり着き、慣れない通路を歩き、目的の部屋を探す。程なく905号室のドアを見つけ、俺は一つため息をついた。
インターホンのベルに指を当て、ゆっくりとボタンを一度だけ押す。中に響いたであろう反響音は、外にまでは伝わらず、俺の指先に不安を残す。
もし、誰も出てこなければ、そのまま帰るつもりだった。ここまでしてやってきたのだから、と自分を納得させる準備も整っていた。エントランスのインターホンに出てこなかったのだから――。
でも、俺の思惑をあざ笑うかのように、ドアはゆっくりと開いていった。そして、開いたドアの隙間に立つ神木沙里と目が合った瞬間、気付いた。
俺が今ここに立っているのは、逃げの理由を作り出すための、口実でしかなかったことに。
そんな俺の心中なんて知るはずもないのに、神木沙里の無表情な顔から向けられる静かな瞳は、全てを知っていてなお向けられているような気がした。昨日のことも、今俺がここに立っていることも、全ては神木沙里に操られているような感覚が、俺の背筋を伝った。
それなのに、神木沙里はまるで興味がなさそうに俺から目を逸らした。そのまま、玄関の外に俺を放ったまま、部屋の奥へと引き返していく。
その行為にさえ感じる意図は、果たして神木沙里の思惑なのだろうか。部屋の中に入るのも、引き返すのも自由なはずなのに、玄関の中に足を踏み入れている今の自分の行動に確信が持てない。
薄暗い部屋の奥で、神木沙里は静かに俺を見つめていた。